スティグマ(レッテル、コンプレックス)がもたらす光の道
私は前の記事でこう書きました。
「子どもがいない」という状態は、今の社会状況ではふっつーにスティグマになります。「普通じゃないダメな人」扱いを受けることすらあります。
そこを越えてそんな普通ではない自分も「だって、自分はそうなんだもの、仕方ないじゃない」と受け入れられる力がある。そういう人は内面を掘り下げるイニシエーションにも耐えられる可能性が高いです。精神世界の光明を得るにふさわしい資格を持っていると言えます。
だからこそリンデンバウムは「こどものいないあなたのための」サロンなわけです。子どもがいないという時点で人間社会にとってのマイノリティです。そのマイノリティである自分を受け入れられているなら、素晴らしい可能性があるわけです。
特別な魂こそ、スピリチュアルな探求を許されるのだ
私はスティグマを背負って生きる人に魅力を感じます。
コンプレックスがあったり、世間的には後ろ指をさされるような属性があったり、なかなか人から理解されないような性質を宿しているような人は魅力的です。
言い換えると、承認欲求が満たされていない状態を受け入れられる人です。
周りからは認めてもらえないし肯定されないけれども、そんな状態を(完全には納得できないまでも)自分の内で受け入れて生きている人です。
周りからは否定されるのに、「いや、自分はそれでもこうなんだ」と貫ける。完璧ではないかもしれないけれども、自分軸があるということです。
だから「子どものいないあなた」は魅力的なのです。
世間から認められない状態を否が応でも生きねばならない。そんな人生を背負って生きている人こそ、本当の輝きをつかめる人です。
しかし、考えてみてください。
それは「世間から認められない」からこそ、輝きを秘めるのです。

子どもがいない人はどこか未熟なのよねぇ~
やっぱり子どもがいないと人としてどこかおかしいのよ

子どもがいない?
結婚していない?
ろくでもない人生だな!

お子さんがいらっしゃらいない?
まあ、なんて可哀想。
寂しいわねぇ……
こんなふうに、なんの悪気も無く「当たり前に」マウント取られたり蔑まれたり憐れまれたりする状態だからこそ、意義があります。
ですから、「子どもがいないのが当たり前の状態」になってしまったら、もうそれはスティグマになりえません。
生涯未婚率が5割を越えて「結婚しないのも子どもがいないのも珍しくない社会」では、「子どもがいない=可哀想、哀れ、人生の敗北者」にはならないのです。
そうなったら、逆説的ですが「子どものいないあなた」を特別視する理由がなくなります。子どもがいなくてもなんら欠陥を感じる必要がありません。
そのときには、私は「子どものいないあなたのために」動くことはなくなるでしょう。スティグマがスティグマではなくなってしまうから、より深い自己へ触れるためのイニシエーションとして「子どもがいないこと」が使えなくなってしまうから。
実際、スティグマではなくなってしまったがゆえに輝きを失ってしまった現象は数多くあります。
その一つが「オタク」です。
オタクは死んだ。オタク・イズ・デッド
岡田斗司夫は2006年に「オタクは死にました」と言いました。
私はこの講演アーカイブを見た時「ああ、全くその通りです」と思いました。
くしくもこの講演の2年後、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮﨑勤の死刑が執行されます。1980年代末に起こったこの事件は「オタク」に大きなスティグマを背負わせる結果となりました。
90年代のオタクは半ば犯罪者のような目で見られました。アニメが好き、漫画が好き、ゲームが好きだなんていうと「頭のおかしい人」という目で見られました。まさにレッテルを貼られた状態、スティグマを背負わされたのです。
そんな中でオタクたちは岡田斗司夫の分類でいうなら「貴族的」「エリート的」であることでスティグマを背負いながらサバイバルしてきました。「人から認められない自分の趣味」を必死で心の中で守りながら生きてきました。
オタクであることは、すなわち承認欲求など満たされるはずもない茨の道であったのです。
それでもなお自己を貫く。そこには心の軸、「誰が何といおうが、自分はこれだ」という確かな魂の手ごたえがありました。
しかし、2020年代の今、オタクはスティグマでも何でもありません。
若者は堂々と「アニメが好きで!」「自分はオタクで!」「BLが好きです!」と自分の「好き」を主張します。
そして、スティグマを背負わぬオタクは私にキラキラした目で言います。

Nozomiさんもオタクなんですよね!
親近感わいちゃいます~!
私は、そのてらいのなさに圧倒されます。
「オタク」である私に親近感を持つ?
私は「オタク」であるあなたに親近感なんか一つももっていないのに。
私は確かに今でもマンガを読んだりゲームをしたりします。そういう意味では「オタク」です。ですが、もはやオタクであることは私のアイデンティティでも何でもなく、人生の重要なファクターにはなりえません。
なぜなら、「オタクであること」はもはやスティグマではないからです。
スティグマとしての輝きを、失ってしまったのです。
たましいへの通路は薄暗く、そこを目をこらし息をころして歩くからこそ意味があるのに、明るい街燈を一ぱいつけて、歩きやすくなったかわりに、たましいへの入り口は閉ざされた、という感じがする。(p167)
本当に日常を断ち切り再生の喜びを与えてくれる「遊び」には、死や危険や破滅や狂気が分かちがたくつきまとっている。しかし、その死や危険や破滅を私たちの社会は、なんとか排除しようと努力していまの長寿、いまの平穏、いまの豊かさを手に入れたのである(p172)
日本文化のゆくえ
オタクであることはもはや深い精神世界への導き手、イニシエーションの鍵とはならなくなってしまいました。太陽の下で「自分はオタクです!」と正々堂々と言えるような状態で、「オカルト」=目に見えない世界につながるような深みとつながれるはずもありません。
例えていうなら、スティグマを背負ったオタクはトルクメニスタンとかアゼルバイジャンで出会う日本人のようなものでした。
「ええっ、あなたは日本人/オタクなんですか!? 嘘でしょう! こんなところで日本人/オタクに出会えるなんて!!」
でも、今のオタクは東京で出会う日本人のようなものです。
「あ、日本人/オタクなんですか、そうなんですかぁ~」
そこには何の感動もありません。
当たり前の光景すぎて。
珍しくもなんともない。
オタク・イズ・デッド。
私がアイデンティティとしたオタクは死にました。
私にとって、オタクであることに大きな価値はなくなりました。
なぜなら、もはやスティグマではないからです。
周りからの圧力に耐え、バカにされてもめげず、それでも「好き」を貫くあの美しさを秘めたスティグマではなくなってしまったからです。
同じように「子どもがいない人生」がスティグマではなくなったら、その時私は「子どもがいないこと」にたいした価値を見出さないようになるでしょう。
一見周りから軽蔑されるようなこと、認めてもらえずに鬱屈とするような状態――スティグマこそが精神世界の扉を開くイニシエーションの鍵になるからです。
スティグマにこそ、価値があるのです。
世間で最も見下されるものにこそ、最上の価値があります。
イエスが真理を伝えた相手は、最も見下された人間――サマリアの女だったように。
それが悪いのではない。
古代ギリシアのストア派の哲学者 エピクテトスの言葉
私たちがそれを悪いと考えているだけなのだ