キラキラネームは不幸の元凶!?美しい名前を付けることの代償とは
戸籍法改正で「キラキラネーム」が規制されると話題になっています。

以前より、キラキラネームだと就活に不利と言われてきました。
統計的にも、キラキラネーム(読みにくい名前)の人は、人生で不利になる要素があるようです。
動画0:00~
読みやすい名前の人は、読みにくい名前の人に比べて(中略)社会的に高い地位につきやすいということを明らかにしています。
動画4:50~
統計学的に「良い名前」とは、読みやすい名前が良いです。
なるほど。
「名前をキラキラさせても人生はキラキラしない」(動画2:07~)
キラキラした名前を付けた子どもがキラキラ輝くかと言ったら、逆効果を及ぼしてしまうことがある、ということですね。
これは昔から言われてることですね。
「幸子の幸は不幸の幸」
「望の望は絶望の望」(糸色望先生…)
「剛は弱し」
こんなふうに、昭和の頃から言われてきました。笑
付けた名前の通りに生きられるなら「名前負け」なんて言葉は存在しませんね。
実は、算命学でも似た考えがあるのです。
「不幸で運の悪い格式にこそ、華やかな名前を付ける」という。
華やかに出世できる格には地味な名前を付ける。悪い格には良い名前を付ける。そうすることで陰陽のバランスをとるということです。
ですから、親が気合を入れて「いい名前」を子どもに付けることで、その子の運勢が暗転してしまうという考え方もできるのですね。
姓名判断で大変いい名前を選んで付けたのに、殺人を犯してしまう例もありますからね……。


占い好きの人は「運勢で全てが決まる」と考えてしまう場合があります。
しかし、運勢は縦糸にすぎません。
そして、「自分の意志」が横糸。
縦糸と横糸が上手く組み合わさってこそ、美しい織物が出来上がります。縦糸だけでも足りないし、横糸だけでも足りません。

いくら「占いでいい名前」であったとしても、本人の心がけが悪ければ人生は暗転します。
逆に、本人の心掛けが良ければ占いで悪いといわれても人生は好転するものです。
(ちなみに、私自身の名前も姓名判断ではよくないと診断されております~)
易でいうというところの「心がけが良くなれば凶も吝になり、吝が吉になる。心が正しくなければ吉も吝になり、吝も凶になる」というところですね。
東洋の哲学では「中庸」を尊びます。
ですから、名前も華やか過ぎず地味過ぎないものが、本当はいいのかもしれません。
名前は地名のように、淡々と名づけるのが良いのかもしれませんね。
「一番目に生まれたから一郎、二番目だから二郎」「田んぼの中にいるから田中」「丙午の年に生まれた五男だから炳五(坂口安吾)」みたいなシンプルな名づけって、手抜きに見えるかもしれないけれども結果的には良いのかもしれません。
わざと悪い名前を付けることで不運を避ける~アイヌの文化
良すぎる名前を付けると、かえって不幸になる。
それを逆手にとったのがアイヌの文化です。
アイヌの文化では、「変な名前、汚い名前」を子どもを病魔から守るために敢えてつける風習があったそうです。

オソマちゃん。
女の子なのに、うんこちゃん……。

ところで、歴史上の人物を見ていると「どれが本当の名前?」と戸惑ってしまうことはありませんか?
たとえば、伊達藤次郎政宗。
徳川次郎三郎家康。西郷吉之助隆盛。坂本龍馬直陰。
源義経って、歴史ドラマで「九郎」「九郎」って呼ばれますよね。
「義経でしょう? なんで九郎?」と思いませんか?
実は上の偉人の名前。
苗字+字+諱を並べたものです。
諱は「魂の名前」。字は通称、物質界の肉体の名前です。普段はこの字で呼ばれます。
本当の名前(諱)は隠して普段は使わないのです。魂の名前を知っていると、呪いをかけることができますから。
これもアイヌの「わざと汚い名前を付ける」に通ずるものがありますね。偽物の名前(俗世での通名)を持たせることで、本当の自分、魂の自分を守るわけです。魂と結びついた真名は明かさないのですね。
この諱の風習、中国からもたらされたもののようです。
例えば、三国志で有名な諸葛孔明。諸葛亮とも呼ばれますよね。
孔明は字で、亮が諱です。

高次の存在に「自分はここにいる」と教える名前の役割

易を立てるとき、必ず住所氏名を唱えてから占いをはじめます。
「東京都文京区西片1丁目にお住いの山田次郎さん昭和45年生まれ」みたいに、占う人の情報を唱えてから筮竹を操作します。

へんなことをしますね
神様なら名前なんて呼ばなくったって
人間のことはすべてわかっているんでしょう
そう思われた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、この作業、大切です。
スピリチュアルカウンセリングを日ごろからやっている私には、その重要さがわかります。
お客様に先月、こんなメールを頂いたことがありました。

ガイドに私が絶望している時に助けてほしかった
ガイドを近い存在のように勘違いしていたのかも
こんな時、ガイドは大抵平然としており、その悲しんでいるお客様に寄り添う感じはありません。なぜなら、魂のプロセスとしては至極順調だからです。人間とは視点(観点)が違うのです。
彼らにとっては「それはあなたにとって必要な学びのプロセスだ。至極上手くいっているのに、どうして手助けする必要があるのだろう。手を出したらかえって邪魔になってしまうではないか」くらいの感覚です。
人間と高次の感覚は、かくにもズレます。
私自身もその齟齬を難しく感じることはありますね。
だから、ちゃんと、説明しなければならないのです。
「私はここにいて、こう感じて、こういうことを望んでいる」と。
それこそが三次元の人間感覚なのだと。
高次のあなたたちにとっては些末に見えて下らない事を考えていると思われるかもしれない。けれども、それが人間なのだと。あなたにとっては重要ではないのだろうけれども、私にとっては重要なのだ、と。
易占に入る前に住所氏名年齢を敢えて口に出すのも、高次の存在(神様)に「私という存在は今三次元にいるがゆえにここまで限定されたものになっているのですよ」とあえて教えている行為と言えます。
だって、高次の存在の感覚(二元性に縛られない状態)ではこうですから。
「あなたは私」「私はあなた」
「私は男であり女でもある。私は神であり悪魔でもある。私は善であり悪でもある」
そう、ワンネス。
すべては一なるものの中に。
つまり、分離していないのです。全ては一つだから。
それを三次元感覚に落とし込む。一から分離しなければならない。
じゃなきゃ、私もあなたも有村架純も同一人物になります。
私もあなたもキリストです。私もあなたもチンギスハーンです。
でも、それは三次元の「リアル」ではありません。
本気でそんなことを言っていたら精神病院送りになります。
実際、私もあなたも有村架純さんではありません。大変残念なことではありますが……。
だから、「名前」が必要なのです。
「私はここにいます」と三次元での座標を示すために、名前を発する必要があります。そうすることで、「他の誰でもない自分」という分離がなされます。言霊はかくも偉大です。
ですから、私はセッションの時に必ずお客様の名前をお呼びします。ちゃんと三次元存在である限定した人間であることをガイドに知ってもらわねばならないからです。
「三次元に生きるもの」として、かくも名前は大切です。
キリスト教で洗礼に立ち合う人をゴッドファーザーやゴッドマザーと呼ぶのも、「名づける」という行為の重さを象徴しているのでしょうね。
現代は、ネット上で本名以外の名前を名乗ることも多いです。いわゆるアカウントにつけた名前、ハンドルネームだったり活動名だったり源氏名だったりですね。
それはネット上での名前が「字」になり、本名を「諱」の役割にしているとも言えます。
本来、魂の名前は隠さねばならないのです。ですから、表に出る時は別の名前を付けて名乗るのも、文化的に自然なことなのかもしれません。
自分の魂の名前「諱」を、自分で名付けてみるのも面白いかもしれませんね。
魂と会話をするときは諱で呼んで、内なる対話をして向き合うというのも、いいかもしれません。