「私のハイヤーセルフはどんな人?」そもそもハイヤーセルフって何?

精神世界:スピリチュアルブログ
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前に、ちょっとびっくりする質問をされたことがありまして。

私のハイヤーセルフって
どんな人ですか?

こんなことを聞かれまして。
私、ポカーンとしてしまいました。
ちょっと、質問の意味がわからないな、と。

これって、↓この質問と同じことを聞いてるんですよ。

私って
どんな魂ですか?

ちょっと、この質問されても困りますよね。
占い(ホロスコープや命式)では私ってどんな感じの性質ですかって聞かれるならまだ答えようもありますけれども、「私ってどんな魂?」って言われましても少々困ってしまいます。本質的な魂とか言い出すと、個人の範疇を越えてしまいますし。

でも、私この質問をいただいたことで気づけたんですよ。

Nozomi
Nozomi

そっか。
「ハイヤーセルフ」
って、カタカナ外来語で
日本語として、わかりにくい単語なんだ!

ハイヤーセルフ。
直訳で「高次の自分」。

ハイヤーは割とわかりやすいと思うんです。「高次(より高い)」って翻訳でそんなにぶれてないと。
でも、「セルフ」はどうでしょう?

そもそも日本語ってそんなに「セルフ」を必要としない言語だと思うんです。最近は英語的な表現(例えば「時間を持つ」とか「居場所を持つ」とか。本来日本語では「時間をとる」とか「居場所がある」とか言います)が多く使われるようになって来ました。なので、あまり「セルフ」という単語自体に違和感を感じない人も多いかもしれません。

しかし日本語って「自分」って言えば済むんですよ。
「自分“自身”(myself)」ってわざわざ「セルフ」つけなくても十分なんですよ。

英語勉強してる時に慣用句覚える時に「なんでここわざわざone’s self使わなきゃなんないんだ?」って思いませんでした?

”one’s own self”なんて表現、my own selfだと「私特有の自己」ですよ。なんでそんなややこしい表現すんねんって思いません? ただ「自分」で終了でええやんけー!って。

”my better self”も直訳すると「私の良い自己」です。意訳すると良心になります。ここでも自己を「心」と訳さざるを得ない齟齬が出ます。セルフって自己なの?心なの? 自己=心っていっちゃっていいわけ? そもそも自己って何?セルフって何?

(ああ堂々巡り)

日本語って、もっとふわっとしてるんですよ。
古典の授業で古語(原文)見たらわかるように、元々は句読点もないし主語も省きまくりなんですよ。

ちなみに未来形も完了形もない。
すげえ!
日本人の時間感覚ってば高次(四次元)に近いぜ!

日本語ってば、非常に特殊ですごいカオスな言語なんですよ!
超絶ふわっとしている!!
「け?(食べる?)」「く(食べる)」の世界。

「あれ、ちゃうちゃうちゃう?」
「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃう」
「ちゃうちゃうちゃうん?」
「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃうちゃう」

そんな日本人に「セルフ」いわれても「はぁ」って話ですよね。
なんとなくわかったような、わかってないような。

だって、自己と集団意識が割と溶け合っちゃってて境界線が鮮明じゃないんだもの。アミニズム文化のなごりが強い地域って、そうなるようです。

しかもね、この「セルフ」ってば心理学用語的な意味合いも加味されていると思うんです。そうなると心理学の専門知識がないと「何がセルフを指すのか」が本気でわからなくなってくる。

ああ、「セルフ」!
むずかしすぎんよ!
教えて、ユング先生!!

無意識のはたらきは、当初、自我のはたらきを妨害したり歪曲させたりする否定的な面が強調されたが、ユングは殊に、その肯定的な面に注目し、無意識には自我の一面を常に何らかの観点から補償しようとする傾向があると考えた。

そうして、彼はその考えを一歩進め、自我が意識の中心であるのに対して、意識、無意識も含めた心全体の中心としての「自己」(self, Selbst)の存在を仮定した。

自己は意識によって把握することはできないが、人間の心は常に全体性を求めてはたらいており、その中心としての自己との接触を自我が保持して、最大限に自己のはたらきを生きようとするのを、自己実現であると考えた。

そのとき、自我が完結した存在として閉じることなく、自己に対して開いた態度をとることが必要である。

夢はその点において、自我の統制のゆるんだ睡眠中に、自己からおくられてくるメッセージとしての重要な役割を持つと考えられた。

神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 (岩波現代文庫)  第11章 均衡とゆりもどし
太字強調は記事作成者による

ここで、「自我」と「自己」の日本語訳と英訳を並べます。

  • 自己=self(セルフ)
  • 自我=ego(エゴ)

「自我」ではなく「エゴ」と言われた方がピンとくる方も多いのではないでしょうか。

それに対して「自己」「セルフ」はどっちもちょっと難しい感じがしますよね。多分、それは日本では「個人の自己」が明確には発達してこなかった文化ゆえかと思います。

河合隼雄先生によると、このような図で表せるそうです。

ユングの言葉、
「自己(セルフ)は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我(エゴ)と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我(エゴ)を包含する」
こちらを図式化するとこうなります。

なるほどー!
わかりやすいですねー!
さすがユング先生!!

【画像】ポプテピピック

……すいません、嘘つきました。
正直わからん。

つまり、自己セルフというのは潜在意識とか拡大意識とか、私たちが普段意識できている顕在意識(自我、エゴ)をはるかに超えた全体性を持ち合わせた意識の中心点ということらしいのです。

ハイヤーセルフというのは、その「セルフ」のハイヤーなわけです。
「はい、19時に東森町まで一台」ってそのハイヤーちゃうわー!

いや、こう考えてみるとハイヤーセルフって概念、マジ難しくないですか?
「私のハイヤーセルフってどんな人?誰?」って不思議な質問がおこるのもむべなるかな。だって、そもそも「セルフ(自己)」概念自体が難解なんだから!

ただ、ふわっと「自分の意識の全体の中心がセルフなんだ」って解釈したら一番なんとなく納得できるのではないでしょうか。顕在意識:潜在意識=1:9とも言われていますので、意識のなかの自覚できる部分ってのは大体1割なわけです。

心の中心がセルフ。セルフ自体はまず意識するのは不可能。
自分の意識できてる心の部分の10倍でかいのが心の全体。
そして、そのセルフのさらなる高次元の形態、それがハイヤーセルフ。

そういうことになります。
けっこうすごいわけですね。
自分の中の、すっごいすっごいすっごい清浄なる神性とつながっている部分。それがハイヤーセルフなんです。

ここで「自分の中の」と書きました。
そうなんです。ハイヤーセルフっていうのはあくまでも「セルフ」と地続きなわけで、「自分の外に別人格として存在しているわけではない」のです!

だから、はじめの質問

私のハイヤーセルフって
どんな人ですか?

こちらは、「そもそもが”ハイヤーセルフ”という言葉の意味を理解できていない」となります。ちょっとずれてて違うんです。

「どんな人?」ときいてしまう時点で「自分ではない存在」になってしまいますよね? 自己、つまり「セルフ」ではない別人格になってしまいます。

そうではなくて、ハイヤーセルフはあなたの延長上なんです。あなたの、一番神性につながっている素敵な部分、それがハイヤーセルフなんです。

実は、ハイヤーセルフがあるならロウワ―セルフ(低次元の自己)もあります。
どんな人にも獣のような部分があります。どんな人にも、です。

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「頭のなかで天使と悪魔が会話する」ってよくありますよね。
その天使がハイヤーセルフに近くて、悪魔がロウワ―セルフに近いです。

こうかくと、「ハイヤーセルフが善でロウワ―セルフが悪」と見えるかもしれません。ハイヤーセルフこそを大切にして、ロウワ―セルフとは関わらないようにしよう!みたいな。

でも、このロウワ―セルフもハイヤーセルフと同じく大切な部分です。「天にあるように地にもある」のですから。

ロウワ―セルフは、退行的で獣的で波動が低いです。
この「退行的な自分」を否定して、「聖なる部分だけで生きる」ようにしちゃうと、社会不適合になります。

いや、いるでしょ。
「正しいこと」を「正しい!」って真正面から言っちゃう真面目な人。
そういう人って、周りとなじめないで、結局は社会で活躍できないですよね。

せっかくの素敵な愛があるのに、他者に伝える力が未熟なまま「正しいことを正しい」と主張しちゃうんです。
当然「何あの人……」って引かれて鼻つまみ者になる。結果、地球では何の成果も出ずに生まれてきた使命を果たせない。悲しいです。涙

私が日ごろから「伝える力」――コミュニケーション能力が、大事ですよ~~~~っ!!!
ってしつこくしつこく書いてるのは、こういう理由です。

愛にあふれた素敵な魂であるあなたがコミュ力なきゃ、生まれてきた意味なくなっちゃう!魂の使命が果たせないっ!!!

コミュ力、鍛えましょう!
コミュ力は後天的に伸ばせます!!
コミュ力があれば、あなたの愛は伝わります♥

ロウワ―セルフに全体的にのみこまれちゃうと危険でよくないです。
でも、ロウワ―セルフとハイヤーセルフ、どちらの性質も自分(セルフ)に統合していけたら、素晴らしい錬金術が起こります。

よくある物語、例えばモーツアルトのオペラ「魔笛」では善良なる主人公タミーノが伝統的RPGの主人公さながら、冒険の末に悪者をやっつけてお姫様を救出します。

でも、善良なる王子タミーノは万能人間ではありません。
タミーノはお調子者で頼りない狂言回し、パパゲーノがいないと旅を完遂出来ないのです。

これは、ハイヤーセルフとロウワ―セルフの関係に似ています。

ハイヤーセルフ高貴立派ヒーロー
ロウワ―セルフ臆病愚鈍ピエロ

こんな感じでタミーノとパパゲーノはそれぞれ、ハイヤーセルフとロウワ―セルフの対照的な特徴を持ち合わせます。その両者がそろって初めて姫の救出(英雄の内にある女性性の解放)に向かうことができるのです。

大いなる神の計画の共働者は、誰にも執着してはならない。

そして誰の中にも存在する、神のような性質、世俗的な性質、悪魔のような性質を見分けられることが必要だ。

個人を愛するのではなく、その人の中にある神の部分を愛しなさい・・・・・・・・・・
そして俗人の部分には寛容に接し、悪魔的な部分は避けるようにしなさい。

たとえ自分がいちばん愛する人であれ、使命において必要な場合はためらいなく手放さなければならない。

その愛すべき資質はそれもみな神の属性であり、その人個人の属性ではないということをよく心に刻んでおきなさい。人は神が顕現するための器なのだ。ゆえに神の資質が、ほかの人にも同じように現れているのを見いだし、愛することができるだろう。すべての人に内在する神を愛しなさい。そうすれば誰にも執着することはなくなる。

イニシエーション p351 太字強調は記事作成者による

この「イニシエーション」の教えに従うと、自他のハイヤーセルフの(神性を感じられる部分)を愛し、ロウワ―セルフ(悪魔的な部分)は避けると良いとなりますね。

例えば、感情的になってヒステリックに怒鳴り散らす人、防衛的になって理論武装して相手の主張を全く尊重しようとしない人、そんな人と話し合いをしようとしたって時間の無駄です。

このような悪魔的、ロウワ―セルフ的な部分が表出している時は「ちょっと日にち(場所)を改めましょう」と言ってその場は立ち去るに限ります。その場で相手を変えようとしてはいけません。誰にだってロウワ―セルフが表出することはあります。

一緒に住んでる人がそうなっちゃったら、別の部屋に避難したりコンビニに逃げたりしたほうがいいでしょう。ともかく、その場で解決しようとしてはいけないのです。悪魔的な部分は避けたほうがいいのですから。嵐に立ち向かってはいけません。晴れるまで安全な場に避難して待つのです。

そして、誰かに良いところが見つかったら「この人はいい人だ!」と信じ込むのは良くないということですね。だって、そんなことしたら、その人の悪魔的な部分が表出したときに「いい人だと思ってたのに」って失望しちゃうでしょ。

違います。
いい人なんてこの世にはいません。
ハイヤーセルフ的な部分が多く表出している人はいるかもしれませんが、そういう人にだって闇の部分、ロウワ―セルフが必ずあります。

例えば、OSHOにだって闇の部分があります。
病んでるところもあるし、人間的な弱さもあります。

考えてみてください。あれだけフリーセックスだったOSHOのアシュラムで、なぜ子どもが生まれなかったのか。若くて健康な男女が性行為しても、「それによって生まれた子」がアシュラムの中にいないんですよ?

でも、それでもOSHOの言葉は素晴らしいです。マスターにだってロウワ―セルフ的な闇の部分もあれば、ハイヤーセルフ的な光の部分もある。その人の光の部分から発せられた言葉であるなら、罪人の言葉ですら輝くことでしょう。

自分の内なる高次の部分と低次部分、どちらも付き合えるようになると理想的です。
そうすることで低次と高次の統合、すなわち二元性の超越へと至ります。

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