「立場が人をつくる」といいます。
社長になった人は社長らしくなり、会長になると会長らしくなる。
リーダーになると、立ち振る舞いが自然と変わってくるなんてこともありますね。
これは社会的な立場だけではなくてプライベートでもそうです。
結婚すると夫らしくふるまったり妻らしくふるまったり、子どもができたら親らしくふるまったりします。そうじゃない人もいますが、そういう人も多いです。
そして、意外と見落とされがちなのが「兄弟で何番目だったか(もしくは一人っ子だったか)」ということです。
特に、自分の親が、更に祖父母が「兄弟で何番目だったか(もしくは一人っ子だったか)」という視点も重要です。
私と母は母子癒着の状態にありました。
母にとって、妹よりも私のほうがより投影しやすい対象だった、性質的に似ているところがあったということでしょう。
そして、母は次女なんですけど長女の伯母とは双子でしたから、実質的には長子です。私も長女です。つまり、長子としての気質が通じあうところがあったと言えましょう。過剰に距離が近くなってしまいベッタリ共依存する余地があったということです。「慣れ親しんだパターン」を演じてもらいやすい相手だったのですね。
母は自分の母親(私から見た祖母)に相当複雑な感情を抱いていたように見えます。
いや、実際に会って話してるぶんには、全く問題ないんですよ。ギスギスもしていません。母は祖母の面倒をよく見ていました。表面だけ見るなら、祖母に悪感情があったようにはまるで見えません。
しかし、私や妹に対して「あんたたちなんて甘やかされてる!!お母さんはね、おばあちゃんからすぐ叩かれたし、口答えしたらご飯食べるなって言われたんだ!!」とかなり感情的に怒鳴りつけていました。
一方で、祖母の前では超にこやかで良い子なんですよ。そう、良い子なんです。「母さんは私に優しくしてくれなかったよね~」なんてちょっと嫌味でも言ってやればいいものの、そんなこと一切しないわけです。
祖母が気にかけるのは、しっかり者の伯母と母ではなく、弟と妹である叔父叔母でした。
母方は本家でしたから、本家の長男である叔父が上げ膳据え膳になるのは、昔の家としてはまあ仕方がありません。男と女の違い、というと差別的で理不尽ですが、当時の価値観からするとまだどうにか「仕方ない」と思えるところもあったのではないでしょうか。
問題は、母の妹である叔母です。
叔母は、ものすごく当たり前ですけれども女性です。母と同じ性別です。
同性である女だと、比較対象としてダイレクトに見れてしまいます。扱いが違うことを性別では説明できなくなります。
自分はかわいがられてないのに、妹はかわいがられる。同じ女のに。
叔母は身体が弱くて「手のかかる子」だったようです。
風邪一つ引かずに常時ピンピンしている伯母と母の双子とはまるで違います。祖母は叔母の面倒をよく見たようです。体が弱いなら仕方ないですね。
そして、ここに一つのポイントがあります。
祖母は、たくさんの兄弟の中の末っ子だったのです。
祖母は、気が強くて言いたいことをポンポン言っちゃう人でした。超鋼メンタルで「心臓に毛が生えてる」とか「母さんの中身は男だ」と言われるような人でした。そんな人だったので、姑である曾祖母とは結構バトってギスギスしてたみたいです。渡る世間は鬼ばかり。
推測するに、祖母は結構周りから可愛がられて育った、もしくはあまり期待されない(昔の田舎で「女+末っ子」なんて、家の中のオマケみたいなもんです)がゆえにのびのび育った女性だったのではないかと思います。祖母の実家の葬式など見ても、貧乏ではなかったような印象があります。祖母は目鼻立ちのはっきりした美人だったので、よけいかわいがられたのかもしれません。
そんな末っ子気質の祖母と、長女気質の母。
母が気を遣って我慢してても、祖母は全然そんなの気づかないわけです。手伝っても「あら、ありがと!」で終わるわけです。3秒で終わる。
良い子って、実は無視されやすいですよね。
いや無視ってわけじゃないけど、「放っておいても平気な子」になりがちでしょう。「あの子はしっかりしてるから大丈夫」的な。
でも、良い子って、実は親や大人から誉められたくて良い子してたりするんですよ。良い子のアホなとこは「良い子にしてればほめられる」「良い子にしてれば認めてもらえる」って思ってるとこ。
ホントはそうじゃない。
良い子しなくても褒められたいし、良い子しなくても認めてもらいたい。それが本音。
でも、良い子をやめたら自分の存在意義がなくなってしまうから良い子を続ける。そして親や大人は「この子は放っておいて大丈夫」と安心感を深め、関心の対象は「手のかかる子」にますます移っていくわけです。
しかも、祖母は末っ子です。
末っ子には末っ子ゆえの鬱屈だってあるでしょう。もしかしたら、兄姉が優秀で、自分はあまりぱっとしなかったかもしれません。
これも推測にすぎないのですが、祖母にとっては優秀な双子、長子の伯母や母よりも体が弱くて手がかかって気難しい叔母のほうが「かわいい子」だったんじゃないのかなあと思うのです。祖母と叔母と、同じ末っ子気質でどこか通じ合うところがあったのではないかと。
でも、そんなふうに体が弱いって大義名分があっても、自分以外の兄弟が贔屓されてかわいがられるのって、おもしろくないです。「お姉ちゃんだから」で良い子ぶるくせのついた母は、表面は従順にしていても内心相当叔母への恨みや妬みが募っていたのではないかと思います。
どうしてそう思うかというと、母は私に叔母への悪口を過剰なくらい吹きこんでいたからです。
叔母さんは成績がパッとしなかった
叔母さんは体力がないから何やっても中途半端
叔母さんは若いころ細かったのに醜く太った
叔母さんはすぐヒステリックにどなる
叔母さんは社会性がない
叔母さんは東京に出ても全然パッとしない
叔母さんは無責任だから自由に生きられる
叔母さんは結婚もできない
叔母さんは子どもを産んでないから女としてダメ
……うーん、ぱっと思いつくくらいでこれくらいは出てきますかね。とにかく、叔母に対する母の態度は厳しいものがありました。
もちろん、叔父に対しても見下す発言はありました。
そう、優秀な伯母と母の双子とは対照的に、叔父と叔母はあまり学業的に成績は良くなかったのです。母の叔父への見下しポイントはそこでした。
「3浪もしたのに○○大すら入れなくって4浪めでようやく××大に入ったのよ!4浪もするってなら、最初っから××大や私大に入ってりゃよかったのよ!」
ああ、ちなみに、祖父の弟は旧帝大で教授をやっておりました。母の実家は本家だったから祖父とは年の離れていた大叔父(祖父の弟)も、母たちと一緒に生活を共にしていたみたいなんですね。
想像してください。
一緒に暮らしてる家族の中に超絶有能な秀才がいて、自分が偏差値50だったら。
しかも、自分の立場は跡取り長男。
なんか、いろいろ、ちょっと、辛いですよね……。
叔父さん、辛かったんだろうなあと思います。
そうやって学業的に自分より不振だった叔父と叔母を思う存分見下す母は、すごく性格が悪い人に見えますよね。実際一緒にいた私も母の次から次へとわくネガティブ発言にうんざりしていました。
どうしてそんなしつこく悪口を言って留飲を下げようとするのかというと、やっぱり、祖母にかわいがられていたのが叔父と叔母だからだと思うのです。性格がねじくれてしまったのも、愛情に飢えた寂しさからではないかと。
つまり、母は祖母に甘えたかったのでしょう。
だから、「お前たちなんて甘やかされてるんだ!」と私たち娘にブチ切れていたのでしょう。本当は自分が欲しくて仕方がなかったものを、いとも簡単に努力もせず手にしている人がいたら、それは妬ましいですよね。
娘が甘やかされて無邪気に愛情を享受していたら、「じゃあ自分はどうして母さんから優しくしてもらえなかったんだ。あの出来損ないの妹はかわいがられていたのに」って暗い気持ちがフラッシュバックしてもおかしくありません。
優秀な年長者と劣等生の年少者。
これは私の家に不思議とたびたび見られる現象です。
大学教授の大叔父と浪人しまくりの叔父。優等生の母と劣等生の叔母。そして優等生の私と劣等生の妹です。そして、父も弟妹に比べて優秀でした。
繰り返し現れる現象。
それは示しているのです。
それが魂が必要とするただの舞台であることを。
そこを真にうけて「優秀だから価値がある、成績が悪いから価値がない」と勘違いしてしまうと、罠にはまって永遠と苦しみのパターンをループすることになります。
母は素直ではありません。
だから余計かわいがられません。
素直じゃない人はシンプルにかわいくないからです。
良い子をして「ほめてほめて、こんなに良い子してるのよ!」とがんばっても、かわいがられないのです。「こんなに良い子してるのに、どうして私のこと認めてくれないの」って心がひねくれてしまうばかりです。
でも、末っ子気質の祖母に長子の甘え下手な母が甘えてみたところで「うるさい!忙しい!」ってはねつけられて終わりでしょう。確かに事実、昔の本家の嫁は超絶忙しかった。
そこで一旦母親からの愛情を諦めて、自分で自分を満たしていく方向に行ければ良かったのですが……。
縁を切る前の私は長女らしく愚かに母の言葉をまともに聞いていました。「子どもを産んでない女なんて生きる価値はない、女として一人前じゃない」この言葉が呪いとして重くのしかかりました。実際に縁を切るきっかけになったのも、この言葉です。
何度も何度も母は「子どもを産んでない人になんかわからない」「子どもを産んでない人はやっぱりダメ」「子育てしてない人間は未熟者」と言いました。独身の叔母を引き合いに出して、何度も何度も。「だから叔母さんはダメなんだ」
今思うと、この「子どもを産んでない人になんかわからない」「子どもを産んでない人はやっぱりダメ」「子育てしてない人間は未熟者」という言葉は、言葉自体を本当に心の底から思っていたわけではないと思います。なぜなら、そこで「じゃあマザー・テレサや黒柳徹子はダメ人間だってこと?」なんて突っ込めば「そういうことじゃない」と言ったでしょうから。
本当にそう思っていっているというよりは、「憎き叔母を貶めるための言葉」として社会的価値観から正論で罵倒できる要素をさがしだし、「結婚していない、子どもを産んでいない女」ということがもっとも強く叔母の価値を貶めることができる言葉だと口にすることを選んだのでしょう。娘の私がその言葉にどれだけ傷つくかを考える心の余裕はないわけです。
それくらい、母は叔母のすることがいちいち気に食わなかったのだと思います。
なぜなら、祖母にかまってもらっていたから。気にかけてもらっていたから。自分が甘えたいのをぐっと我慢してる時に、叔母は当たり前のように祖母に甘えていたから。
母は体調を崩しやすい父を「弱い、情けない」と見下していました。そして自分は風邪一つひかない、こんなにも健康なのだ!と頑健さを誇示しました。
これも、身体の弱かった叔母が祖母に気づかわれていた、健康な母は放っておかれたこととつながっている気がします。「体の弱い人は優しくしてもらえてずるい。私だって優しくしてもらいたいのに」そんな気持ちが幼い母にはあったのではないのかと。
幼少期の満たされない想いを満たさないまま大人になって、癒さないままでいると本当に良くないなあと思います。一緒にいた娘の私もしんどいし、父もしんどかったと思います。
縁を切って15年以上経った今も、母と話したい、会いたいとは思えなかったりします。あの素直ではない、こじらせた言動を思い出すだけで、ちょっとぐったりしてしまいます。疲れる……。
母にとって叔母は典型的なシャドウです。自分が一番したいことを示してくれる投影対象だったのでしょう。だから、蛇蝎の如く嫌悪できたわけです。
そして、その母と母子癒着していた私も、自分の中にある母の要素をシャドウとして感じているのでしょう。私の中のエレシュキガルは母なのです。
過去のお付き合いのあった男性との関係をふり返ると、見事に母と私のパターンを繰り返していたなと痛感します。そのパターンを演じてくれる相手だからこそ、ああも執着したのであろうと。
それは恋愛関係だけに限りません。例えば、私はパワーストーン企画のコメントにこんなレスをしました。
なぜ同僚や友人にはなし、しかも話すだけではなく共感を得ることを求めるのかという話です。
自分は正しい、間違っていないと確かめたいわけです。
相手が間違っていると確かめたいのです。なぜなら、シャドウを分離したままでいるには「自分とは違う」「自分は正しく相手は間違っている」と認識することが必要だからです。
私もある売れない占い師さんのブログを見ては「それじゃだめだ」とプリプリプリプリ怒っていました。
ある日友達に「あの人ってばまたこんなこと言ってるのよ!」ってブリブリ怒ると、友人は言いました。
「Nozomiってば、まだその人のブログ見てるの。よっぽど何かあるんだね」私は雷に打たれたようになりました。
そう、私は彼女の女性的な資質に嫉妬していたんです。(そして、多分それは私の中にあるけれども許されてこなかったもの)
もう、まさに、母が叔母の悪口をいうパターンと瓜二つです。相似形です。フラクタルです。
この占い師さんは、正直、プレゼンの仕方で未熟なところが見られました。本業の仕事がなかなか続かず転職を繰り返し、占いの仕事自体も中途半端な状態でした。私はそれをあげつらって留飲を下げていました。
売れない占い師全員にそんなことするかというと、しません。私が粘着したのは彼女だけです。
なぜなら、彼女は女性として素直に愛されたい自分を表現できる人だったからです。男性から愛される喜びをストレートに表現し、また愛されることを必要とする自分を言葉にできる人でした。
もっとも私が欲しいものを、彼女は持っていたわけです。
だから、私は嫉妬をし、そしてどうにか彼女を貶めるために短所をあげつらって悪口をいいました。
まさに、母の示したパターンは、私のシャドウだったのです。
奇妙なことに、この同性親の末っ子気質と長子気質のねじれというのは祖父と父もそうです。祖父は弟気質で父は兄気質です。母と全く同じパターンで引きあっているのが根が深いなと思います。(そして夫婦がお互いに長子気質というのは、バランスが悪いなとも思います。どちらも甘え下手ってことだから)
蛇足ですが、最後に私がなぜこの記事を書こうかと思ったかについて。
それは夢を見たからです。
夢の中で、私は引っ越しをする予定になっていました。
引越し先は素敵な仲間もいて「早く引っ越してしまえよ」なんて声もかけてもらって、私は笑顔です。
しかし、私は家に帰る途中でめちゃくちゃ焦っています。
なぜなら、実は私は引っ越しの準備を全然していないのです! クロゼットの中には洋服がそのまんまかけられた状態。鍋も食器も、ありとあらゆるものをこれから梱包しなければならないのです。
「まあ、なんとかなるよ」と心の何処かで思っています。しかし、それは甘い見通しを言わざるを得ません。
もう、引っ越しするときが来ているのです。しかも、引っ越ししたあとには自分の望むよい生活があるということすらわかっているのです。
そりゃサッサと引っ越しすりゃいいでしょう。
なのに、私は準備をしようとしないのです。
クロゼットの中を整理しようとしないのです。
最近、記事の中でご紹介した神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書)は「ユング心理学選書」とあるとおりユング派の心理学者が女性性について書いた本です。当然精神分析の中で夢分析も出てきます。その本を読んでいたから、この夢を見てその意味が引っかかったんですよね。
単純に、もう時が来ているのに、しかも新しいステージに立ってもいいのに、周りの準備はできているのに、自分の準備だけができていない。しかも整理せねばならないことをわかっているのに、なぜかやらない。
この整理されていないクローゼットは、わかりやすく私の内面心理だと思いました。私の中のシャドウ、エレシュキガルだと思いました。
なので、整理する意味合いでこの記事を書きました。
引っ越します。