「向き合うこと」が正解とは限らない。

精神世界:スピリチュアルブログ
写真AC

今私は、Youtubeで元消防士が語る実話動画を見ています。

見てて、思います。
「消防士の元彼と、全く同じこと言ってるな」と。
消防士の彼も言ってました。「水死体が一番ヤバイ」って。

ピュアで真面目な人って、危うい

私、ディセンダント山羊座なせいか、警察・消防・自衛隊←これ系の男性とメチャメチャ縁あるんですよ。もちろん警察・消防・自衛隊じゃなくても「お堅い組織でお堅いお仕事をしている真面目人間」と縁があります。

本当に山羊座系。
山羊山羊イメージの男に弱いです。心つかまれます。
メェェ~!(いや、それだと特殊性癖……)

でね、このチャンネルの動画を5本くらい見て、私すごい心配になっちゃったんです。この動画内の「タイチョー」さんが、真摯に命を救いたいって思ってる人だったから。

「そんな姿勢で消防士やってたら、メンタル持たないでしょ」って。
あの組織の中で、そんな真っ直ぐなマインドで消防士やってたら、無力感で精神病んじゃうよ、って。

実際、元彼が、そうでしたから。
「やめたい、もうやめたい」って言ってましたから。消防士。
「助けられる人なんか一部で、助けられない人も多いんだよ」って。辛そうだった。

それなのに夜二人で並んでぐうぐう寝てる時、近所で交通事故の車同士がぶつかる音がドカーン!ってしたら、ガバッて飛び起きて現場に飛んでいくんですよ。「えっ、何?」「Nozomiは寝てて!」って。

真面目ですよね、ホント。
非番なんだから寝てればいいのに!

実際、消防で何十年も務めてられる人って、酒に溺れてたりメンタルやられてたりメチャクチャ感情死んでたりする人もいるのです。これは医者でもそうです。生々しい特殊な死者を日常的に見る職業って、過酷なんですよ。震災の後で津波の現場に当たった自衛官も帰還兵並みにPTSDがひどいって話をきくくらい。

この動画のレベルでまっすぐに向き合うのは無理でしょ。しかも、大組織(宿命として秩序を保つために硬直した集団)で。

でも、タイチョーさんは現役消防士じゃないと知ってホッとしました。いや、退職して別のアプローチから人命救助に関わっていこうとするなら、このまっすぐさでも生きていけますよね。

あーよかった、現役じゃなくて。
現役なら「この人3年以内に死んじゃうんじゃないかな」って、心配になるところでした。

向き合うべき時と、向き合わないほうが良い時

最近、「自分と向き合う」とか「相手と向き合う」とか「仕事と向き合う」とか、そういう「何かと向き合う」って行為がすごく良いものとされている風潮がありますよね。

これって、少々危険だなと思います。
なぜなら「向き合う」って、非常に精神力のいることだから。

私は今、いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。のワークをグループでやっています。

この募集の中で、結構強い言葉で「精神疾患のある人お断り」「メンタルの薬を飲んでいる人お断り」と書いています。

なぜなら、このワークは「自分と向き合う」内容だからです。
自分と向き合うのって、メンタルの状態がそれなりに安定している人がやってこそ効果的です。情緒不安定な人がやると逆効果になってしまいかねません。

瞑想をするとメンタル病む人がいるのと同じ原理です。
メンタルのコンディションが整ってない人に「向き合う」は時に危険行為になります。おすすめできません。

リンデンバウムのセッションも、自分と向き合うものです。だから、精神科に通院中だったり服薬中の方、メンタルの弱い方、情緒不安定な方はお断りしています。適応にはなりません。

そして、もともとメンタルはそこまで弱くなくても、「非常に過酷な状況下に置かれている人」にも「向き合う」は不適な場合があります。前例の消防士や医者などですね。

「アジの開き」とか「マグロ」とかグチャグチャの事故死体を見たり、人の原形をとどめていない水死体を見たり、焼身自殺の現場を見たり、そんなトラウマレベルのことがホイホイ起こるような職業の人が、自分の感情をいちいち繊細に拾っていたら、やっぱ、まずいです。パーンします。

鉄仮面で表情乏しく患者を処理する医者に対して「向き合ってない」とか「寄り添ってない」とかいう意見もありますけれども、そういう人ってメンタル弱いんですよ。そこまで強くない。だから自分を守るために「ロボット化」しないとやってられない。(その副作用で家族と心が通わなくなったりするのがまた悲劇なんですけれども)

そういう人も、定年が来たあとや一線を退いた後は、心の棚卸をして今まで見てこなかった自分の暗部に光を照らしたほうが良いとは思います。ユング風にいうなら、社会的なペルソナを備えた後で魂の全体性をとりもどす作業に移るのですね。

もしくは、現役中でも長めの休暇を取るようにして、その間は自分をゆるめて(余裕があれば)向き合う時間にすると良いでしょう。
でも、これもあまり深くやってしまうと休暇明けの社会復帰がきつくなってしまうので、ほどほどにという話になります。

どっちみち、「しっかりと向き合って」しまうと、仕事をこなすのがきつくなってしまう可能性があるのです。

濁りを生きる

ところで今って、きれいごとを言いますよね。簡単に。
人間ってきれいで汚くて、どちらの面もあるのに、きれいなところばかり見ようとしますよね。親も先生も、子どもにきれいごとを教えますよね。

もちろん、親も先生もきれいごというのは、ある面では仕方ないです。それが良識ある大人の役割だったりもしますから。

そこで子どもが「大人ってきれいごと言うけど、口先ばかりであてにならないな~」って賢く見抜く力があれば問題ありません。でも、それを真っ向から信じちゃう「そうだよね!世界は希望にあふれてるんだよね☆」みたいな、ピュアな子どももいます。

こうなるともう事故です。
その子は社会適応が危うくなってしまいます。その純粋さ(真面目さ)ゆえに。

あの~、私、例の小林麻耶さんも、非常にピュアな方なんだと思いますよ……。
だから、ああいう感じに、なっちゃってるんだな、と……。(そして、夫の國光さんも、すごいピュアなんだと思いますよ……他者にどのような印象を与えるかを気にせず、ピュアに自分の感覚を優先するから、ああいう動画になるわけで)

話を戻して。
この二元性の世界を「現実的に」生きていくのにどうしたらいいのか。

この命題にユングは、第一段階としてはペルソナをつけろというのですね。社会的仮面をかぶって、社会適応しろと。そうすることで、無意識(元型)に呑まれてしまう危険性を回避できると。

それをすっとばしてピュアにスピリチュアルに走りすぎると、心のままに自分と向き合っちゃうと、やっぱりちょっと危険なんじゃないのかなと思うのです。特にテクノロジーが発展した21世紀の今では。

もちろん、ペルソナをつけた後には、魂(セルフ)を取り戻していきます。最終的にはそうやって「向き合って」いくことにはなります。でも、その前段階ではペルソナ(社会的に好ましい仮面)をかぶることも必要です。

その「ペルソナをかぶるプロセスってこれだよな」と思ったマンガがあります。
半グレです。

丸山ゴンザレスの裏社会ジャーニーでおなじみ、草Pが原作を担当しているマンガ。これはガチでしょう。

これ、「地上に受肉している人間の比喩」としても使える表現だなと。
純粋な魂として存在していた時には輝かしい光であり愛であった”存在”が、地上に降りて肉体に閉じ込められると神聖さと邪悪さ両方を持ち合わせた”人間”になる。

この世界を生きる人間は、濁りの中を生きているわけです。
それを「自分だけは純粋な愛と光(真水)の中で生きるんだ」とやっても、無理が来てしまいます。
ちゃんと、濁りを見ることが必要なのです。神の暗い面を。

このマンガの場合、主人公は「濁り」の中で生き抜くためにどうしたか。

亡き父とつながる腕時計。それは彼にとって最も純粋で美しい「真水の世界」を象徴するものです。それを汚れた世界に持っていく。

この二元性が素晴らしいなと思いました。
矛盾しているように見えるかもしれません。
でも、「矛盾している状態を、一旦飲み込む」ということも、この二元性の世界では必要なプロセスだと私は考えます。

誤解しないでいただきたいのですが、それこそマンガそのまんまに犯罪とか詐欺とか、そういうグレーなことをやれという意味ではないですよ。
そうではなく、濁り(二元性の世界)を生きるには心と体が矛盾した状態に遭遇することがあるということです。

国宝「明恵上人像」高山寺(京都)

鎌倉時代前期の華厳宗の高僧、明恵みょうえ上人は素晴らしく霊性の高い清らかな人でした。
しかし、肉体がある以上、明恵にも肉体的な欲望があります。女人との性的な夢すら記録しています。

しかしながら、明恵はその矛盾を見事に意識の中で統合し、仏教では低く見られていた女性(及び女性的な力)を肯定的にとらえました。

ピュアな目で見るならばこれは「けしからんこと」です。だって、お坊さんが女性と性的にふれあう夢をみるだけでも汚れていると言えるわけでしょう。それに修行の邪魔になる女性に価値を認めるだなんて、当時のお坊さんにとっては破戒ですらあったでしょう。でも、明恵は素直に女性と夢で触れ合ったことを記したのです。

そんな人だったからこそ、数々の神秘体験をし、地上にありながら宇宙的に生きることができたのでしょう。内なる男性と女性の結合が、明恵の中にはあったからです。本来ならば矛盾して対立する男と女という性質を、統合させていたのです。

狭い固定観念を変えようとしない人、とくに父性性の法則に基づいて生きている人には心理的な成熟は望めない。女神を無視すると、不毛ですり減った人生を送らねばならなくなる。虚しくて何のために生きているのかわからない人生が忍び寄ってくる。そして愛の喜びの代わりに、権力への脅迫的な欲求に支配される。

しかし女性の本質が、下衆な性欲のはけ口ではなく、取り込まれるべきエネルギーとして評価されるならば、心の深みが開花し、実り多い新しい人生が開けてくる。

聖娼―永遠なる女性の姿 p86

自己と向き合い、気づきを深化させることは大切です。
しかし同時に、自分の感情を鈍らせて周りに溶け込むことも大切です。
両方を、やらねばならないのです。この”濁り”の世界では。

「向き合ったほうが良い時」
「向き合わないほうが良い時」
両方が存在します。

そこの難しいバランスを、なんとかかんとかとってください。
どちらかに偏りすぎないように。
それでこそ、濁ったこの世界であなたの聖なるエネルギーを伝えていくことができます。

タイトルとURLをコピーしました