マザーテレサは「愛の反対は無関心」と言いました。憎悪や嫌悪ではなく、無関心こそが愛のない状態であると。
なるほど、と思う同時に「無関心を装うことこそが愛情であることもあるよなあ」と思うのです。
例えば、野口晴哉さんの「整体法の基礎」を読んでいて「そうそう、子どものころそうだった」と思い当たることがありました。
人間は自然のままで丈夫なのが一番いい。
不摂生しても何をしてもかまわない。
それで元気なのがいい。方法や手段を講じないで、そのままで丈夫なのがいい。(中略)よく、百も千も病気を見つけて、その治療法を考え出し、それが進歩だという人がいますけれども、私は、それが進歩だとは思わないのです。何もしないで人間がみんな丈夫になっていなくては、進歩したとはいえない。だからこうして手を出す場合でも、余計なことは一つもしない。しかしそのことすら本当は余分なことだと思うのです。
親が病気を非常に怖がって、熱が出たとか、鼻血が出たとか、吐いたとか言って騒いで、その子どもまでを興奮させる。
すると、その中に特殊な心理状態の反映としての動きが混ざってくる。だからそれをそのまま聞いていると、違いが出てくるのです。
整体法の基礎 p205~206
とくに子どもの場合には、親の精神の動揺が、そのままそこに現れているという場合が多いのです。
そうなんですよ。
親が子どもの健康状態に過剰に心配を抱くと、子どもにダイレクトにそれが伝わります。
私は小さな頃中耳炎や副鼻腔炎をこじらせて手術をしたり、喘息のようなせき込みを続けて薬を大量に飲むような子どもでした。そのとき、母の過干渉気味の世話焼きの影響を大いに受けていたと言えます。
私は、喘息の子どもが来ると、連れてきた親を観ます。
喘息というのは、親が、こうしてはいけません、こうしなさい、と言いすぎて、自発的なものを抑える結果、子どもの内の自律的な働きとして起こるものなのです。このことを話して、「だから喘息は、あなたの目つきが悪いためで、あなたが徳を積むと、よくなる」と親に言います。それなのに「では、お願いします」と、操法を受けるのは子どもなのです。
「目つきの悪いあなたが病気の元だから、、あなたのほうを整体しなくてはダメだ」と言う。親は、発作しているのは子どもだから、子どもを整体師てもらうつもりでいる。
「子どもは自然である。心に自律性があって、それが働くほど素直な状態なのです。喘息を起こすほうがずっと素直だ。だから、あなたの頭を操法しなくてはいけない」。そう言うとキョトンとしていますが、子どもはそれっきり発作しなくなる。(中略)体の違う親を整体すると、子どもの喘息がよくなったりするのです。
ともかく、それほど子どもはエネルギーのつかえに敏感であり、体の自律的な、心の自律的な動きに素直であると言えると思うのです。だから、病気をやっている子どもたちは、わりに敏感で素直です。そういう子どもの心は正常であるとも言えます。大人のように、あっちこっちに鈍いところを持っている心よりも……。
整体法の基礎 p198~199
そう。これですよ。
親に対して何か言っても、理屈や常識で抑えつけられる。「そうなのね」と一旦感情を受けとめてもらえるということが無かったんですね。一旦受け止めてもらった後で「でもできないのよ」って言われればスッと親のいうことも聞けるんですけどね。
だから、病気という手段で訴えるしかなかったんですね。表現力が足りなくて幼い私は。薬をざらざら飲むような状態になったり、喘息みたいな状態になったり。それで親の注意を引きたかったんです。
逆にいうと、それで親の注意を引けたということでもあります。
上の野口先生が言うように、私の親も「親が病気を非常に怖がって、熱が出たとか、鼻血が出たとか、吐いたとか言って騒いで、その子どもまでを興奮させる」タイプだったんです。
体調を崩すと過剰に「どうしようどうしよう大丈夫」とオロオロする。「まあ人間何とかなるべ!」とドンと構えない。おおらかな肝っ玉母ちゃんじゃないんです。これじゃ「病気になれば親の注意を引ける!」って子どもは賢く学習しますよね。
私のこの中耳炎や喘息は、妹が生まれてから起こったことです。
妹が生まれて、親の注意が妹に集中して、私はそれがとても嫌だったんですね。
大人の目線から言ったら「そりゃ赤ん坊は手がかかるもの、お姉ちゃんは我慢して当然でしょう」って話です。でも、子どもからしたら突然母親を横取りされたようなものですよ。
ここで父親っ子なら母親が下の子にかかりっきりでも「パパがいるからいいもん!」ってできます。でも、残念ながら私の父は超コミュ障で大人の扱いも子どもの扱いも下手な人でした。そんなお父さんと一緒にいるなんて、超絶ストレスだったんです。
実際、妹も私も、父と家に留守番させられた時には母が帰ってくるまでエンドレスでギャン泣きでした。お父さん、大っ嫌い!!!
なので、母が妹にかかりきりになると大げさではなく正に絶望だったんです。孤独ってレベルじゃない。もう辛くて辛くて仕方ありませんでした。
事実、インナーチャイルドワークをはじめて一番初めに出てきたのが、3歳の頃のこの「お母さんに構ってもらえなくてさびしい」私。そのくらい妹が生まれるというイベントは、私にとって深刻なトラウマだったんですね。
これは仕方のないことでもあるのですが、私と妹が生まれた時では環境があまりにも違ったんです。
私が生まれた時は父が病気で入院してて母は里帰りできなくて、私を産んだ後もすぐ職場復帰して(父が社会復帰できるかどうかもわからない病状で、とにかく稼がねばならなかったわけですね)、私は祖父母に預けられてました。
でも、妹が生まれる時には父も無事に回復していました。母は里帰りしてゆったり妹を産んで世話を焼くことができたんです。
しかしそんなのは大人の事情であって、子どもの私からするとそうは思えないわけです。自分の時はお母さん居てくれなかったのに、妹ばっかり面倒見てもらってお母さんとずっと一緒にいてずるい!!お母さんは私のことなんかどうでもいいんだ!!としか思えません。
この中耳炎や副鼻腔炎、喘息がピークだったのが妹がピアノに通いはじめた時くらいだったと思います。妹はピアノの才能があって、厳しい先生についてレッスンをしていたんですね。ピティナとか、コンクールにも出たりしていました。
そうなると、親はその子につきっきりになります。家でもしっかりレッスンしなきゃならないので、毎日毎日マンツーマンで妹と母はピアノを練習することになるわけです。
そうなると、面白くないのが長女の私。
そして体を病むことで親の注意を引こうとしたわけですね。
実際に手術するまで病みました。病みすぎだろ!!!って話なんですけど、親の注目を浴びるためにはリアルで体くらい病ませることができるわけですよ。心の力ってすごい。
やがて妹はレッスンの厳しさに音を上げて、スパルタな先生につくのをやめます。マイペースでのんびりやれる優しい先生に変えて、気が向いた時に弾く程度の趣味にトーンダウンしたのです。
その頃、私は小学校に上がり、めきめきと学力の高さを実証しました。通知表は最高評価ばかりがずらっと並ぶ状態。
次女はピアノをやめ、長女は優等生。
こうなると立場は逆転し、母の注目は長女の私に注がれます。
そうなると、私の体は丈夫になり、運動会ではいつも徒競走1等賞でリレーの選手というハツラツ少女になりました。あんだけ病弱だったのに、嘘みたいな話です。親のストレートな注目があるだけで、子どもの能力は健全に伸びるのですね。
そしてその頃、注目されなくなった妹はアトピーを発症しました。
私たち姉妹、わかりやす過ぎじゃね!!?
今から考えると、そう思います。
いや、本当に、私たち、お母さんの注目がほしくてほしくて仕方がなかったのですね……。
ちなみに、妹のアトピーは中学~高校くらいが一番ひどかったです。すなわち、受験で私と母親がベッタリ母子癒着している時に、肘も膝裏もゾウの皮膚みたいにバサバサになっていました。
そして、自分の夢を叶えて一人暮らしを始めた頃、妹のアトピーは完治しました。夢を叶えた妹は、もう母の承認がいらなかったんでしょう。アトピーで母の注意を引かなくても、自分で自分を承認できるようになったのだと思います。

話は変わりますが、私はメンヘラに冷たいです。「さわらぬリストカッターにたたりなし」を公言しております。マンガ「明日、私は誰かのカノジョ」の↓このシーンには共感しかないです!


そうよ、リストカットとかやめてよね!
あたしそういうの嫌いなの!!
なので、「死にたい」というメンヘラには「死ね」といいます。
(もちろん、「生きたい」というひとには「生きろ」と言います)
私がメンヘラに優しくしないのは、上の記事でも書いたようにメンヘラに優しくするとかえって状態が悪くなることを経験してきたからです。
「死にたい」という人に「ふうん、そう」「あなたがそう言うなら死ぬしかないのかもね」と無関心に返したほうが、却って相手がシャキッとして関係が良くなるわけですね。少なくとも、ズブズブの共依存関係には発展せずに済みます。
野口先生のいうところの「親が病気を非常に怖がって、熱が出たとか、鼻血が出たとか、吐いたとか言って騒いで、その子どもまでを興奮させる」。これって、親子関係以外でも当てはまる場合があると思うんです。「相手が心の病気を非常に怖がって、死にたいと言われたとか、手首を切ったとか、薬を大量に飲んたとか言って騒いで、情緒不安定な本人までを興奮させる」ってことが、あると思うんです。
「大丈夫?大丈夫?死なないで!あなたに死なれたら私どうしたらいいの」
こんな言葉こそがメンヘラのメンヘラ度をUPさせる栄養になる。つまり、「死なないで」といわれることで承認欲求が満たされるわけです。自分の存在を許された気分になれる。
実際、体を病むことで親の注目を浴びていた私にはわかります。そういうときって、過剰に相手を気にかけたら却ってよくないんですね。動揺せずサラッと「ふうん、そう」くらいで流したほうが良いわけです。
なぜそうしたほうがいいかというと、注目を浴びることで不健全な方向に行ってしまいかねないから。冷静に「あなたのことは見てるよ。でもだからといって不健全な承認欲求はだめだよ」というスタンスを伝えねばなりません。
野口先生はそういう「病みアピール」をしてくる患者さんにこういったそうです。
「熱が出てよかった、もう安心だ」「腫れたならもう安心だ」「吐くのは胃袋が正常な証。むしろ胃袋にご苦労さんと言ってやりなさい」「痛みが出る時点でもう治ってきてる。痛いならばあなたの体は正常だ。痛くないほうが体が鈍っててまずい」
素晴らしい返しですね。
相手の体の力を肯定しつつ、依存心をスッパリ切り捨てる言葉たちです。
幼少期の私も、「まあまあお耳が痛いのね、でも痛いってわかってるなら体がちゃんと自分の力で治ろうとしているのよ。あなたの体はすごいわね」と声掛けしてもらえたら、ほっと安心したことでしょう。(ついでに愉気してもらえれば、温かさにホッとしてみぞおちもゆるんで、心も落ち着いたことでしょうね~)
そして「病みアピールしても注目してもらえないんだな」と悟って、もっと健全な方向で親の注目を浴びようとしたことでしょうね。
自分の夢を叶えることで妹のアトピーが消えてしまったように、結局は親や他人の承認を求めていても仕方がないことに気づく、そして「自分で自分を認められるようになる」ことが大切なわけです。
子どもが親の承認を求めるのは、ごく当たり前のことで自然なことです。しかし、それがねじれてしまうと体や心が病んで厄介なことになる。
そして、親や他者に100%満足させてもらえる(ありのままの自分を承認してもらえる)なんてのは結局のところ儚い幻想です。そこに気づいて、自分で自分を認めていこうとするのが、子どもから大人になるということなのでしょうね。
ゆえにね、「死にたい」というくせになかなか死なないメンヘラ(かまってちゃん)どもを「大丈夫?大丈夫?死なないで」と気にかけてはいけないわけです。彼らは本当に死にたいわけではなく、苦しかったり辛かったり抜け出したかったりしているわけです。だから死にたいというくせに死なない。
そこで他者が過剰に「死なないで、あなたに死なれたら悲しいわ」と注目すると、それで承認欲求が満たされてしまって余計に精神を深く病む方向に行ってしまいます。それで満足して幸せになれるならいいのですが、メンヘラの承認欲求は底無しです。「もっともっと、もっともっと、私を認めて!!」とねっとりまとわりつくようになります。
そんな状態、本人が一番つらいんです。
だって、本当は自分で自分のことを認めねばならないのに、いつまでも他人に依存して満たされない関係、傷つけ合う関係を繰り返すだけなのですから。
だから、メンヘラには無関心がよい。
「死にたいなら死になさい」とさらっと返すのです。
そうすることで、本来の光の道に戻っていけます。
メンヘラには冷たくするに限るのです。
死にたいと言う人には、「そんなこと言うなら早くお死になさい」と言ったほうが良いのです。
もちろん、本人の生命力を信じた上で、です。