「お前は魔に入られている……」自分のエネルギーを守らないと、危ない!

お客様の声(体験談)

神奈川県
きり様からの
体験談

○日はヒーリングありがとうございました。
終了後、いただいたPDF(Nozomi注:ヒーリングレポート)を見て鳥肌が立ちました。「魔に入られている」って穏やかではない。
でも他者のネガティブなエネルギーを向けられていると言われると、心当たりがありました。
そして、使っていただいた石の並びが「苦しげに歪んでいる顔、もしくは怒っている顔のよう」とのご指摘とその画像をみて、私が今回ヒーリングを受ける理由はこれをどうにかしたかったんだ、と腑に落ちました。

きり様のヒーリングで使ったパワーストーンのマンダラ

職場が今少し混乱と多忙な状況が続いているせいか、時々、私の中でもがいて暴れている何かの存在を感じていました。インナーチャイルドが暴れているのとも様子が違うようなので、これが何なのかセッションを受けてお尋ねしてみようと考えたのですが、「忙しくて少し疲れている」以外の自覚症状がなく、ガイドへの質問としてうまく言語化できなかったんです。
でもこれは、表に出せていなかった怒りや苦しみが溜まって大暴れしていたということだったんですね。
混沌とした状況を乗り切るために何でも引き受けざるを得ない面はあるのですが、自分でなくてもよい作業や、引き受けても成長に繋がりにくい役割をまわされる場面もあり、それがちょっと恣意的に行われている印象を持つこともあります。この、忙しさを理由に他人の都合のいいように使われてしまっているかもしれない状況に対し、自分は対処ができておらず、また本当は不満を感じていることに無自覚でした。
それどころか周囲の要求を気にするほうに労力を割いていたので、そこでエネルギーを消耗してしまい、自分を守る力が弱っていたのだと思います。

今回のヒーリング最中、大地のエネルギーが足元から入ってこようきた時に、一瞬怖くて足を引っ込めそうになりました。力強いというより凄くおどろおどろしく感じたのです。その直前に天のエネルギーで満たされていた時には素直に心地よくて涙が出たのですが、いきなり引きずり降ろされて強制グラウンディングさせられた印象で本当に強烈でした。それだけに、全身大地のエネルギーに包み込まれたら体がどっしり安定した感じです。
(足を引っ込めそうになったのにはもうひとつ理由があり、こんなに傷だらけなのに人間にエネルギー分けなくていいよ地球!って咄嗟に感じたのです。
地球環境がこれだけ荒んできていても、スピリチュアルな部分での地球のエネルギーの質には影響はないのでしょうかね?ここは感想とは別で、個人的な疑問です。)

今後は自分で自分を守るバリアーをしっかり維持しないとですね。
現実の体のコンディションが良くないとバリアーを張れない、というのは本当にそのとおりだと思うので、よく食べてしっかり休む、当たり前ですが規則正しい生活を心がけたいと思います。

そして、お誕生日プレゼントのメッセージ(Nozomi注:リピーターの方限定のサービスです)でいただいた「死を恐れない。気持ちよく手放す」。
私の太陽のサビアン(乙女座25度)とも共通するテーマで、いよいよ向き合って乗り越える必要があるタイミングに来ているんだなと感じました。
奇しくも職場で他者から向けられているネガティブな影響の根源も「その人が手放した役目や仕事への執着」にあるように思うのです。手放さないことがかえって混乱を生んでしまう。本当にそのとおりだなと思ってしまう鏡が身近にあります。
今まで成し遂げたり、安定して持っているものを手放すのは不安ですが、本当に必要なこと、自分がやるべきことにのみエネルギーを向けて生きていくためにも、この1年をかけて手放し上手になっていきたいと思います。

ヒーリングだとセッションと違って具体的にガイドとお話するわけではなく不安もあったのですが、適切なタイミングに受けるのが大事なのはどちらも変わりないですね。
気づきの多い機会となりました。ありがとうございます。

今年は台風が多く、北海道まで雨風の影響が残りそうなものも多そうです。
本来であれば過ごしやすい季節かと思いますが、ご自愛ください。

Nozomiより

いや本当に、雨ばかりで洗濯ができなくて困っております!(この「いや」は否定ではなく感嘆詞の「いや」です。笑)

週間予報を見ても雨が多いので、晴れ間を狙って一気に洗濯をしてしまいたいところですね。

さて、ヒーリングを行う時には、まずヒーリングエネルギーを与えてくれるマスターにご挨拶をします。あくまでも私は「媒介」であって、ヒーリングの力はマスターによるものだからです。

今回きりさんのヒーリングを行うにあたって、パラスアテナが力を貸してくれました。とてもきりさんに合ってるな、と思いました。アテナはご存知の通り、気高き戦いの女神です。(そしてパラスを失った痛みを知る女神でもあります)

マスターにご挨拶をした後、エネルギーの媒介を行う装置としてパワーストーンでマンダラを作ります。
きりさんのために作ったのが、下のマンダラです。

石を並べ終えた後、私は正直ぎょっとしてしまいました。
「ものすごく怒ってる、苦しそう」と感じたからです。

普段のヒーリングで作るマンダラはもう少し丸っこいというか、調和的というか、「整った感じ」があるものです。例えば下のように。

でも、きりさんの場合は、マンダラからして戦っていたのです。マスター・アテナが呼ばれるのも当然のことです。「これは、闘いについてのヒーリングセッションなのだな」と思いました。

そして、このマンダラで印象的なのが「右目」。
ホルスの右目は「ラーの目」と呼ばれ、松果体や太陽の象徴。
そしてきりさんへの救いの道も、この右目であるフローライトが示すことになりました。

足を引っ込めそうになったのにはもうひとつ理由があり、こんなに傷だらけなのに人間にエネルギー分けなくていいよ地球!って咄嗟に感じたのです。
地球環境がこれだけ荒んできていても、スピリチュアルな部分での地球のエネルギーの質には影響はないのでしょうかね?

この言葉を頂いた時に、私が真っ先に思ったのが「ライトボディの目覚めと同じことを言っている」でした。

この本の中に紹介されているワークの一つに、ちょっと変わったグラウンディングの方法があるんです。ストレートにグラウンディングするのではなく、分散してグラウンディングしようと。

なぜそんなやり方をするかというと、地球自身が今混乱の中におり、そんな地球に直接的にグラウンディングするのは荷が重いから。そんな趣旨が書かれています。

「スピリチュアルな部分での地球のエネルギーの質には影響はないのでしょうか」ということに関する私の見解は、「どこ(何次元)とつながるか」ということになります。

地球自身が多元的な存在で、低次の地球もあれば高次の地球もあります。だからある人たちはその「高次の地球へのアセンション」を目指しています。私自身は、「もう地球経験は良いかな~」派なので、そこは目指してません。

確かに三次元地球へグラウンディングするのは結構きついかもしれません。ですが、それが意味のないことであるとは思いません。三次元地球に一度は根づいてその苦しみを知ることなしには、本当の意味でこの世界に光をもたらすことはできないと、私は考えています。

弟子の足を手ずから洗ったキリストのようなものです。
高貴なる存在が、そこまでして、そこまでへりくだるからこそ、低次に高次のエッセンスを示すことができます。そういうミッションもあります。

乙女座25度のサビアン「公的な建物の前に掲げられた半旗」。

仕事を責任をもって果たすことのできた人は、そろそろ乙女座のサイクルを終わるにあたって、さらに高度な精神的な道に入る準備をする。世俗的な意味での職業経歴は、この度数でほぼ終了し、彼は自由な身にならなければならない。だが、たとえばこの人がいなくなっても、会社が傾かないように後継者を育てたり、今後の収入面を維持できるような準備をしたり、残務整理的なことに気を配らねばならない。より高度な世界に赴くために、経歴を完成させること。反旗というのは、弔意を示すので、社会的な経歴から、この人が手を引くこと、すなわち職業人としては死ぬことを意味している。かといって、いきなり手を引くのではなく、いままでの水準を落とさないようにして去る、という工夫に力を使わねばならない。

サビアンシンボル

乙女座と天秤座の転換点は、劇的です。
なぜなら、「自己」と「他者」への転換点だからです。世界観が180度変わります。

職業人として死ぬ。私もサターンリターンの頃に経験したとも言えるかもしれません。普通のお勤めの人から、こちらの世界に入るという意味で。

それは怖い経験です。
だって、私は「ホームレスになるかも」って思ってましたもの。

そこで心から手放せるかどうか。
試されますね。

しかし、本当に手放して赤子のように降参して、「もう好きにしてください」と力を抜いた時(そう、交感神経ではなく副交感神経優位になった時)に、フワッと大きな波がやってきて、自分を包んでくれます。

これは、ありえないくらいの感動と安心感を与えてくれる経験です。
だって、今までのように努力して積み重ねて頑張ったからこそ成果が出るのではなくて、何もしないでただ「在る」、それだけで宇宙は自分を護ってくれてるのだと、頭ではなく心から実感できる体験だからです。

西田天香さんの経験とも通じますね。

杉本という真面目な国の友達からトルストイの『我が宗教』を一部贈ってくれました。当時の私にはなんだかそれがふさわしいような読み物ででもあったとみえて、一気呵成に読みゆくうち、巻末の「わが告白」という一節の中ほどに、「生きようとするには死ね」といったような文字にぶっつかりました。この死ねはきわめて無造作に、露骨に私に響きました。「死ぬと決心すれば、生き返る」という功利的なものではなく、「浮かぶ瀬のあることを予測して身を捨てる」のでもなくて、ただ、人をしのいで生きることは、しのがれる全体の死ぬことだ。

全体が生きるなら自分が死んでも本懐ではないか。自分も他人もただ水面に生じた泡沫のようなものでその泡沫に執着するのは全体たる水を知らぬためである。

死んだとて何物も消え去るのではない、生きようと思わば死ねという言葉は、上のように解釈して差し支えはない。無理に他をしのいで生きることは死ぬることである。

運命を天に任せて、食えなければ本体に還ればよい。死ねとは迷妄から離れよとのことで、悟れば全体が自分なのである。

「よろしい、死んでしまおう」といった感じに全く私はうたれてしもうた。

懺悔の生活 転機 P81

このあと天香さんはまったく何も持たずに京都の市中でホームレス生活を送り、堂にこもって断食します。そして赤子のように求めれば与えられるという悟りを得ます。

まっさらな気持ちで奉仕すると、不思議なことに食べ物が与えられる。それどころか奉仕先の家の人から大切にされて、どんどん縁がつながり、不思議と導かれていく。

天香さんがそんな体験をしたのも、「よろしい、死んでしまおう」と手放し切ったからです。凡人には難しいことかもしれませんが、こういうことをまっさらにできると、本当に宇宙は奇跡を見せてくれます。

きりさんも、そういうところに来ているのかもしれませんね。
どうぞ、宇宙の恵みがありますように。(より正確にいうと、恵みがあるのは当たり前なので、それを「開いて受け入れられますように」)

タイトルとURLをコピーしました