女神から学ぶ、不安定な世相でも折れない生き方

人生:スピリチュアルブログ
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私は地図が大好きな地理オタクで、大学でも地理学を専攻しました。
そんな私が以前からずっと好きなサイトがあります。Chakuwikiです。

Chakuwiki
Chakuwikiはバカでもわかる、バカ百科事典です。バカが、バカなテーマで、バカな情報を集めます。

Chakuwiki(チャクウィキ)へようこそ!ここは、バカが、バカなテーマで、バカな情報を集める場です。誰でも内容を編集でき、新しくページを作ったり、画像をアップしたりできます。ただし、くだらない物をお願いします。

Chakuwiki:chakuwikiについて – chakuwiki

このサイトに載っている情報は、だいたい95%くらいは自分の人生に直接は関係のない、役に立たないどうでもよい情報です。

バカ日本地図も実にバカバカしい。海底都市SAGA。バカの世界に四国はない無慈悲。山形県とは新潟県のこと。バカに東北とか北陸とかそういう概念はありません。つまり、北海道が北陸です。ああ、バカって最高。

栃木県足利市出身のはずのてんちむちゃんが、なぜか群馬県太田市にいる。

そんな動画を見ても「そうそう、chakuwikiで足利と太田のつながり見た見た~!」ってなるくらい、chakuwikiで得たどうでもいい知識は人生に深刻には関係のないところで軽く役に立ったりします。

ネットの友達が超絶怖い関西弁をしゃべってて「何、怒ってんの!?」ってビビっても、chakuwikiの播州弁の項を見れば「なるほど」と納得がいくわけです。

北海道/オホーツクのページを見れば、滝上町は番地の整備がされてなくて「”サクルー原野”、”滝上原野”、”オシラネップ原野”など、原野と名乗っていてもそこは住宅が立ち並ぶ市街地というケースや、逆に山奥の森林地帯であったり畑しかない場所も同様の”原野”を名乗っている」なんて素敵なカオスになっていることがわかります。郵便配達員は熟練の技が必要とされますね。

ほとんどの人にとっては、人生でほぼ役に立たないムダ知識です。
でも、それが、メチャクチャ楽しいじゃないか!!!

chakuwikiはグーグルアースと並んで気がついたら何時間もタイムワープしてしまう摩訶不思議空間です。なので、あんまり見ないようにしています。時間泥棒すぎてヤバイ。何時間でも消費できる。ヤバイ。魔物。私にとってのファムファタル、それがchakuwiki。

そんなchakuwikiをつくった、谷口一刀さんという方がいます。
こんなバカなサイトを立ち上げてしまうくらいユーモアにあふれた方です。ライブドア、LINEと転職をして、クリエイター(広告企画のシニアプランナー)として活躍をしていました。本も出てますし、アニメ、ドラマの制作にも関わっていた大変クリエイティブな方です。

ユーモアと才能に満ちあふれ、結婚して子どもにも恵まれ、有名企業でキャリアを積む。
まばゆいばかりの輝かしい人生ですね。

そんな谷口さんは、2020年8月、47歳でお亡くなりになりました。
どうも、それが、鬱だったようで、そのう……。
憶測でものをいうのは良くないことですが、どうもすっきりしない印象でした。

社会的に成功していて、地位があって、家庭もあって。
鬱になって休職しても働けない代わりに娘のためにクラファンで寄付を集めちゃうような機転もきく頭のいい人で。しかもそれで実際に寄付が集まっちゃうような人徳もある人で。

そういう人が、こう、お亡くなりになるわけですね。
結婚しても子どもがいてもお亡くなりになるわけですよ。

それだけだと「まあ人間の心ってわかんないよね~」くらいで終わりますけれども、谷口さんの残したnoteの記事を読んでいて、私は凍ってしまったんです。「えっ」て。
彼が鬱に陥ってしまう、つまりは生命力と切り離されてしまう、何か決定的なものを見た気がして。

それは男は女にとっての三種のツール。使いっ走り・実験サンプル・アトラクションであるという記事です。

男は女にとっての三種のツール。使いっ走り・実験サンプル・アトラクションである。|谷口マサト
本来生物はメスであり、オスがいなくとも種を継続している生物もいる。 ではなぜ人にオスは存在するのか? 諸説あるけど、次のゲーム『One Hour One Life』がヒントになる。男は女の使いっ走りであるという事実が、シュミレーションによっ...

男は女にとっての三種のツール。使いっ走り・実験サンプル・アトラクションである。

今の時代に男は女はというのは主語が大きすぎるが、生物的に違うところは違うだろう。「オスは生きているムダなのか」という本もあるけど、男は根本的には女性の付属品、オプションだと思う。男は根本的には本体である女性を守り、サポートするためにデザインされている。それでいいのだ。

男は女にとっての三種のツール。使いっ走り・実験サンプル・アトラクションである。|谷口マサト|note

「それでいいのだ」
いや、よくないだろう。
死んでる以上、よくないだろう。

「男は根本的には本体である女性を守り、サポートするためにデザインされている。それでいいのだ」
そうおっしゃるけど、アンタ、女性である妻も娘も守ってないじゃん。死んでる時点で。
よくないじゃん。全然納得してないじゃん。

この記事の中に、私は谷口氏の根源的な自己否定を見た気がしました。
男であることのむなしさ。男性の自殺率の高さは、もしかしたらこういった男の自己存在の証明の難しさに結び付いているのかもしれないと。

というか、自己存在の証明という時点で、アホくさいんですよ。
自分が生きてる価値があるかどうかとか考える時点でアホくさいんですよ。
証明なんかいるか。息してるだけで存在してんだよ。

生きてるのは生きてる、存在してる。
価値あるかどうかなんか関係ない。終了。
それでいいじゃん!!!(脳筋並感)

もしかしたら、彼のユーモアは「バカ」ぶっているのは、虚しさから逃れるための煙幕だったのかもしれない。そう考えると、ますます闇は深くなります。

今の時代を生き抜くに、必要なのは女性的な強さです。
男性的な強さでは限界まで頑張ったあげく、ポキンと折れてしまいます。

女性的な強さというのは、柳の強さです。柳はブレブレで揺れ揺れでしっかりしていないように見えます。しかし、地震が来ても台風が来てもゆ~らゆ~らゆ~らゆ~ら揺れて折れません。

男性的な強さというのは、樫の強さです。樫は硬くてドーン!と太い幹があって、超絶強そうに見えます。でも、硬いがゆえに地震が来たり台風が来たりして過剰な圧がかかるとバッキリ折れます。

「え~ヤダ~コワ~イ無理できなぁ~い」ってブレブレ揺れ揺れできる人のほうが、強いのです。恋人と別れて「もう生きてられない。悲しすぎて無理」と号泣している女性のほうが、1週間後には「ケーキ美味しい~♥」って幸せになってます。逆に一見平気そうな顔をしている男性のほうが何年も未練たらしく引きずります。

これはあくまでもステレオタイプでの話であって、女でも男っぽい女性はいざとなったら弱いし、男でも女っぽい男性はいざとなった時意外と強いです。

つまり、谷口さんはすごく男っぽい男性だったのではないかと思うのです。それゆえに、折れてしまった。「男はオプションで女の使いっぱしりだ」と納得したがゆえに男の存在の軽さに絶望してしまった。

「男の中の男の道を行く」団塊世代の企業戦士たちが定年後に自分の居場所を失ったように、男らしさに偏りすぎると自分の存在理由の軽さによって苦しめられる時がきます。

男だって、女性性に目覚める必要があるのです。
特に、今の時代は。

もちろん女だってそうです。
女だって女性性が開いてないと、大きな流れに委ねられないから絶望しちゃいますよ。

安らぎは、委ねることからもたらされます。
自分が大きなもの、大地や宇宙とつながっていることを感じられてこそ、こんな混沌の時代にあっても「大丈夫」と思えるのです。それには女性的な力が必要となります。肉体が男であっても、女であっても。

つまりは、自分の内に女神を発見すればよいのです。

女神といってもそこらへんの二次元コンテンツにいるような薄っぺらい量産型よしよしキャラではなく、救済と破壊を同時に行うエレシュキガルのような混沌性があって矛盾した性質を併せもつ(ある意味面倒くさい)女神です。

そういった自分の中の女性性、女神性を受け入れることができたら、この世界をしなやかに泳ぐ「折れない生命力」を得ることができます。
そういったものを受け入れるには、生産性が低く(もしくは無く)非効率なプロセスを通る必要があります。

男社会に同一化した女性が、理想主義のホモソーシャルによって悪や病や、醜いもの、忌まわしいものなどと差別され排除され、意識が下降していくときには、この女性性の隠された深みにふれることがたびたびあります。ときにはとてもゆっくりと感じていくため、希死念慮をともなう抑うつを感じるかもしれません。

もしそこに元型的な意味やパターンを見出すことがなければ、「自分はもうダメなんだ」と死にとりつかれてしまうかもしれません。絶望のなかにこそ、自己評価の融解と失墜のなかにこそ、輝かしい変容があることに気づくことはかくも大切なことです。

社会で成功をおさめていたある女性は、このプロセスを日記にこう記しています。

「すべての”すべきこと”が徐々に衰退し、腐っているような気がしていた私の生活を包んでいるものが朽ちていく。その緩慢さと、これこそ自分であると思っていたことが破壊されるのを、私は受け入れていかねばならなかった。社会的で有能なかつての自分を、一度でも、犠牲にすることになるならば、その時の私は死んでいるのではないかという恐れがいつもある。

しかしこの抑うつに落ちこんだところでは、まるで、セメントに包まれたようにまとわりつく物質に抱きすくめられて動けないと感じてはいながらも、エネルギーが解きほぐされていくようだった。そこは、あまりにも深かったので、時間の感覚を失うほどだった。――唯一わかるのは、爪が伸びてきて、また切らねばならないということ。

すべてのものにゆっくりと、下方からやってきて――それは人間的とはいえないが、温かく、しかし超然としたものだった。意味があるとかないとか、そんな思惑を越えたところから」

また、別の女性は次のように語りました。

「私はとても落ち込んでいました。胸がむかむかしました。私はいまだかつて、これほど受動的で、醜いものでいっぱいになったことはありませんでした。けれども、私はもうどぎまぎすることなどないでしょう。私はもうどうでもいいような気がしてきましたし、それがどうしたというのでしょう。とても冷たく思われるでしょうが、こうなればどんなものだって、苦痛だって、受けとめ、受け入れる力が出てくるのです。

いま、私は最高に軽くて楽な感じです。
私は、生まれてこのかた母親の激しさと、男性のペニスにふれる恐怖心と嫌悪感とにびくびくしてきましたが、でも、今はどこかでバランスがとれているみたいです。私はこのある意味で手放した投げやりな状態で、爆発したりを感情を殺したりしないで生のエネルギーと関われるように、自分を癒さなくてはならなかったのです」

麻痺するほどの苦痛と抑うつの深みへと、また、時間を超越した言葉で表現できないカオスや感情の渦へと私たちが追いやられるとき――そうしたものはすべて、私たちが恐ろしいもの、未熟なものと呼んでいたり、意識の太古的な次元を連想させるものですが――私たちが仕え、あがめなければならない女神は、(死の世界を司る)エレシュキガルであるとわかります。

エレシュキガルのエネルギーにふれることで、居場所ができるのです。そして、女神の女性性の力が男社会と過剰な男性性と向き合うことで、新しい変容とバランスがもたらされます。

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p49~52

この「どうしようもない超越的な力にただただゆだねるしかない。努力してもどうしようもない。自分の力ではどうしようもない。『生かすも殺すもあなた次第です』と宇宙に、世界に委ねるしかない」というプロセスは、実際に過酷なものです。

私もサラリーマンをやめ、毎月お給料が入ってくる生活から、この不安定な仕事に生計をゆだねた時にこのプロセスを通りました。仕事はなくて、お客は来なくて、毎日川を眺めて過ごしました。誰からも必要とされていない無力な自分をただただ受け入れるしかありませんでした。

そんな自分でも生かされるというならば、人生は何とかなるはずなのだ。
そうやって全部バン!と委ねて預けたのです。
宇宙が私をこの世界に必要とするなら、なんとかなるはずだと。

奉仕団体、一燈園の創始者・西田天香さんも、人生に悩み行きづまった時、自分の命を天にいったん預けてしまいました。本当に自分が生きる必要があるなら、いかされるはずであると。

杉本という真面目な国の友達からトルストイの『我が宗教』を一部贈ってくれました。当時の私にはなんだかそれがふさわしいような読み物ででもあったとみえて、一気呵成に読みゆくうち、巻末の「わが告白」という一節の中ほどに、「生きようとするには死ね」といったような文字にぶっつかりました。この死ねはきわめて無造作に、露骨に私に響きました。「死ぬと決心すれば、生き返る」という功利的なものではなく、「浮かぶ瀬のあることを予測して身を捨てる」のでもなくて、ただ、人をしのいで生きることは、しのがれる全体の死ぬことだ。

全体が生きるなら自分が死んでも本懐ではないか。自分も他人もただ水面に生じた泡沫のようなものでその泡沫に執着するのは全体たる水を知らぬためである。

死んだとて何物も消え去るのではない、生きようと思わば死ねという言葉は、上のように解釈して差し支えはない。無理に他をしのいで生きることは死ぬることである。

運命を天に任せて、食えなければ本体に還ればよい。死ねとは迷妄から離れよとのことで、悟れば全体が自分なのである。

「よろしい、死んでしまおう」といった感じに全く私はうたれてしもうた。

懺悔の生活 転機 P81

この「死を受け入れることで変容する(新しい自分に生まれ変わる)」というのは、まさにエレシュキガルの元に行き死を与えられ、そして再生するイナンナのようです。

運命をエレシュキガルに任せて、それで彼女が死ねというならば死ねばいい。全体(冥界)に還ればいい。一旦冥界に降りるというのは、この委ねるというプロセスに他なりません。

そうして自我が融解してしまう(まさに死の感覚にひたる)と、不思議な力がやって来ます。自分の奥底にはゆるぎない、ものすごい生命の力が流れていることに気づくのです。

それに似た感覚が、海で溺れる(死に瀕する)体験で見られることがあります。
溺れて死にそうになってるのに、なぜかどこかで深い力を感じるのです。

OSHOの弟子であるラダ・ルーリオは、溺れた時の体験を以下のように綴っています。

「アユート!ヘルプ!エド・モア!」

わたしは必死に叫んで助けを求めた。最初にイタリア語で、次に英語で、そして知っている限りの言葉で。人々がわたしのほうを向いて笑っているのが見えた。さらに何度か水に潜って、さらにもっと水を飲み、とうとう人々もこれは冗談じゃない、わたしはほんとうに溺れているんだと気がついて、みんないっせいに海に向かって駆け出した。

そうやってもがいているときに、わたしは自分の中にとてつもなく強烈だが、とても穏やかな空間があることに気がついた。何度も水を飲めば飲むほど、いっそうその経験から分離していった。わたしの体は溺れているし、心はパニックに襲われていたが、わたしの一部はそのすべてを見ながら、いっさい巻き込まれたり心配したりすることもなく、ほとんど笑うか微笑んでいるかのようだった。

もがくしかなかったし、パニックに襲われるしかなかったが、同時にまったく平然としている、少しも影響を受けていない、なにか新しいものがわたしの中にあった。

(中略)私はぐったりとして、消耗しきっていたが、命が助かったことがうれしかった。また、生死を超えるような体験をしたこともうれしかった。なぜなら、やっと元気を取り戻して、浜辺に打ち上げられたクジラのようにあえいだり咳き込んだりしているときにも、なにものにも影響されないという、その感じが、まだはっきりと自分のなかに残っていたからだ。

タントラライフ―変容のヴィジョン P15~16

AV監督の代々木忠さんも、ラダと似たような体験をしています。

 多少泳げる人でも、海中でパニックになれば、あわて、もがき、水を飲む。水を飲めば、パニックは増幅し、さらにあわて、もがいて、溺れてしまう。僕が助かったのは、荒れ狂う波にあらがうのではなく、全身の力を抜いて、自分の体が浮くのを待てたことに尽きるだろう。

(中略)僕自身は生き残ろうとしなかったからこそ、生き残ってこられたという実感がある。問題の渦中から一度離れてみないと、自分の置かれている状況などわかるはずがない。そしていったん手を離さなければ、次なるものはつかめないのだ。
 しがみつくな。手を離せ。力を抜け。そして時と場の流れに乗れ。絶体絶命のピンチとは、自分を信じて自分を解放してやる絶好のチャンスでもある。

 生き残ろうとしているときの意識は、能動的ではあるけれど狭くて重い。生き残れなかった場合の不安もよぎるし、切迫感がつきまとう。それにひきかえ手離したときの意識は、受動的であるとともに広くて軽い。前者は執着、固執、依存、排他、快への飢餓ゆえに、ネガティブな現象と共鳴する。後者は、すでに手離してしまったのだから執着や固執はない。だれかに寄りかかったり、だれかを排斥する必要もない。焦燥感もないだろう。だからこそポジティブな現象と共鳴する。戦いつづけることを卒業し“在りつづける”ことによって、長い人生を楽しみたいものである。

週刊代々木忠 : 生き残るためには、どうすればいいのか? 太字強調は記事作成者による

谷口さんは、もしかしたら精いっぱい生き残ろうと頑張っていたのかもしれません。幼い娘のために生き残ろうと、あがいていたのかもしれません。能力があり実績がある人だからこそ、慣れた男性的なやり方を貫こうとしたのかもしれません。

しかし、エレシュキガルの暗黒に包まれたときに、そんな努力は命取りです。暗黒に委ね、融解し、堕ちていくに任せる受容性(女性的な力)こそが、変容をもたらします。そして、やがてイナンナのように闇から光の世界へと再生します。

今の世は流れが激しく混沌としています。
先は見えません。安定はありません。

そんな世界で生きるのに必要なのは、女性的な力です。女神の混沌の力を受け入れることができれば、混乱も変化も当たり前に自分の内にあるエネルギー「慣れ親しんだもの」になります。敵ではなく、友になります。

今の時代、私たちは強い樫の木ではなく、柔らかな柳の木を目指したほうが良いのです。
そうすれば、頼りなくゆらゆらと揺れますが、折れません。

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