
長野県
H様からの
メール
※一部個人情報に関わる部分を伏せたりぼかしたりしております。ご了承ください。
Nozomi様
突然のメール失礼いたします。
6月にセッションをしていただきました。その節はお世話になりました。
おすすめしていただいた本、どちらもしっかり読んでおります。
最近更新されたブログに、私の体験談の引用があったのを拝見いたしました。
あれからちょうど半年ということもあり、迷ったのですが…その後のことを書いてみようかと思い立った次第です。
まず「子どもを生きれば大人になれる」、この本じつは大分昔に買っていました。
ただ、当時は読んでみてもあまりピンとこず、どこか他人事のようにしか捉えていなかったのです。
「私はこんなに大変な目にあっていないし」と、自分を甘やかしているように思っていました。
「大人の視点を持ってきてはいけない」と言われたこともあり、まず「傷付いている・トラウマを抱えている」ということを自分に許すことにしました。
過去のことを思い出す段階まで読み進めたところで一旦閉じていますが、自分の中の子供・インナーチャイルドというイメージだとなんとなく掴みにくいような感覚で…。
そこで、「おっ」と思ったゲームやアニメ作品のキャラクターにそれを投影する手法を取っています。何か引っ掛かる、軽い気持ちでやってみたものの中に「えっっ??!」と思うような気付きがたくさん見えてきました。
投影してみようなんて全く意識していなかったのですが、存外この方法がとても私に合っているようです。
キャラクターの姿をかりて、自分が欲しいものや言葉をそこへ投げる。しばらく二次創作からは離れていましたが、「描く」ということにこれほど助けられたこともありません。
Nozomiさんに於いてはオタ卒しつつあるとのことですので、この話はこれくらいにいたします…。私も投影を意識しだしてからは、ライトになってきているので。
セッションでは「自分のだめなところをちゃんと受容する」「だらしなくて汚い自分もほどほどに許す」「過剰に真面目なのは育ちに問題あり」というのが、私が「グレーを入れること、清濁併せ吞むこと」に繋がるためのヒントでした。
子どもの頃から今までをとりあえず思ったままメモしていってみると、私にとっての「正しさ・真面目」とは何か?という答えが見えてきたように思います。
それは承認欲求ではないかと。私は母の愚痴をずっと聞いてきました。子どもの頃はそれが「単なる愚痴」というのはわかっていなかったんです。
お母さんが困ってる、私に話してくれてる、必要とされてる、じゃあ私はお母さんを困らせない、困らせる人たちみたいにはならない、お母さんを助けたい。こんな風に思っていたんです。なんというか、無意識でしょうが母の「ヒーロー」になろうとしてるみたいな。でも母はそういうことで褒めてはくれないんですけどね…。
「家に子どもが5人いるみたい(つまり自分以外はみんな子どもみたい)」とよく怒っていましたから、私だけでも母に迷惑をかけないように、変に大人ぶっていたのかと。きょうだいでも私だけが際立って「真面目」そして「怒りっぽい性格」でした。
そして、これは私の元来の性格でしょうが「真面目で誠実である」というのは、学校では褒められる要素でした。
私はおそらく「真面目なことしか取り柄がない」故に「正しさに固執してしまう」という状態だったのではないかと思うのです。
だからちょっと何か言われると、大変うしろ暗いような気持ちになってしまうという…。真面目だと信頼されますから、それを裏切るのがとても怖いんですよ。「正しい」ことさえしていれば、おもしろくはないですが叩かれないですし。
身近な人間関係でも職場でも、愚痴をまともに聞き過ぎてしまっているようです。
愚痴であっても話してくれる、必要としてくれてる、それなら私はあなたが嫌がるような人間にはならない。だから私を必要としてほしい。認めてほしい。
文面にしてみるとまるで中身のない幽霊のようですね…母に持っていた気持ちと全く同じです。
きっと私は「誰かが定義したいい子」だったんです。
あんなことされた、こんなこと言われた、あの人が嫌。「あっじゃあ私はそうならないように(嫌われないように)しよう」ってどんどん自分を追い詰めていたのかな、と。
私は誰かにとって都合の良い存在ではないつもりですが、結果的に自分の軸がなくて、何か自分より優れている人に認めてもらいたい、という本当に気付きたくなかったことにぶち当たってしまいました。
自分のことを探っていくと「なんだお前、変だし嫌なやつでもあるけどおもしろいじゃん」と思えるようになってきました。「もういい子でいるのはやめよう」と決めました(ちなみにこれに気が付いてから腰痛がなくなりました…)。
きっとまだほんの途中経過です。まだまだ未熟ですが、自己受容することが「グレーを受け入れる」「他人を理解する」ということに見事に繋がりそうです。
いただいたホロスコープも、大変役に立っております。
スピリチュアルサロンでこんなことを言うのも失礼かもしれませんが…本当は「こんなことも自分で気付けない、よくわからないものに頼ろうとしている自分が情けない」とずっとセッションを躊躇っていました。でも、勇気を出して良かったと心から思います。
私はあまりにもスピというものに関して、そしてその取扱いに関して無知です。(なのでスピ好きと言われるとちょっと居心地が悪いのですが…)
目に見えないものに対する不信と、その一方で手を伸ばしてみたいという渇望、葛藤の末に踏み出した一歩でした。ある出来事があって「もう本当にここに来る他なかったんだな」とも。
「わかった、もう負けてしまおう」という気持ちで天に委ねるのもアリかなと思っています。
この先は孤独かもしれないけど、自分の道を信頼して生きていける。目に見えないものも見えるものもしっかり持って、私なりの生き方を見つけたいです。
長くなりましたが、もし私と似たような方がいれば役に立つかと思い書かせていただきました。
本当にありがとうございました。それでは失礼いたします。
Nozomiより
リピータールームでは詳しく書いておりますけれども、最近私はオタク推し、オタクアピールを積極的に控えています。自分自身がもうほぼほぼオタ卒しつつある感があるのもありますが、「推しが尊い」文化に乗れない自分を感じるからです。
最近BL推しをしないのも、ある気づきからでした。
私はBLというツールを使って自分の内面を癒してきました。とても役に立ちました。
だから、BLを推すことで多くの腐女子が癒されるかもしれない!と夢を見ていました。
しかし、腐女子は癒されていないどころかメンヘラだったり陰キャだったりコミュ障だったりします。ずっとウジウジしてるんです。ネガティブで魅力が輝けない。
もちろん一部には陽キャで友達の多い素敵な腐女子もいます。そういう陰キャじゃなくてパリピ要素のある人は、仲良くなれます!
人見知りをしない社交性のある人って、人徳があって魅力的ですよね!
コミュニケーション能力の高い人、大好きです♥
リンデンバウムのお客様はコミュ強な陽キャが多くてうれしいです!ウェーイ!!(私が引き寄せてるなら余計嬉しい♪)
しかし、一般にはBLを読んでも癒されない人が、あまりにも多いのです。
なぜBLを読んでいるのにネガティブに病んでいるのだろう?
BLを読んで自分を深めていけば、自己統合が進んで癒されて魂も成長していくはずなのに。
そんな疑問の答えは ボクたちのBL論 に書いてありました。
この本、「腐女子には当たり前の概念」とか「情報が古い」とかレビューに書かれているのですが、腐女子歴30年の私にとっては衝撃の一冊でした。
「えっ?みんな、そんなふうにBL読んでるの!?」と。
「なぜ自分が、昔からオタクや腐女子の友達があまりできないのか」という疑問もとけました。同人やってても、なんか不思議とオタクの人とは仲良くなれなかったんです。
「体育会系陽キャだから、文化系陰キャとはウマが合わない」なんて単純な理由じゃない。根本的にBL(オタクコンテンツ)の受取り方に差異があるのだと。
なんと、腐女子(もしくはオタク)は「壁になって二次元世界をのぞいていたい」という欲求があるそうなのです!
私は、BLを、そんな読み方したことは、一度もない!!!
私がBLを読むときは「必ず受けキャラか攻めキャラに自分を投影して、そして自分がその世界に入り込んで『内部から』その人物を体験する」という行為をしていたのです。
投影対象になりにくい(世界を俯瞰してしまって人物に入りこめない)場合、その作品は読みません。投影できるものを進んで読む感じでした。
リバ推しだったのも、攻めも受けも両方やることで男性的な能動側面と女性的な受動側面が一度に体験できる点が大きかったからです。陰も陽も体験する。だからリバカップルに自分を投影すると、素晴らしい気づきがありました。
例えば、水城せとなさんの「同棲愛」は、何度も読んで何度も泣きました。本当に、あれはすざまじいヒーリングであり自己統合でした。すごく好きな彼氏と別れて辛くてしょうがなかった毎日すら、優しく包んで癒してくれました。
そういう読み方を「キモイ」とする方もいます。
「キモイ」という言葉が出てくるのもわかります。
なぜなら、投影して読む限り「自分の内にある隠れた一面」を暴くことになりますので、「自分のキモイ一面」を見ることになるわけです。
それは確かに「キモイ」体験であって、「推しが尊い♥」なんて快感に酔えるようなものではありません。私はそのようにBLや漫画やアニメを見ていました。
でも、春日太一さんがおっしゃるように、コンテンツを現実逃避に使う方のほうが、実際には多いようなのです。現実から逃げたくてコンテンツを見ているのだから、投影対象になるような人はいないほうがむしろ楽しめると。
私にとって、その考え方は大きな衝撃でした。
だからBLを読んでも、腐女子は陰キャコミュ障メンヘラのままで、成長も癒されもしないのか!と納得がいきました。
それなら、BLを推したところで意味がないと思いました。少なくとも、スピリチュアルサロンでヒーリング効果があるとして推すことはできないと。BLの扱い方が根本的に違うのですから。
コンテンツを現実逃避に消費し、BLを壁の穴となってみている人たちに「作品内で自己投影して自己分析のツールにしたら、生きづらさを軽減できるよ!」と勧めるのは、余計なお世話です。
そういう人はコンテンツを快楽のために使いたいのです。自己分析のためのツールにしたら、そういう人(「楽しい」が一番)が逃げたいと思っている自分自身の深みに気づいてしまいます。それは苦痛も伴う体験です。
「楽しいが一番」という主義のオタクには、そんな苦痛を望んでいる人はそんなにいないでしょう。苦痛の先に、深い愛をともなう自己受容があったとしても。
アニメが楽しくて推しが尊ければそれで良い。そんな人に自分の深みを突きつけるなんて、アニメ「フラクタル」でヤマカンがやったことと同じです。
ですから、私がオタクコンテンツをヒーリングツールとして推そうと思ったのは、少しずれていたのです。自分中心に考えていて、人がどのように扱っているのかの視点を欠いておりました。お恥ずかしい話ですがこの点において、私は実に未熟でありました。
しかし、物語に癒しの力があることは事実です。それはかわりありません。
オタクコンテンツをヒーリングツールとして使おうと思うなら、相変わらずそれも可能です。
ただ、そうするならばコンテンツは「推しが尊い♥」「オタ活楽しい♪」「推しがいれば生きていける!」なんて軽々しく口に出せないような、重みを持つことになります。
多分、今の多くの「楽しいが一番」「好きを大事に」「今日も推しが尊い」なオタクにとって、そんなことは望んでいないことです。ですから、コンテンツをヒーリングツールとして勧めるのは、大抵のケースにおいて余計なお世話になりかねません。
ですから、私はオタクアピールは控えますし、BL推しも控えます。
自分の観点がずれていることを認識したからです。
しかし、繰り返しますが物語に対してちゃんと自分を投影して深めていく手法は相変わらず有効です。キャラを通じて自分の無意識領域を語らせるのは、ユングが用いた「能動的想像法」(active imagination)にも通じます。
H様が二次元キャラクターを通じて、自己を深め癒されますようお祈りしております。