考え方次第で、世界はいくらでも変化していく

精神世界:スピリチュアルブログ
写真AC

よくスピリチュアルな本で「あなたは世界の創造主である」ということが書かれていますよね。例えば、神との対話なんかにもそう書いてあります。

もう少しかみくだいた言い方をするなら「物事の認識によって、世界のとらえ方が変わる」ということです。

雨が降ってきたのをみて、「うわあ、最悪」と思うか「やった、これで空気がきれいになる」と思うかで、その日の気分も変わってきます。
刻一刻と流れる時の中で、瞬間ごとに私たちは「世界を創造している」とも言えます。

どういうとらえかたをするかで、私たちは現実を創造していけるのです。もちろん、今ある世界をも変えていけるということです。

エキセントリックな人間は愛するよりも愛されよう~分裂気質の幸せで、宮尾登美子の評伝を読んだことを書きました。

この評伝は林真理子さんによるもので、大変読みやすくて面白いです。林真理子さんの評伝はRURIKOも読みましたけど、こちらもスイスイ読めました。

そして、林真理子さんの「推し」である宮尾登美子を綴っているがゆえに、熱量がハンパないんですね。ああ、本当に好きなんだな~って伝わってくる筆致なんです。

それにつられて私も宮尾登美子作品を手に取ってみたくなりまして。早速「櫂」を読んでいます。

やはりこの綴る女-評伝・宮尾登美子を読むと、どうしても筑摩書房版で手に取りたくなっちゃいましてね。それで図書館の蔵書にあった古い半世紀近く前に出版されたこの本を借りたんです。

そうしたら、いや、面白い。昭和の主婦が夢中になって宮尾登美子を読むはずだ。

私、宮尾登美子の「天璋院篤姫」は昔読んでたんですよ。
でも、その時はちょっとピンと来なかったんです。

なぜピンと来なかったかというと、そもそもこの本を手に取ったきっかけが、テレビドラマ「大奥」だったんですね。

この、菅野美穂の「タキヤマァーーー!!」が、もう最高。最高。
女同士のメラメラドロドロバトル!!
手に汗握りましたよー!!!

……ってノリで、宮尾登美子の「天璋院篤姫」を手に取ったんです。いや、そりゃ期待外れというか、求めているものが違うというか、毛色が違いますよね。作品の質が良いか悪いかということではなくて、「その時私が求めているもの」ではなかったということです。

そして、私の母はやたらと本を読む人なのですが、その母が「宮尾登美子なんてもう古い」と言っているのを中学生頃の私は耳にしていたんですね。それで「はあ、宮尾登美子というのは古いのか」と素直に刷り込まれていた節もあります。

なので、宮尾登美子作品に関して、それほど「いいもの」という印象が無かったのです。が、林真理子氏の熱量に感化されて櫂を手にとってみたら、まあ~面白い!

面白くってスイスイ上巻読んじゃって、そしたら緊急事態宣言になって図書館閉鎖ー!!!
下巻、読めない!!!

いや、Kindleで電子版買っちまえばサックリ読めるんですよ。
でも、この作品って、あの古びた筑摩書房版でセピア色になった紙を手繰りながら読みたいのよ!!!1973年に出版された、あの本で読みたいのよ!!しかも、Kindle版ってば仮名づかいが現代風に直されてるのよー!!筑摩書房版ではあの匂ってくるような歴史的仮名づかいで綴られているのよ!!それがまた大正タイムスリップって感じ!!!

なので、今だ上巻のみで下巻が読めていません。くすんくすん。
しかし、林少女がきらきらと心を躍らせて宮尾文学をむさぼった気持ちは理解できました。

私は着物を着るので、大正時代の庶民の風俗という意味でもこの「櫂」は非常に面白いです。子どもの成長段階を肩の上げで表現したり、四つ身すら上手く仕立てられないみたいな表現があると昔の女とお針の結びつきの強さを感じさせられたり。

そんなふうに「櫂」をむさぼり読む中で、自分が「世界の創造主である」ということを感じる場面がありました。世界とは、とらえ方ひとつでこうも簡単に変化するのか、と。

櫂の主人公の喜和は、白い米の飯も食えぬような貧しい家に育ちます。そして今でいう反社な男、岩伍と恋愛結婚します。
岩伍は女衒の元締め、今でいうなら風俗嬢スカウト会社をはじめます。元来まっすぐな心持の喜和は女を地獄に落とす夫の仕事が嫌で嫌で仕方がありません。しかし、夫はこの女性のあっせんの仕事を「人助け」だというのです!

ある日、一人の母親が娘を売りにやってきます。
母親は嬉しそうで、娘も静かな表情のままです。娘を売春婦にするというのに、明るい表情をする母親が、喜和には全く理解できません。やはり夫の仕事への違和感がつのるばかり。

大正8年ころ、日本にもスペイン風邪のパンデミックがやってきます。
当然、喜和の住む街でも恐ろしい病が猛威をふるいます。特に貧しい人々の罹患率や死亡率は深刻でした。

岩伍は、底辺の人たちが暮らす地区に米を届けてやれと喜和に申しつけます。あの、娘を売った母が体調を崩しているというのです。喜和はお米を胸に抱え、底辺の人たちの住む地区に向かいます。

底辺の人が住むところは、想像を絶する貧しさでした。
喜和も米が食えず麦を食うようなけして裕福ではない育ち方をしましたが、そんな暮らしが優雅に見えるくらいの貧しさです。

現代でいうなら、uchiseiuchiの世界です。また1枚屋根が外れた、自然にできた ルーフバルコニー、床はほぼ土。

大正時代の貧民窟だったら、これでも豊かなほうでしょう。
だって、トイレ、壺ですからね。壺。
老婆がおしっこしてる横で、七輪で食事を煮炊きするわけですけど、スペースがないからじょぼじょぼ用を足してるのが壺の口にピピピって反射してその飛沫が鍋の中に入っちゃって――

みたいな、レベルで、すごいんです。
喜和は超絶ビビります。
ビビって逃げ帰ります。

そしてその日、米を届ける予定だった母親が死んだという知らせを受けるのです。小さな子どもがまず死に、半日くらいあとで母も死んだと。

そんな瀕死の状態で米を届けたところで、助かりはしないでしょう。別に逃げ帰っても結果は同じだったとも言えます。しかし、喜和は自分を責めます。

皮肉なことに、売られた娘は食べるものに不自由はないわけです。特に昔はガリガリの女性は好まれませんから、栄養を与えてふっくらさせることも大切です。娘は妓楼に売られたがゆえに生きのびたのです。実家で母と一緒に暮らしていたら、娘も生きていられたかはわかりません。岩伍は女を売春婦にするこの仕事を「人助け」と言いました。確かに、娘の命は助かったのです。

人間万事塞翁が馬。
何を幸せで何を不幸かと決めるのは、その人の価値観によります。
このケースでいうなら「娘は生きのびたって幸せじゃない。親と共にいて死ねた方が幸せだっただろう」という考え方もあります。

この顔に泥を塗るというマンガ内でも、同じような気づきがありました。

漫画の中で主人公は弁護士になる彼氏と同棲中です。それを同僚にハイスペ勝ち組と言われ、結婚したら安泰みたいな表現をされます。

それを見て、私は「何言ってんだ、士業なめんなー」とガックリきたんです。身近な人やお客様の中にも弁護士さんいるんです。ゆえに弁護士が今いかにキツイ仕事なのかということは間近に見ててよく知っております。そんな「弁護士と結婚したら一生安泰」なんて、30年前の話だよ~!と。もちろん、医者だって今はキツイよ…。○○と結婚したら一生安泰って考えが、そもそも昭和すぎる。

しかし、これも見方によっては正しいのです。
例えば寝る場所にも困っていたような子が弁護士と結婚してマンションに住めるようになったら、元居た立場の人からすると勝ち組に見えるでしょう。ものを見る角度によって、評価なんていくらでも変わるわけです。

そう、何が良くて何が悪いのか。結局決めるのは自分の心。
そうやって、人は世界を創造するのです。その人だけにしかない、たった一つの世界を。

さて、あなたは今どんな世界を作っていますか?
そして、どんな世界を作っていきたいですか?

タイトルとURLをコピーしました