現実とスピリチュアルのすりあわせをどうしたらいい?【経営者お悩み相談】

ビジネス:スピリチュアルブログ
写真AC

福岡県T様から記事リクエストを頂きました!
ありがとうございます!

お世話になっております。昨年の3月にセッションを受けたTです。その節はありがとうございました。その後、事業のほうはこんなご時世ですが何とかやれております。感謝の毎日です。お礼が遅れてご無沙汰してしまい大変申し訳ございません。
こんなことを送っていいのかどうかいまだに迷っておりますが他に話せそうな相手もいないので、不躾ではありますが送らせていただきます。もし不適切な質問でしたらお手数ですが不問にふしてくださいますようお願い申し上げます。

セッションの時にもお話いたしましたが私は40代で大病をしそのことがきっかけで目に見えない世界に興味をもつようになりました。
医者からも見放された病気からの奇跡的な回復が通常の現象だとは思えませんでした。何かがあると直感しました。自分は生かされて生きてやることがあるからこそ回復したのだと思いました。

私は小さいながら親から継いだ不動産屋で細々と事業をやっております。業績は可もなく不可もなくという状態ですが食べていけるだけありがたいと感謝しつつやらせていただいております。病気をするまでは仕事にたいしてなんの疑問もありませんでした。親がやっていたことですし長男の自分がつぐんだなくらいにしか思っておらず深く考えないで事業をつぎました。

その後病をえて深く思考するようになり世の中に疑問を抱くようになりました。この世の中は狂っていておかしいことだらけだと感じます。子どもがいないことに後ろめたさを長いあいだ感じておりましたが今ではこんな世の中で子どもを作らなくて本当によかったと思います。パイプカットした大橋巨泉さんの気持ちがわかります。姪や甥をみると不憫と思います。

それだけならまだいいのですが自分の仕事である不動産業にまで疑問をもつようになりました。

ホピ族などのネイティブアメリカンのスピリチュアルな考え方にふれると心が洗われるようですっきりした気分になります。ネイティブアメリカンは土地を神や地球のものとしていて誰か個人が所有するものではないと考えていました。

私はまったくそのとおりだと思っています。笑ってください。不動産屋の私がそんなことを考えています。
そんなこと考えていたら商売になりません。一方で自分の心の奥で土地を誰のものとすることに対する違和感がぬぐえません。私はどうしたらいいのでしょうか。
直接的な経営の話ではなくて申し訳ありません。

最後になりますが、Nozomi様の益々のご活躍をお祈り申し上げます(^^)

面白い!!
あっ、すいません。面白がることじゃなかったですね、困ってらっしゃるんですものね。

でも、「私有財産権に疑問を持つ不動産屋」ってなかなかのパワーワードではないですか?
そんな自分の事業の根本に疑問を持ってしまったら、それはやっていけませんよね。心中お察しいたします。

しかし勝手に言わせてもらいますが、すごく素敵な視点ですね。ネイティブアメリカンの大地に対する態度を見て、今の日本人(というか西洋的な物質文明)に疑問を抱く。多分、20~30代の頃のT様だったら何の疑問も持たなかったのではないですか?

非常に大きな魂の成長の跡が見えます。
病って、偉大ですね。
(もちろん今T様がお元気でいらっしゃるからこそ、こんなことが言えるわけですが)

さて、この土地の私有財産権については、マイケル・サンデルがハーバード白熱教室で学生たちと論じています。この議論も面白いので、良かったら見てみてください。

動画の一部の日本語訳は、下の記事にあります。

ハーバード白熱教室ノート Lecture7,8 再検討

さて、スピリチュアルな視点で言わせていただくなら、こうなります。
「あなたは正しい。土地は地球のものであって人間のものではない。人間が土地を区切って国だの県だの私有地だの言ってるのが、そもそも愚かなことなのだ」

しかしですね、人間としての私の視点もいれますと、この世界を生きるには二元性を体験することが必要です。陰と陽、男と女、光と闇、どちらかに分かれる体験をするのが、三次元の地球世界というものです。

ですから「虚構だと分かっていながらも、それをやる」という経験って実に地球体験らしいな!って話にもなるんですよね。実に正しく「地球的修行」と行っているなと。

私、今「サピエンス全史」という本を読んでいます。

その中に「虚構というのもがいかに人類にとって大切な要素か」ということが書かれています。つまり、現実にはない虚構(目に見えない世界)を本物のように信じたからこそ、人類はこんなに栄えたのだと。

私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも「気をつけろ! ライオンだ!」といえる動物や人類種は多くいた。だが、ホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンは我が部族の守護霊だ」という能力を獲得した。

虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。(p39)

聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。

そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としか上手くいかない。オオカミやチンパンジーはアリよりもはるかに柔軟な形で力を合わせるが、少数のごく親密な個体と出なければ駄目だ。

ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。だからこそサピエンスが世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。(p40)

サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。

一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。
時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。(p49)

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福
第2章 虚構が協力を可能にした

現代社会にあるものなんか、ほとんど虚構。
お金だってそうですよね。銀行に預けたお金は「信用創造」でお金が作られているだけであって、物質(金や貴金属)に結びついているわけでは実はない。

いや、ニクソン・ショック以前の兌換紙幣であってすら、そんなのはみんなが「価値がある」と思ってるから価値がある(ようにみえる)だけの幻想の代物です。

虚構なのは土地(私有地)だけじゃないんです。
大体のものが全部ウソ。
インド哲学でいうところのマーヤー(幻影)です。

私たちは「ずっと二重の現実の中に暮らしてきた」のです。この二元性の世界を生きるというのは、そもそもがそういうことです。

私たちは比喩ではなく実際に「舞台の上に立って演じている」のです。
国家があるふりをして、会社のあるふりをして、法律のあるふりをして。共同幻想を信じることで、無いものを有るものだと思い込んでいるのです。

舞台の上で歌うオペラ歌手は、本当にその役柄なわけではありません。役柄を演じているだけで、講演が終わったらメイクを落として衣装を着替えてただの(歌の上手い)人に戻ります。けして王子でも姫でも悪魔でもありません。

しかし、だからと言って舞台の上で演じられたオペラが「こんなものは作りもので嘘だ!!」と私たちは言いません。プロレスを観て「なんで敵が技をかけるまで黙って待ってるんだ!?早く逃げればいいのに!!」と言わないのと同じです。

リアル人生だって、似たようなものなのです。
自分に不動産屋という役柄が与えられたというならば、演じればよいのです。「全く滑稽だな。これは喜劇だ」と思いながら、真面目な顔をして客に契約の説明すればよいのです。

もちろん、不動産屋という役が嫌なら、別の役を探すこともOKです。

しかし「不動産屋なんて嘘だ」なんて言い出すと、「弁護士なんて嘘の商売だ」とか「医者なんてインチキだ」とか「政治家なんてまやかしだ」とか、結局何をやっても嘘につきあたります。だって、そもそも全ての職業なんて、虚構なんだもの! ただの役柄にすぎない。

この虚実交わる二元性を体験し、その中でもなお霊性を磨く。
それがこの地球世界での難しい修行であります。
虚構を生きるだけで、修行です。

共和政ローマ末期の哲学者・キケロは「老年について」で以下のような言葉を残しています。

どこかの神様がおまえを老人から幼子に変えてやろうといっても、私は固くお断りしたい。なぜならゴールの手前で無理やりふりだしに戻されたくはないからである。多くの賢者がそうだったように私は自分の生を惜しんで嘆く気にはなれないし、これまで生きてきたことを後悔するつもりもないのだ。

この世はずっと住みつづける自分の家ではない。
いつか必ず立ち去らなければならない仮の宿なのだ。

魂が一堂に会するあの輝かしい場所へ私もそのうち旅立つだろう。そこにはこれまでともに語り合った偉人たち、そしてこの世に生を受けたものの中でもっとも愛するべき(注:先立った)息子が待っている。

私は彼の亡骸を葬った。しかしあの子は私を置き去りにしたのではない。いつか必ず私が会いにくることを信じながら去っていったのだ。だからあの時から今日まで私は心の平静を乱さなかった。

周囲の人々は不幸に堪えている気丈な人間だと思っていたようだが、それは違う。自分と我が子をへだてる別れはそれほど長くはなく、きっとまた会える日がやってくる。そう自分に言い聞かせながらこれまで生きてきたのだ。

私は魂の不滅を信じている。
たとえそれが間違いであっても、私は信じているのだ。

この絶対的な信念があるからこそ私はずっと幸せでいられた。そしてこれからもそう在りたいと願っている。
老年というのはいわば、人生という舞台の最後の一幕だ。十分生ききったと思えばその時が幕引きなのだ。

老年について (岩波文庫) 注及び太字は記事作成者による

「この世はずっと住みつづける自分の家ではない。いつか必ず立ち去らなければならない仮の宿なのだ」
この言葉がすべてを語っています。

そう、肉体に宿っているなんて宇宙の悠久の流れから見たら、ほんの一瞬です。ですから、立ち去ること前提に「じゃあ何をするかな」と考えればよいわけであって、そんなに真剣に生きなくてもよいのではないでしょうか。

良い意味で遊び半分で嘘ばっかの世界を遊べばいいのです。仮のホテル住まいみたいなものなのだから。「土地を個人や法人や国家で所有しているという概念があるふりゲーム」をすればいいんです。

そのゲームの中で霊的に発達した人が神性を発揮することができれば、それに触れた人々は「本質(真理)とは何か」に気づけるチャンスが増えます。そこがこのゲームの狙いです。役柄を演じる意義です。

(だから私はコミュニケーション能力の大切さを強調するのです。人に光を伝えられる人は、人好きであればあるほど好ましい!)

こんなところですが、お答えになっていますでしょうか。
最後に、T様と奥様が素敵なクリスマスを過ごされますようお祈り申し上げます。

経営者限定リクエストは明日12月26日締切です!

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