深淵なる生命力~女性性による破壊と創造

精神世界:スピリチュアルブログ
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リンデンバウムブログを読んで、「怒り」の感情についてポジティブに書いてあってホッとしたというお声はよく頂きます。

怒ることは大切です。怒ることはむしろ自然なことです。
もちろん、その怒りのアウトプットの仕方は適切にコントロールしたほうがいい場合があります。怒ったからって目の前の相手をボコボコにしていいとは言えません。

怒りというのはスピリチュアル的に言うなら第1チャクラ・ムーラダーラの力です。
第1チャクラのエネルギーが適切にバランスがとれていると肉体的に健全で精神的にも鬱になりません。

逆に、怒りを感じてはいけないと抑圧したり(女性に多いパターン)、悲しみや苦しみや劣等感を怒りにすり替えてごまかしている(男性に多いパターン)と鬱になります。
怒りを健全な形で感じるって大切なことなんですね。

シュメールの神話で、第1チャクラ・ムーラダーラの力強いエネルギーと結びつけられるのは女神エレシュキガルです。

エレシュキガルのエネルギーは、宇宙原理としての、一見静止しているようにすらみえる、物質が一定の性質をもって安定して存在している状態とも関係しています。そのエネルギーとは根本的で、継続的で、安定していて、深遠な力です。ムーラダーラ・チャクラとも密接に関係しています。

つまり、生き抜くための本能であり、このままで先も生きていけるのかどうか不安に思う気持ちでもあります。このエネルギーは、物質的な固体の中にとどまっていて、宇宙エネルギーの最もゆっくりした振動とも言えます。

エネルギーはとどまっていてあまり動かないように見えますが、そんな状態でこそ浄化が起きる可能性があるのではないでしょうか。そして、このエネルギーの進行は緩慢であるがゆえに我慢強くそのプロセスを見守らねばなりません。

エレシュキガルのエネルギーを感じると、生命について一つの事実がはっきりしてきます。
――それは、私たちはすべて死ぬ、ということです。

致死率100%であるがゆえに、エレシュキガルから私たちは未知なる異世界への扉を案内してもらうことができます。私たちが高次の感覚とつながっていない時、意識は深い眠りに落ち、低い周波数帯のものしか感知できません。直観でも暗黒の面を見ることになります。(私たちはよくネガティブな感が当たるものでしょう!)

それは、ムーラダーラの感覚であって、肉体をもってここに降りるに至った瞬間、その生のはざまに潜んでいる無限と不死の真実へと導いてくれます。

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p39~40

エレシュキガルは神話「イナンナの冥界下り」で有名な女神です。
女神・イナンナは地上(生の世界)の存在、エレシュキガルは地下(死の世界)の存在です。

エレシュキガルは地下に降りてきた妹のイナンナに厳しい試練を与えて衣服を奪って殺しちゃいます。超理不尽です。日本神話のイザナミも冥界では醜く恐ろしい姿になって、夫のイザナギに「見~た~なァ~」でブチキレMAXでしたが、エレシュキガルもブチギレMAXです。地下にいる女神は大方ヒステリックにブリブリ怒っているわけですね。

エレシュキガルは女の悪徳という悪徳をゴリゴリかきあつめたような女神です。嫉妬深くて破壊的で無慈悲で非合理です。思わず目を背けたくなるような、醜い思念の集合体とも言えます。

この神話を読むと、イナンナにツッコミたくなります。
「いや、アンタなんでそんな好きこのんでヒステリーおばさんな姉のところにいくわけ。実際あんたが戻ってこなかったときにオトン(月の神ナンナ)は『エッヤダ、エレシュキガルのとこなんか行きたくなーい!』つって拒否ったくらいひどい目にあうのわかりきってるわけじゃん。冥界なんて死の世界、そもそも行かなきゃいいじゃん。地上の明るい光のもとで生きてりゃいいじゃん!!YO!!!」

でも、行くのです。
光に生きるイナンナは暗闇の世界へと。

エレシュキガルは現代的な考え方では一見、醜くて残酷で価値のない存在に見えるでしょう。
でも、エレシュキガルは間違いなく女性性の大切な一部を表しています。仏教でいうと、鬼子母神きしもじんのモチーフと似ています。

醜いからって、そこを「なかったこと」にしてはいけないのです。実際に、エレシュキガルも鬼子母神も女性性の受容と浄化のプロセスを教えてくれます。

エレシュキガルは非礼を働いたネルガル(死の神)に対していつものごとく激怒しました。しかしネルガルは、怒り狂うエレシュキガルから逃げることなくしっかりと向き合い「あなたが私に求めていたのは愛なのですね。それが得られなかったから、あなたははげしく怒ったのだ」とエレシュキガルの気持ちに共感を示します。

ネルガルの温かい理解に氷の心を溶かしたエレシュキガルは、ネルガルと結婚して冥界の支配を委ねます。権力や基盤を奪われることを怖れていたエレシュキガルが、敬意と愛情を示されただけで、大切なものを人に委ねられるようになったのです。

鬼子母神も、自分の子どものためなら人の子どもを平気で犠牲にするエゴイスティックな女神でした。しかし、子を失う痛みを思い知り、人の子を犠牲にすることをやめて仏の道に入ります。やがて子どもと母を守る神にまでなりました。

このように、醜い女性的な側面というのは聖なる女性の側面と同じなのです。聖なる女性性を目覚めさせたいなら、醜い女性性こそが素材となります。醜い女性的な側面を持たない人は、聖なる女性性にたどりつけません。

そう、蓮の花は泥を通って咲く。
女性性の開花は、蓮の花のように泥(醜い側面)を通り抜けるプロセスを経てはじめて顕現するものなのです。

嫌う・妬む・嫉む・妖しい・媚びる・妨(じゃまをする)・婬(色欲に溺れる)・嫖(みだら)・嬾(なまける)・姦(うるさい)・婪(むさぼる)・嫐(なぶる)…………

まあまあまあまあ、よくぞこんな悪口のオンパレードを「女」という文字を使って表現したものです。女神エレシュキガルの恐ろしさ、悪徳を表現するのに十分でありましょう。

こんな悪徳だらけのエレシュキガルから目をそらすと、どうなるのでしょう?
「エレシュキガルはひどい!そんな悪徳な女神はいけない!」なんて断罪したら、自分には全く関係ない話だと決めこんだら、どうなるのでしょう?

エレシュキガルの力を忌み嫌って経緯が払われないとき、彼女の力は抑うつとして感じられたり、また、自分は無力とか自分は無価値だという苦悩として感じられるのです――それは受け入れられることのない欲望であり、変容をもたらす破壊的エネルギーであって、切り離され、閉じ込められ、個人の意思力や自己肯定感を飲みこんでしまうような、受け入れられることのない自律性(分離と自己主張の欲求)なのです。

エレシュキガル的な性質に苦しんでいたある女性は、それまで、知らず知らずのうちに、否定的な男性社会的価値観を優先してしまっており、また、それに圧倒されていたのでした。

彼女は原初的な情動からは切り離され、それを意識することさえありえませんでした。

しかも、彼女はやすやすと、まるで渦に巻き込まれるように闇に落ちこんでしまったり、さもなければ、深層へ彼女を導くことのできる、精神疾患のある人や精神病的傾向を持つ恋人について行ってしまうのです。

あるいは、彼女は脅迫的に抑圧したものを無意識のうちに探し求め、現実から逃避し、依存症的な苦痛を緩和する様々な方法に溺れていたのでした。

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p44~45 太字強調は記事作成者による

うう~ん、なるほど。
「俺、付き合う女みんな手首切るようになるんだよな」とうそぶいていた男友達がおりました。多分、彼も自分の内なる女性性の暗黒から逃げまわっていて、それゆえにメンヘラ気質のある女性とばかり引きあっていたのでしょう。

実は、私もそうやってメンヘラを摂取する(言い方…)ことがあります。
私はメンヘラ嫌いなので、リアルではリストカット跡を見つけたら秒で相手と縁を切ります。「死にたい」とか言われたらその瞬間縁を切ります。無理。

もう「死ぬ死ぬ詐欺」で支配されるのはごめんです。
「死にたい」って言えば私を操れると思うなよ!!
さわらぬリストカッターに祟りなし!!!

だから、メンヘラな人と付き合いはないです。
リアルでは関われない。無理。

でも、メンヘラな人のSNSや動画などを見ることはあります。昔から、そうするときがあるんです。例えば、自殺した南条あやさんの日記を、私たまに見てました。

最近だと、頂き女子のりりちゃんのツイキャス聞いてたんです。超闇です。病みしかない。

なんでそんなの摂取するかというと、冥界下りです。
闇を見ることで、自分の潜在意識に横たわるシャドウを触発するのです。
自分の中のエレシュキガルに会いに行き、抱擁するために。

ほとんどの人がそうだと思うのですが、社会で生きるために普段は「マトモな人」という仮面をつけて生活している人が多いのではないでしょうか。しかし、上のりりちゃんのような人は、あまりにも欲望丸出しであけすけです。嘘と欺瞞にまみれています。

そんなりりちゃんのような人を見て、自分の心がどう動くかを眺めるのです。
「マトモな普通の常識的な人」という仮面を外して、自分の心の深みに眠るエレシュキガルと出会うのです。

「私は男性に関心を持ちすぎていることを告白せねばなりません。女性的な源泉からのものには腹が立ちます。男性には全世界の支配責任があります。女性は脇役にすぎません。私は、洞穴とカーリーと私の母とこの女性的肉体を憎んでおります。男こそ私の欲するものであります」

このように話したのは、治療を受けに来た若い女性でした。
彼女は、優秀な学生と思われていましたが、どうしても博士論文を書くことができない、ということでした。

女性性との関係でひどく傷ついているような、私を含めた女性たちは、普段は、相当な成功を収めているというペルソナがあって、公には好ましい印象を与えているのですが、そのことがむしろ問題なのです。

私たちは家父長制の娘として、「ホモソーシャル自我」と私が呼んでいるものを備えて、素直に、しかもたいていは知的に育ってきました。

そして、家父長制価値観が私たちに刷り込んだ善悪や美学を体現しようと努力してきました。しかし、家父長制価値観の求める完璧な女にはなれなくて、そうはなれない自分を受け入れることもできないとなると、私たちは強く自己否定したり、ルッキズムや失敗感に深く落ち込んでしまうのです。(中略)

女性であるにもかかわらず、自分の女性らしさ、すなわち女性的価値観や女性的立場の感覚を理解できないのです。なぜなら、西洋では女性の価値は男性との関係でのみ決定されることがあまりにも多いからです。

例えば、子育て上手の良き母や妻、またかわいらしく素直で従順な娘、やさしくささえてくれる快活で仕事のできるパートナーなどです。(中略)

それでは、女性性のあふれんばかりの神秘や潜在力を暗示するようなシンボルや自立して生きていくためのロールモデルになってくれるシンボルを、どこで探せばよいのでしょう?

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p9~11

問いの答えの一つを、この本の作者であるシルヴィア・B・ペレラはシュメール神話に見ます。そう、矛盾した女神、エレシュキガルに。

エレシュキガルは強姦され、切り捨てられ、実を結びます。父権的な世界では「死の象徴」として忌み嫌われて怖れられます。成熟した女性は男性からすると恐怖なわけです。

なぜなら、全てを包みこみ飲み込むから。全てを混沌へと戻す力があるから。金も、権力も、地位も、女神の前では無に帰すのです。理性的な討論など何の意味も持たず、ただ不規則であてにならない感情や感覚のみが優先されます。理不尽です。

エレシュキガルは地下界へと追い払われたエネルギーそのものです。
そこは見るにはあまりにも恐ろしい、子ども時代のトラウマ、月の暗闇、日中の意識が踏みこむには危険の多い忘却の場所、そして潜在意識に刷り込まれたネガティブな行動パターンなのです。

そして、エレシュキガルにはその孤独と悲痛から得た知恵があります。
すべてのものを受け入れながらも、敵であり、死を扱う絶対的勝者でもあります。(p35)

エレシュキガルの中に満ちているのは、激怒、貪欲、喪失への恐れであり、さらには自分に向けられる悪意への恐れと言えるでしょう。意識から引き裂かれた生の本能――潜在意識の欲求と攻撃――を象徴しています。そして敵に対処するために、エレシュキガルを守る男性である門番を差し向けるのです。

これらのイメージで、憤怒や貪欲のような、そしてアニムスを解き放つような、混乱きわまる防衛的な激怒が、元型的な潜在意識では避けられない側面であることが分かります。
これが、抑圧している性質を指摘されたり感じとってしまった場合の通常の反応なのです。コンプレックスに探りが入れられるとき、私たちは見たくない自分を白日の下にさらされます。私たちは、耐えられず指摘を否定し拒否し逃げ出します。というのも、無意識自体に強力な防衛反応が備わっているからです。

この神話によれば、激怒は大いなる女神の一部です。
私たちは、この強迫的な無意識のエネルギーによって、自我が圧倒されるのを感じます。そして、顕在意識がそのような圧をかけられたときは、自分を守ろうとし、困惑し、大きな力に粉々にされてしまいそうな恐怖におびえ、不安になって逃避します。すると、皮肉なことに大いなる生命エネルギーとつながる機会を絶たれてしまうのです。

自分の急所、弱さにさらされたそんな時こそ、実はチャンスといえます。
この圧をかけてくるエネルギーを、強力な女神、意識に生命力をもたらす女神という視点でとらえなおして、尊重する必要があるのです。(p37)

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p35

りりちゃんみたいな人を見ると、わりと多くの人は不快になるんじゃないかと思います。
しかし、その不快さこそにヒントがあり、扉があるとしたら――どうでしょう?

エレシュキガルのエネルギーは、腐敗をもたらします。
「世の中腐ってる」って思いませんか? 例えば、政治が腐ってるとか。上司が腐ってるとか。パートナーが腐ってるとか。身の周りに「腐ってるな」って人や物事がありませんか?

物事には腐るプロセスがあります。易経では君子はそういう時には戦わずにじっとしていなさいと説きます。「腐敗はいけない!君の力で正したまえ!!」とは言わないのです。

人が死んでそのままにしておくと、腐敗してウジがわきます。ウジは人間の肉を食べ、更に分解を促進させます。そして人間の肉や内臓は大地へとしみこんでいきます。その腐敗し液体になった肉体は、大地にとっては栄養です。滋養なのです。

それと同じように、エレシュキガルの力を否定的に見るのは「父権的」西洋的現代的生産性効率性こそが尊いという価値観で見るからだ、とシルヴィア・ペレラは喝破します。そういう物質的視点で見るなら、エレシュキガルの力は「希望のない、虚しい、粉々に打ち砕く、麻痺した、不毛の空虚あるいは混沌なのです」。

エレシュキガルの力は、宇宙的意思による破壊的=変容的な側面です。
エレシュキガルはカーリーのように、時と苦しみを通じて「彼女の無差別の炎の中で、全ての個性を無慈悲にもひきつぶしてしまう」のですが、それでいて、新しい生命を吐き出します。彼女は源でもあり終焉でもある深淵を、そして全ての存在の基盤を象徴しているのです。

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p39

破壊と再生。西洋占星術のシンボルとして見るなら、冥王星を想起させます。まさに、エレシュキガルは冥界の女王。冥王星は蠍座の支配星で、蠍座が象徴する第8ハウスは死と性を司ります。

蝶は変容のシンボルです。
芋虫から蝶になる間には、さなぎになります。
そして、芋虫だった体はさなぎの殻の中で全部ドロドロに溶けてしまいます。

一旦全リセットして、一から体を作り直すのです。
そして、美しい蝶になります。

エレシュキガルの大いなる力はがもたらす変容は、このような混沌への回帰と再生のプロセスをたどります。もっというなら、冥界に下ったイナンナが一度死に再生するプロセスも同じです。

中年になって治療を受けに来たある女性は、身体症状として重い大腸炎がありました。
彼女は子どもたちが独立するまでは、良き母で男社会が求める女性像を演じてきたのです。彼女は「あらゆる承認欲求と支配欲を手放し、はじまりへ帰っていく」自分について次のように記しています。

「今思うと、私は間違ったシステムとでもいうものの下で育ちました――別のものがあるのに。真実の法とは、飲みこんだり、息をしたり、排泄したりという体のすべてのプロセスなのです。

正しいとか間違っているということではなく、ただ、そこにあるがままなのです。
良いも悪いもなく、ただ、必要なものがあるだけです。

そうわかって、私は、自分の体の中に神聖な秩序があるのだ、とわかりました。それは、押しつけられた秩序ではなく、認めていく秩序なのです。

力のバランスは変化しつづけていますが、もし私が待つことができるなら、ひとりでにバランスはとれてくるものです。でも、それは緊張をともなうバランスで、死んだバランスではありません。

この混沌とした分析のプロセスの中に、私の怒りの中に、うつ状態のなかにさえ、一つの秩序があるのです。別の種類のシステムであり、時であり、苦しみなのです」

この女性は生後第一週目から、座薬を常時用いてのトイレット・トレーニングを受けていたのでした。彼女は治療を終結する時に、「私の治療は、大腸炎から意味があって排泄物を製造していることを学んでいくプロセスであったみたいですね」と語りました。

暗黒の女神への、また、タントラ的な肛門=ムーラダーラの水準への彼女のイニシエーションは、意味深いものであり私に多くのことを教えてくれました。

神話にみる女性のイニシエーション (ユング心理学選書) p41~43

セラピストや整体師や医師など医療職の人に、セッションで「上手く人が死んでいけるように助けてあげなさいね」というメッセージが来ることがあります。

大抵の方は、「何言ってんだコイツ……」という戸惑った表情をします。それはそうですよね、治療するために、癒すために仕事をしているのに、死なせろとは何事かって話ですよね。

しかし、エレシュキガルの力、そしてイナンナの神話を見ていくと、生と死は別の状態ではなく一つの連続体であることが示されます。一つの魂が、肉体に入っている時と入っていない時という差異があるだけで、魂は魂で別に何ら変わりがないということがわかります。

山田花子さんが小学校に入学しようと中学校に入学しようと山田花子さんなのと同じです。
中学校に入学したら山田花子さんがいきなり山田太郎さんになるということはないのです。

だから、生のプロセスが尊いように死に向かうプロセスも、大変尊く大切なものです。エレシュキガルは冥界からそのことを教えてくれます。

肉体を離れるという「大きな死」だけではなく、毎日私たちに訪れる「小さな死」もそうです。例えば、息を吸って吐く。これも小さな生と小さな死です。朝起きて夜眠る。これも小さな生と小さな死です。

最近は不眠の人が増えているらしいですけれども、それは死を過剰に怖がっているからとも言えます。意識を手放して自力では動けない(少なくとも意思の力では動けない)、いってみれば疑似死亡状態になるのが、睡眠だからです。

自分や環境を常に意思の力でコントロールしたいという欲求がどこにあるなら、眠れなくなって当然でしょう。だって、そういう人は「コントロールを手放してあるがままに委ねる」なんて怖いものね。

今の世は死を忌み過ぎていると思います。
もしくは、死を美化しすぎて「死ねば何とかなる」と勘違いしている。

そうじゃなくて、ただ死は死なのに。
自然のプロセスの一つなだけなのに。
怖がるものでもありがたがるものでもないのに。

エレシュキガルから私たちが学ぶべき、吸収すべきことは、結局はそこに集約されるのかもしれません。

災難にあう時節には
災難にあうがよく候
死ぬる時には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候

江戸時代の禅僧良寛の言葉
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