みなさーん!
今日もバッチリ体育会系!
運動してますかっ!!!
なかやまきんに君の動画見て筋トレしてますかーっ!!!
俺はしてる!!!
あ゛ーき゛つ゛い゛!効くぅ~。
しかしこんな省スペースで筋トレメニューを組めるなんて、さすがはなかやまきんに君だわ!
ヨガマットを敷くスペースがあれば余裕ですね。
3分間動くだけでも、スッキリしますね。
体もすっきりするけど、心もスカッとします。
やっぱり運動って、いいね!
なんでこんな話をしているかというと、この記事が
「スピリチュアルなことに興味のある人は肉体にコミットすることが大事だからだよ!」
という内容だからです。

スピリチュアルなことが好きな人は、頭でっかちになってしまったり、現実が見えてないフワフワちゃんになりがちだったりします。それは別に人格がどうこうということではなく、当たり前の流れです。
だって、想像してみてください。
エネルギーを天のほうに集中するんですよ。そりゃ頭にエネルギーが偏ってしまったり、足元にエネルギーがいかなくてグラウンディングが弱くなったりしがちになりますよね。
ですから、伝統的な宗教の修行では身体的な修行をベースとして入れることが多いです。掃除したり下働きしたりも、そういう意味あいがあるんですね。健全な精神は健全な肉体から。
これはいわゆる「禅病」を防ぐためにも有効です。
禅の経験者に聞いたところによると、坐禅に集中していると幻覚が生じることがあるが、そのときに幻覚の内容に注目するのではなく、自分の坐禅の姿勢をチェックすると、どこか崩れているところがあり、それを正しくすると、幻覚が消えうせる、という。
これなどは、すぐに「こころ」のことを考える前に、まず身体を重視する態度がよく出ていると思われる。
心理療法入門 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション VI) 第2章 心理療法における身体性
こころを整えようとするのではなく、体を整えることを優先するのである。
「こころを整えようとするのではなく、体を整えることを優先する」
これ、普段の日常的な瞑想でも言えることではないでしょうか。
瞑想をするときって、手始めに何をしますか?
まず、安定かつ楽な姿勢を作りますよね。横になったり、座ったり。
そして次に、呼吸を整えます。ゆっくりとした呼吸を意識したり、腹式呼吸をしたりします。
ここまでのプロセス、全て「心」ではなくて「身体」へのアプローチなんです。
坐禅でも、身体状態を整えることで意識を整える、共通していますね。
半眼という姿勢も、精神が暴走して幻想や幻聴に走りそうになるのをセーブするための身体的アプローチと言えます。特に「瞑想をするとすぐに眠ってしまう」という方は、座って半眼で瞑想すると良いでしょう。
スピリチュアルに自己を深めていきたい、気づきを得たいという方こそ身体的なアプローチは大切です。つまり、運動。体を、動かす!
運動するときは、ただなんとなく体を動かすのではなく「どういうふうに体を使えば、自分の身体が喜んでくれるのかな」って意識を向けるんです。
先ほどみたいに筋トレするとスカッとする人もいれば、ウォーキングや水泳などの有酸素運動のほうがスッキリする人もいます。球技みたいなゲーム仕立てのほうが楽しい人もいます。
適切な運動量も人によって違います。
毎日少しずつ続けることが大切なので、無理のない範囲内で体を動かすことです。例えば「通勤時、地下鉄1駅分を歩くようにする」なんてことでもOK。
体の感覚に敏感になっておくと、スピリチュアルなエネルギーを身体的に感じやすくもなってきます。よりビビッドに(現実に役に立つ形で)直感を受け取りやすくもなるでしょう。
「直感はなんとなくあるけど、何を言いたいのか伝えたいのかわからない」という方は、身体感覚を磨いてみてください。
そう、運動です!

逆に、身体状態が整っていないのにスピリチュアルなヴァイブスにどっぷりはまっちゃうと、危ないんです。
それは精神病のような状態と誤解されかねません。
身体状態からこころに迫る方法においては、人間の意識の状態が通常の状態とは異なるようになることが明らかになってきた。そして、それを意識の病的状態とみなすよりは、変性意識、つまり意識の異なる状態ではあるが、それはそれとして価値を有することと認めるようになってきた。
東洋の方法においては、宗教や宗派によって修行の方法は異なるが、要するに身体の鍛錬や修行によって、変性意識状態を出現せしめるが、その際に意識の明晰さを保持することを可能にし、そのときの意識によって、自分の体験を把握しようと試みるのである。
修行によらず、幻覚や妄想などが生じるときも変性意識の一種であるが、そのときは意識の明晰さも弱くなっており、それらは病的体験になってしまう。
心理療法入門 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション VI) 第2章 心理療法における身体性
太字強調は記事作成者による
私のところにもね、「ガイドの声が聞こえます!」とか「自分もスピリチュアルなメッセージを受け取りました」とか、そんな目に見えないものを感知される方がいらっしゃいます。
その時に大切なのが、
・ちゃんと社会生活を送れているかどうか
・健全な人間関係を育み、その経験を積んできているかどうか
です。
この条件2つをクリアしてはじめて「あなたのスピリチュアルな体験は素晴らしいですね!」ということができます。この条件をクリアしていない、例えば「無職で引きこもり」とか「友達がいない、恋人もいない」とか「人づきあいがうまくいかなくて転職ばかり」とか、なりますと、「スピリチュアルな体験にフォーカスする前に、まずは人間としてのベースを作りましょう」と言わねばなりません。
その方にスピリチュアルな力が無いというわけではないですよ。
そうではなくて、スピリチュアルな力があったとしても、社会不適合な状態でスピな力が花開いちゃうとまずいからです。多くの場合、統合失調判定で精神病院にGO!です。
力を使うには、その力の使い方、コントロールスキルが必要です。
「車の運転技術を学ばないで車を動かす」って、超絶ヤバイでしょう。それと同じで「自己の心身のコントロール技術を身につけない(≓弱メンタル)でスピリチュアルパワーを使う」ってのも同じくヤバイんです。
・ちゃんと社会生活を送れているかどうか
・健全な人間関係を育み、その経験を積んできているかどうか
この2点は、「自己の心身のコントロール技術が身についているかどうか」の指針なわけです。
社会生活における信頼があれば、多少スピリチュアルでブッ飛んだこと言っても「ちょっと変わったところもあるんだな」程度で受けとめてもらえます。しかし、普段から「この人ってちょっとメンタル弱いかも」と不信感をもたれている人がスピリチュアルなことを言うと「うわあ、精神病んでる?」と疑われてしまいます。
そういう意味で「空気を読む」というスキルは絶対大切です。
スピリチュアルなことを言っていい相手かどうかを見極め、しかもスピリチュアルなことに理解がある人相手ですら「どこまで話していいか」という線引きを慎重にせねばなりません。
「ありのままの自分の気持ちを伝える!」でスピリチュアルな体験をカミングアウトしてしまうのは、危うい行為です。ですから、私はそういうことを無防備にする人には「それはいけない」とたしなめます。「空気が読めないコミュニケーション能力の低い感じ」は本当によくありません。
「Nozomiさんだから言ってるんです」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、その場合でも慎重さが欠けていてはいけないのです。相手がスピリチュアルなことに理解があるとしたって、そういう神秘を簡単につまびらかにするのは良くありません。
キリスト教のグノーシス派やイスラム教のスーフィー、仏教ではチベットの密教などで、奥深い神秘はひそかに継承されてきました。それは大っぴらにオープンにされてはいません。「沈黙すべき時と所をわきまえる」必要があるのです。
シンガーは「訓戒が一つ必要であろう」と断って、「個体内部の象徴的な性的合一を養い育む覚醒の状態は、ユダヤ-キリスト教的伝統を支持する人々によって破門を受けてきた」事実を指摘し、これらのことを成し遂げたのは西洋文化の主流外の、錬金術師、カバラ学者、神秘主義者たちであったが、彼らは「沈黙すべき時と所をわきまえていた。」
それに対して、知りそこなった人は過剰な表現をすることになってしまって、嘲笑されたり、追放されたりの憂き目を見ることになった。(中略)
わが国の社会の途方もない寛容性と、途方もない不寛容性をと考えると、シンガーの言っているのとはニュアンスは異なるにしろ、「沈黙すべき時と所をわきまえる」ことは、我が国においても必要と思われる。
とりかへばや、男と女(新潮選書) p165~166
この 「沈黙すべき時と所をわきまえる」 、現代風にいうなら「空気を読んで言っていいことと悪いことを判別する」能力はどこからくると思いますか?
それは頭ではありません。体です。
本能的に「いける」「いけない」を身体感覚で、皮膚感覚でビリビリと判別する、匂いをかぎ分けることが必要です。頭でっかちのマニュアル人間にはこれができません。
神秘を体験するのは素晴らしいことです。
しかし、慎重にもなってください。歴史に学んでください。
真理とは大勢の人からすると「ペルソナ・ノン・グラータ」歓迎せざる客でもあるのです。
身体感覚を磨く、つまり運動をして肉体との感覚のつながりを強化してください。そうすることで、より現実的に自分の身を守るには、賢くふるまうにはどうしたらいいのかが「頭ではなく肌感覚で」理解できるようになってきます。
つまり言いたいのは、この一言。
運動大事!