7月10日に瞑想会をやります。
久しぶりの瞑想会です。実に2年ぶりです。
なぜしばらく瞑想会をやらなかったのかというと、いろいろ理由があります。
ピンとくるワークがなかったこともありますが、一番は「霊的エゴを伸ばさないようにするにはどうしたらいいのか」に関して、悩んでいたからです。あと、それと合わせ鏡のように「瞑想に対する苦手意識や劣等感を感じないようにワークしてもらうにはどうしたらいいのか」ということも迷っていました。
ワークショップや瞑想リトリートなどに参加して経験されたことのある方も多いと思いますが、集団で瞑想を行うと一人でやる瞑想よりもパワフルなエネルギーが生まれます。多くの人のエネルギーが共鳴することで、倍音のように高い波動が生まれます。とても素晴らしい体験です。
ゆえに、当然の如くいわゆる「神秘体験」的な瞑想をされる方も出てきます。普段では感じられなかったようなエネルギーやヴィジョンにふれて感動される方も少なくありません。
そして、その経験をシェアしてもらうことで他の人からも「私もこんな体験をしました、つながってますね!」とシンクロニシティを実感することもできます。その場の参加者の体験が「一つのテーマ」を示していることに気づいて鳥肌が立つなんてことも珍しくありません。「自分は本当に導かれてここにいるんだ!」と心の底から体験できる、素晴らしい瞑想会になります。
ですが。
そんないいことづくめに見える瞑想会にも課題があります。
霊的エゴの問題です。
「見えた!」「すごい!」と感動してシェアして、ホストをする私も「素晴らしいですね!」と肯定的な言葉を投げかける。
全ての人がそうなるわけではありませんが、一部の人はその成功体験によって「自分はスピリチュアルな力に優れた人間なのだ」という自惚れを育ててしまうことがあります。そして、次の瞑想会でも「今回はこんな光が見えた!」と”神秘体験”を積極的にシェアするようになります。
これは、まずい。
いや、スピリチュアル的な能力としては素晴らしいのですが、霊的エゴが育ってしまっているという視点からすると非常に危うい状態になります。
特に精神疾患があったり引きこもりで社会不適合な人(コミュニケーション能力が低い人)が霊的に突出してしまうと、バランスが悪すぎて結局現実としてはあまり良い結果を引き起こさないこともしばしばなのです。
だから、私は「コミュ力大事!!!」と口を酸っぱくして繰り返しています。

上の画像は象徴的な図です。4つの要素をそろえてはじめてアセンションするということです。
そして、スピリチュアル好きな人は肉体への意識が足りなかったり(例:運動が苦手、健康に興味がない、身だしなみを整えることに無関心)、人間関係の構築が不得手だったりするケースがまま見られます。
そういう人は、スピリチュアルな能力を伸ばす時期ではないのです。
いや、むしろもう伸びてるんだから、他のところを伸ばしてバランスを取ろうよ、という話なのです。
ある知人は、素晴らしい霊能力があります。それを仕事にして自立したいと考えています。
しかし、10年やっても彼の芽は出ません。霊能力がないわけじゃないんですよ。スピリチュアル能力は素晴らしいですよ。
だけど、彼のもとにお客はやってこない。バイトしたほうが稼げるレベルでしかお金にならない。
なぜなら、コミュニケーション能力が低いからです。接客能力に難ありなんです。
彼は他人に興味がありません。自分がワークすることに集中してて、それが素晴らしいと熱中してて、「世の中の人が何に興味を持っていてどんなニーズがあるのか」に目を向けようとしないんです。だからマニアックなスピリチュアル用語をずらずら並べてしまって、わかりにくい。


スピ好きでも、こういう人たまーにいます……
彼が物質的に豊かになることは可能です。
スピリチュアルな力を生かして稼ぐことも可能です。
スピリチュアルに集中することをやめれば。
私はとても歯がゆく思います。彼のような素晴らしい才能が現実社会で花開けないことに。
でも、彼は自分の開発したスピリチュアルなワークや神秘体験に酔うばかりで、他者の気持ちに寄りそおうとしません。自閉的で他人に興味がありません。やっぱり、バランスが悪いのです。
瞑想会で霊的エゴを発達させてしまうのも、彼のように貧乏な底辺社会不適合者を増やすだけになってしまいます。いい年してフワフワ夢みたいなことばっかり言ってる魅力のない人(子ども部屋おじさん)になってしまいます。
そんなのは、いやだ!!!
だから、私は神秘体験に酔ってる人には「ちゃんと社会に適応していますか?」と問いかけます。コミュニケーション能力を磨いて、相手の気持ちを察しつつ自分の気持ちも殺さない。このバランスが取れていますか?と。
「ちゃんと運動して体を鍛えていますか?」とも問いかけます。
頭でっかちになるのではなく、肉体(物質)から学ぶことの大切さも謙虚に認識していることが大切だからです。だって、ここはそもそもが物質の世界なのだもの。
しっかりグラウンディングされてるなら、スピリチュアルな力が伸びても安心です。グラウンディングの強い人がスピリチュアルな能力を伸ばした場合、社会生活による経験知で霊的エゴも育ちにくくなっています。もし霊的エゴが育ってしまった場合も「自分はちょっと思い上がっていたな」と自ら気づいて修正(浄化)していけたりします。まさに、成熟した魂の姿ですね。

さて、瞑想会で「神秘体験」や「マスターからのメッセージ」で盛り上がってしまうと悩ましい問題がもう一点あります。
瞑想が苦手だったり、あまり特別な体験をしなかった人が「自分は見えなかった」と落ち込んでしまうことです。
瞑想が苦手な人は、瞑想会に参加すること自体がスゴイんです。
「やっぱり失敗したらどうしよう」「集中できなかったらどうしよう」「寝ちゃったらどうしよう」そんなふうに恐れや不安があっても参加する。勇気のいる行動です。
「苦手」を克服しようとする人、私大好きです!
今は「好きなことだけやっていればいい」って偏るでしょう。苦手を克服しようとする人こそ中庸の申し子です。その姿勢はすばらしいんです。
でも、瞑想会で強烈な神秘体験のシェアがずらずらと続くと、そういう人は委縮してしまいます。「やっぱり自分は何も見えない。ダメなんだ」って劣等感を植え付けられてしまう。「スピリチュアルな力に優れた参加者」によって……。
「私は何も見えませんでした」「どうやったら見えるんでしょう」というコメントを頂くたびに、「ああ、瞑想会やらないほうがいいのかも」と私は落ちこみました。見えなくったっていいのに!参加しただけですごいのに!ちゃんとあなたのエネルギーもみんなをサポートしてたのに!ってもちろん伝えますよ。でも、私がそういっても、やっぱり「自分は瞑想下手なんだ」って認識って残っちゃいますよ……。
だから、本当に、悩ましいんです。
瞑想中に感じたことを積極的にシェアしてもらうことで広がる気づきもあるし、だけど霊的エゴが育ってしまったり見えなかった人に劣等感を与えてしまったりする。一長一短です。
そのあたりをずぅーーーーっと悩んでいまして、瞑想会を開けずにいました。
だから、今回の瞑想会では「神秘体験的なシェアについてはピックアップしない」という姿勢を取ろうと思います。「ブッダが見えた!」とか「ガブリエルからメッセージが来た!」とか「自分のガイドはこう言っていました」とか、そういう神秘的なスピリチュアル体験についてはコメントが来ても積極的にスルーします。
今回のワークは黄金に光る正八面体というシンボルを使うので、その正八面体のワークに沿ったコメントだけをピックアップして深めます。
もちろんこのやり方が正しいかどうかはわかりません。やってみないとわかりません。良くないかもしれません。失敗かもしれません。でも、私はやります。クヨクヨ頭で考えててもはじまらない。やらなきゃわからないです。
誤解しないでいただきたいのですが、瞑想会でヴィジョンが見えたりメッセージが来たりするのは悪いことではありません。個人対個人のワークでしたら、そういうものもどんどん深めていくでしょうし、素晴らしい体験をしたと肯定もするでしょう。
ですが、他者も一緒にいる(コミュニケーション能力を使う!)場で、個人のペースで突っ走るのは迷惑なスタンドプレーになりかねません。私もそういう失敗はサラリーマン時代にたくさんしてきました。だからこそ、他者との調和を図ることの重要性を痛感しております。
もし、今回の瞑想会で素晴らしい神秘体験をした場合、それはあなたの胸に秘めておいてほしいのです。そして、「このヴィジョンの意味は、一体何だったのだろう」と自分の中でひっそりと考えてください。もし必要ならば、答えは必ずやってきます。
そのヴィジョンやメッセージをシェアする必要があるなら、そのような場がやってきます。必要なものはもたらされます。セッションが必要なら、全てが上手くとりはかられるのを私は何度も目にしてきました。それと同じようなことが起こります。必要なら、導かれます。
密教では、真理は師から弟子に口伝により授けられました。けして文章化されず、マニュアル化されることもありませんでした。
なぜネット記事のように「3分で分かる!宇宙の真理!!」みたいな伝え方をしなかったと思いますか?
個人セッションなんてやらずにブログ記事に全部書けばいいじゃないですか。そっちのほうがたくさんの人に一気にスピリチュアルな叡智が広まっていいでしょう。
ここをご覧の方はわかりますね。
そんなにわかりやすくしてはいけないことを。
全員に情報を公開してはいけないことを。
セッションでしか伝えられないことがあるのも、人を選んで伝えているという面もあります。
そう、まだ未熟な段階にいるものに霊的な真理を伝えると、危ないのです。
「自分はもう悟ったのだ!」
「自分はシヴァの生まれ変わりなのだ!」
「自分は天照大神をチャネルしているのだ!」
↑文面だけでゲッソリするでしょ。ヤバすぎて震えますね。
人間としてバランスよく発達し、霊的エゴに気づいて調整できるような段階に入ってはじめて伝えられることもあるのです。そうして初めてやってくるメッセージもあるのです。
そういうことは公にシェアしちゃうと良くないです。まだ受けとれる段階に来ていない人にいたずらにそういうメッセージを伝えてしまうと、自分にとっても相手にとってもマイナスになってしまいます。
神秘の取り扱いは、慎重に。
スピリチュアルな能力の発達した方ほど、気を付けていただきたいことです。もちろん、私も重々自戒いたします。