頂点を極める人の虚無~リーダーが救われるためのイニシエーション

大人気マンガ東京卍リベンジャーズでは、超絶カリスマ的リーダーがいます。
佐野万次郎、通称「マイキー」です。

もう、本当にカリスマです。
すっごいカッコイイです。
とにかく魅了されます。

ケンカは激強いし、リーダーとしての統率力も人間力も半端じゃない。かと思ったら年相応の無邪気なところもあって、そんなところもまた魅力的。東京卍會(東卍)の人間が「マイキーにならどこまでも付いていく!」と心酔するのもむべなるかな、というキャラです。

これは熱い。ヤバイ。
リーダーにこんな風に煽られたら、付いていくしかないでしょう! I will follow you!!!
昔から指揮官に要求される大切な要素「士気の高揚」スキルを、マイキーはナチュラルに身につけているのです。

コンテンツの中だけではなく、リアルでもマイキーは大変人気があります。
まさに、「カリスマ」です。

しかし、私はちょっともう年をとりすぎているので、素直に彼に心酔することができません。
メチャクチャとにかくカッコイイリーダー、マイキーを見ていて私は思いました。
「この人、中身は虚無じゃない?」

私はリアルで多くのリーダー、経営者を間近で見てきました。
素晴らしい業績を上げ、誰もが羨むような地位を得た人たち。凡人ではなし得なようなことを達成してきた人たちです。

そういう人たちは、どこか頭がおかしいです。良い意味でも、悪い意味でも。
だからこそ、普通の人にはできないような発想をし、凡人にはできないようなことを成し遂げてしまうのです。

だから、マイキーを見ても私は同じ匂いを感じました。
「この子、絶対どっか頭おかしいでしょ」と。

新宿スワンの頃から私は和久井健マンガ大好きですけど、リベンジャーズの素晴らしいところはこのマイキーの虚無、闇をちゃんと描いてくれるところです。

ただただ「マイキー最強!スゲエ!」で終わらない。
ちゃんと、ヒーローを地に堕としてくれる。「ヒーローのディセンション(冥界下り)」を描いてくれるんです。素晴らしい。

なんていうと何か私が病みキャラ大好き人間みたいですけど、そうじゃないですよ。メンヘラは無理ですよ。「死にたい」って言われたら「じゃあ死になよ」って言いますよ。(もちろん「生きたい」っていう人には「じゃあ生きなよ」って言いますよ)

そうじゃなくて、ヒーローの闇、リーダーの闇をちゃんと描いてくれることで「上りつめた人間がどうやって救われるか」の過程も示せるって話なんです。

え?
上りつめた人が救われる?
そもそも成功した人間を救う必要なんてないでしょう?

なーんて、凡人は思いますよね~。
思いまっすっよっね~。
成功と無縁の人には理解不能ですよね。仕方ないです。

でも、リーダーのあなたならわかるでしょう。
「人の上に立つ者が抱えねばならぬ多大なる闇」を。

経営者の世界は華やかに見られます。
成功者として憧れられます。
でも、その裏には深い闇、苦悩があることを沢山の成功者を見てきた私は知っています。

リベンジャーズでは巻を重ねるごとに、じわり、じわりとマイキーの抱えるものの重さが見えてきます。彼の抱える闇、そして虚無が明らかになってきます。ここまで書けるのが和久井さんのすごいところだわ~。さすがはベテラン漫画家、人間理解が深いのでしょうね。

マイキーの中には救いようのない深い闇があります。
優れたカリスマの実態は、虚無なのです。

有能たる指揮官であるマイキーは、当然ですがバカではありません。自分の内側に暗闇が渦巻いているのを自覚しています。自分を慕ってくれる仲間たちは、みんな気づいてくれなくても。

だから、マイキーは心を閉ざして姿を消します。
みんなを自分の闇に巻き込まないために。

どんなリーダー・経営者にも、そういう時期が訪れます。
業績がいいとか悪いとか、そういうことじゃありません。
たとえ結果を出している時期ですら、エアポケットのように精神メンタルがポカンと落下することがあるのです。

その境地は、自分を慕ってくれてついてきてくれる部下とさえ分かち合えません。全幅の信頼を寄せられる片腕とすら分かち合えません。もちろん、生活を共にする家族だって、パートナーだって正確には理解できません。

リーダーには、決定的に一人で闇を背負い込まねばならない時が来ます。恐ろしいほどの試練です。しかもまわりは自分のことを成功者として見ているので、簡単に弱音すら漏らせません。漏らしたところで逆に「自慢かよ」とかマウントととられることすらあります。理不尽!

そんな八方ふさがり、どこにも光が見えない時にどうしたらいいのか。
リベンジャーズで最強の男マイキーが全てを放り投げて死を選ぼうとした時に現れたのは、最弱の男タケミチでした。

最強の男が、最弱の男に助けを乞う。
基本的にはありえないことだし、「そんなことしたって何になる」という話でしょう。しかし、形而上学の分野ではよく見られるパターン、神話でもよくあるシンボルです。

もっとも尊い者がもっとも卑しい者に救われる、学ばされる、気づかされる。もっとも深い闇に落ちこんだ時、世界に救いの光をもたらすのは聖なる導師ではなく愚かな凡夫なのです。

その光を得るには、英雄は鎧を脱がねばなりません。
「助けてください」、自らの力で道を歩んできたと自負するものにとってこの言葉は屈辱的ですらあるでしょう。しかし、何もかもを脱ぎ捨ててプライドをかなぐり捨てねばなりません。

自分の力ではもうできない。
自分は無力だ。
「助けてください」

そう認めること、卑小な自分を受け入れることが、リーダーが闇から這い出すためのイニシエーションです。人としての器を広げる、一皮むけてより大きな統率者となるための儀礼なのです。

易経でも亢龍(老害)にならないためには、自分の周りにいる雲(陰)を大切にしろと説きます。
なぜなら、自分より才覚がなく能力のない者に囲まれてこそ、自分が龍であれるから。そこを「自分は有能だ」と奢って周りを見下すと、登り龍は降り龍にならざるを得ません。

そして、もっとも自分が追いつめられたときに気づきをくれるのが普段はもっとも冴えない部下だったりします。
どんな人間にも役割があり、使命があり、存在価値がある。能力がないから価値がない、生産性が低いから価値がないという思考は大間違いなわけですね。

「器」という虚無

あまりにも大きなリーダーは、一周まわって虚無に見える。マンガの世界のマイキーもそうでしたが、リアルでもそう感じます。実在の人物をさして「コイツは虚無だ」なんてのはちょっと失礼なので実名は挙げませんが、「この人ヤバいな~」と思う人は結構います。笑

なぜ偉大なリーダーが虚無に見えるかというと、その人はもう集団意識レベルのエネルギーを引きこんでいるからです。「自分のため」というよりも「世界の望む方向、民衆の望む方向に導くため」というレベルで動いているからです。

ほら、経営者でもいるでしょう。「たくさんの人を笑顔にするため」とか「社会を少しでもいい方向に変えていくため」とか、そういうレベルでヴィジョンをぶち上げて実際に現実化できる人。

そういう人ってもう一個人レベルのエネルギーじゃないんですよ。集団意識とつながってるレベルのエネルギーを使ってるんです。西洋占星術的にいうなら、トランスサタニアンを使いこなしているということですね〜。

だから、普通の人では不可能なくらい大きなことができる。多くの人がその人に惹かれ、従い、その人の望むように動きたいとすら思うようになる。もう集団意識なんですね。

「自分はこう」という個人ではなく、多くの存在の意を受けとめる「器」になっているのです。

ヨーロッパで最古のヨガスクールを開いたエリザベス・ハイチ。彼女は自分を「器」と称しました。弟子の間で、こんな会話が交わされています。

私は、この婦人は全人類のあらゆる人格をたずさえて現すことができるゆえに、自分個人の人格というものをまったく持ち合わせていないのだ、と気がつくに到りました。なぜなら、すべてである・・・・・・ということは、同時に何者でもない・・・・・・ということを意味するからです。

私はいちど彼女に、「マザー、あなたは本当は誰なのですか?」と訊ねたことがあります。
すると彼女は「誰?」と問いかえし、このように言いました。
とはでしょう? 存在している・・・・・・のは一つだけです。どの人も、どの動物も、どの植物も、どの太陽も惑星もそのほかの星も、存在している・・・・・・この唯一のものがあらわれるための器にすぎません。(中略)

あなたが目の前に見て『私』だと思っているこの姿は、<自己セルフ>がそのときどきの必要に応じて、ある様相を顕在化させるための器にすぎません。ですから、私が誰なのかという問い自体、意味がないのです」

イニシエーション p17 太字強調は記事作成者による

このやりとりを見て私が思ったのは「フル・フロンタル様と同じだ!」ということです。もう気分はアンジェロ大尉であります。

フル・フロンタルとはガンダムUCに出てくるキャラクターで、自分のことを器と規定しています。本当にこの人は虚無です。わかりやすく虚無です。外見は華々しく美しい軍服に身を包んで豪華な宮殿にいるからこそ、その中身の空っぽさが不気味に強調されます。

人は自分の内面を外側の現実として投影します。
ですから、「器」であり内面が虚無のフロンタルにとって外側の現実も虚無です。

光無く、時間すら流れを止めた完全なる虚無……。これがこの世の果て、時の終わりに訪れる世界だ。
人がどれだけあがこうと結末は変わらない。君にもわかるはずだ。希望も可能性もこの虚無の入り口で人が見る一時の夢。慰めにもならない幻だ。
それが人を間違わせ、無用な争いを産みもする。
この真理を知る者がニュータイプ。ただ存在し、消えてゆくだけの命に、過分な期待を持たせるべきではない……。

うーん、まぢ虚無。
その虚無に絶望すらしていないのですね。虚無すぎて。

episode6「宇宙と地球と」でフロンタルはこう言います。
「もし、シャア・アズナブルがいまも生きているとしたら、それはもう、人ではなくなっているのではないかな」

小説版ではこう言います。
「究極のニュータイプになった代償に、君は人では無くなる。」

フロンタルは、人ではないのです。
虚無の器なのです。
虚無だからこそ、全てを受けとめることができるのです。

しかし、そんな虚無は主人公のバナージたちにとっては絶望でしかありません。ですから、バナージを見ることでフロンタルは絶望(人としての心の痛み)を認識する心を取り戻してしまいそうになったのかもしれません。

だから、フロンタルにとってバナージは危険な存在に見えたのでしょう。自分を器ではなく心を持った個人に引き戻そうとする存在を。自分をディセンションさせる存在を。

でも、器として全てを受け入れ、人類全ての意を受けとめる存在であり続けるならば、それはあまりにも現世的ではない存在となります。前述のハイチが器でありながら現世で使命を果たせたのは、彼女がイニシエーションをしっかりと通り抜けてきたがゆえでしょう。

普通は「全体的(wholeness)」でありすぎると、波動が上がりすぎるがゆえに存在が「一般社会の人間からは認識されなく」なってしまいます。そのことを河合隼雄さんは「とりかえばや物語」の吉野の宮になぞらえてこう説明しています。

彼はまったくの隠者になった。
この吉野の隠者は学の深い人として、登場人物それぞれの運命をも読みきっているようなところのある人で、物語中の多くの人が主人公たちの運命や、そこに生じた秘事を知らないのに、彼だけはすべてを知っているのだ。

つまり、すべてを知った人は「この世」から身を隠すべきだということを、この物語は告げている。

こんなのを読むと、われわれ俗人は、すべてを「知らない」おかげで俗世界にとどまっているのだなと思う。
長生きをしたい人は、あまり何もかも知ろうとしないほうがよさそうである。

「老いる」とはどういうことか p49

偉大なるリーダー、フル・フロンタルは身を散らせる結末を迎えます。しかし肉体は滅ぶ結果となっても、精神の救い、魂の救いという観点から見ると(アニメ版では)浄化されて安らかに癒されたようにも見えます。

それも、自分が否定していた相手(バナージ)を受け入れることによって起こった現象です。やはり、リーダーを救うのは陰の存在、一見とるに足らない存在なのです。

そして、救いの光をもたらすには、「下の者」にひざまずく必要があります。プライドを捨てて自分より劣った者を受け入れる必要があります。そのプロセスがあってこそ、精神の死から再生がもたらされるのです。

算命学でも、混迷の世から次の時代をもたらすのは一番下層にいる者によると説きます。底辺と馬鹿にされるような、見下されるような人々からこそ、輝ける人材が輩出するのであると。

優れたリーダーは、そのことも予見していることでしょう。
だからこそ、一見能力のなさそうに見える人間をあなどらず尊重することもできるのでしょうね。

タイトルとURLをコピーしました