甲野善紀先生の本、古の武術から学ぶ 老境との向き合い方を読んで
「うわっ!先生もそんな経験をされていたんだ!」
と思うシンクロがありました。
「食」に関する気づきです。
武術の稽古の一環として、自分の身体と向き合うこと、健康法や治療法とは異なる「体調の変動に対応する武術」があることに気付いたのです。
そのことに気づいてまず変化したのは、食べる量でした。それまでは頭の知識として「食べすぎてはいけない」などと思っていましたが、ふと食欲というものを技としてとらえ、自分の感覚を武術モードにして「今、食べているこの量が本当に自分にとって必要な量だろうか」と問いかけていると、食事の量が驚くほど減っていったのです。(中略)
食べることも武術の一つとしてとらえ、自分の感覚を研ぎ澄ませていると、食べ終わった時に満腹感があると速やかな対応ができないために体が拒否することを実感しました。そうすると自ずと食事の量が減っていったのです。それも「自ずと」減っていったのであって、食べたい気持ちを我慢しているという感じは全くありませんでした。
何より食べる量が無理の減ったことで、体が軽くなったことはもちろん、一体何10年ぶりだろうかと思う程、心身がすっきりし、安らかになりました。呼吸のたびに心地よい空気が入ってくる様な爽快感を得られたのです。
そうした心身の爽快感を思えば、それまで食べすぎていたことは明らかでした。人間は、「気分転換のため」「栄養を取るため」「食事の時間だから」といった思い込みで体にとって本当に必要な量以上に食べているのでしょう。「免疫力をつけるために栄養をしっかりとって」などとよく耳にしますが、むしろほとんどの人は食べ過ぎて身体に余計な負担をかけているのではないでしょうか。(中略)
昨年の4月から5月にかけては、食べる量がそれまでの六割減というぐらいまで減らして行くと、どこかで「もっと減らせる、もっと減らせる」という興味のようなものが湧いてきて、七割ぐらい減らし、体重も57キロから58キロあったのが53キロぐらいまで減ってくると、さすがに動くのが少し大変になってきました。
そのため、その後、食べる量を意識的に増やし、以前の食事量の二割減ぐらいになっています。 ただ、今でも忙しい時は一日一食のこともよくありますし、体重は55キロ前後で、だいたい落ち着いています。
古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 p169~173
すごい!
すごい!
私も僭越ながら似たような経験をしたんです。
アシュタンガ・ヨガをはじめたころ。「頭の声」ではなく「お腹の声」に耳を澄ませてみたら、意外と体が「食べたい」って思ってることは少なくて。たいてい頭の声でストレス解消に「必要もないのに食べてる」状態だったんですね。
しかも、アシュタンガのプラクティスを重ねる中で、プラーナからエネルギーが入ってきてお腹が空かなくなりました。甲野先生のおっしゃる「自ずと食事の量が減っていったのです。それも『自ずと』減っていったのであって、食べたい気持ちを我慢しているという感じは全くありません」これです!同じです!!
それでお腹ぺたーんって、腰骨浮き上がるくらいやせちゃったんです。「こりゃちょっとまずいなあ」と思って、食事量を戻して太りました。ここまで同じ、甲野先生と同じなんて、うれしい!笑
そして、この体験に関する甲野先生の気づきが、またすばらしくて!
この食べる量を減らしていた頃に感じた目が覚めたときの何かに吸い込まれていくような気持ちの良さ、食べるのが惜しくなるような感覚を得て、私が実感したのは「 この先、自分が面倒な病気というか、体調が悪くなった時、少しずつ食べる量を減らしていけば、本当に静かに安らかにこの世を旅立てるな」ということです。
古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 p173~174
いや、そうなんですよ!
本当にそうです!!大興奮。
断食やって「うまく乗れた時」って、本当に体が軽くて気持ちよくなります。まさに爽快で目が覚めたような感覚になります。
だからこそ、長期間(1週間以上)の断食は、指導者の元でやったほうがいいとも思います。だって、気持ちよくて「食べなくていいやぁ~」ってなってしまったら、下手するとそのまま死にますから。
よっぽど慣れている方は1週間の断食でも一人でこなせるのでしょう。けれども、断食に慣れていない人は「今日から回復食入りましょうね」って、ディレクションしてくれる人がいたほうがいいのではないでしょうか。回復段階が一番難しいので。食べないよりも食べ始めるほうが難しい。
そして、あの「食べないことによる気持ちよさ」がわかると、実は「餓死に対する恐れ」がそれほど感じられなくなります。食べないと意識がふわ~ってして、ふわ~ってしたまま死ぬんだろうなと想像できるからです。
私、塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んだときに、人生に対する安心感が芽生えたんです。なぜなら「ローマの偉人は死期を悟ったら食べ物をとることをやめ、水だけ飲むことで死んでいった」という内容が書かれていたから。
古代ローマの偉人は、「自分、最近ボケてきたな」とか「もう十分生きたな」とか「これはもう不治の病だな」とか思ったら、食を断って水だけ飲む生活にシフトした。つまり、死期を自分でコントロールしていたそうなんです。
私はそれを見て
「そっか!食べなきゃ死ぬんだ!水だけ飲んでれば死ねるんだ!!」
ってビビビっときて、すっごい勇気凛々になりました。(我ながら変わってると思います……)
生きてると「永遠に生き続けなきゃならないような気分」になりませんか。「永遠に自分がこの世界に存在してなきゃならないような気持」になりませんか。それって私にとっては絶望で辛いことです。そう思うからこそ子ども作ることも躊躇してしまったくらいに。

でも、このローマ人の物語を読むことで「水だけ飲んでたら死ぬんだ」という事実を認識することで、救われたんです。もしどうしようもない辛い病気になったり自分がもう認知症になったりしても、そういうときは食を減らしていって最後は水だけ飲めばいいんだって。
だから、どれだけ辛いことになったとしても、大丈夫!
ソリューションはある!
って勇気づけられたのですね。
「お腹空いたー食べたいよー」なんて、まったく食べてないときは感じません。「ちょっとだけ」食べた時には猛烈に感じます。まったく食べなければ、そんなに食欲ってわかないんですよね。
食べられなくなって一切食べなければ、ウトウトして穏やかに死ねると思います。胃ろう(経管栄養)とか点滴とか「余計なこと」をしなければ。
現在は法律が色々とこうした死期の迎え方に介入して来ますから、誰もが出来る訳ではないかもしれませんが、理解のある医師と出会えば、もう70歳を2年も超えた、昔なら十分に生きたといっていい年齢なのですから、余計な治療はせずに静かに見守ってもらって、この世を卒業したいと思っています。
これは一時的な衝動的自殺ではなく、長年にわたって自分がどう生きるかを考えてきた結果、自分にとってより納得のいく生き方としての選択で、そうやって食を減らして行くうち「生きたい」という思いが湧いて、体も回復してくれば。 また、生きつづければいいだけですから、このような最晩年の過ごしかたが社会の理解を得られ、特別のことではないようになることを願っています。
古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 p173~174
本当にその通りですね。
覚悟をもって生きる人間に、望まない延命処置は侮辱であるとすら思います。
命の尊厳を守った看取りのできる、心あるお医者さんが増えてくださると良いですね。
さて、この甲野先生の本の中にはそんな覚悟をもって生き、覚悟をもって死んだ先人のことも紹介されています。
最後にそんな素晴らしい女性を紹介して、この記事を終えることにいたしましょう。
油井真砂という尼僧は、心願のための長い断食を経て、その願いがかなったので食を取ろうと野菜汁を口にしたところ、身体が受け付けず吐いてしまい、「やっぱり身体のほうが受け付けませんね」と死期を悟ったそうです。
そして周りがうろたえているなか「だからもう肉体はいらないよ」と、まるで隣町にでも引っ越すかのようなさりげなさで、その10日後に座脱(正座したまま息を引き取る)して73歳でこの世を去ったといいます。
それだけ覚悟が定まっていたのでしょう。
古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 p2~3