実は「美味しいポジション」にいる自分に気づく

お客様の声(体験談)
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北海道
A 様からの
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※一部個人情報に関わる部分を伏せたりぼかしたりしております。ご了承ください。

本日はありがとうございました。

好転反応なのか、セッション後から身体がフワフワしており、それがすごく心地良いです。ずっしりあった重いものが軽やかになった感覚です。

セッションやホロスコープを通して感じたのは、「受け流す」「度量を広げる」「できなくていいんだ~」といったキーワードです。
自分を変えたい。変えなきゃこれからやっていけない。もう○歳でこれはまずい。と危機感を募らせ、常に気を張っていた私にはすごく目から鱗の視点でした。

「ありのままの自分でいい」「そのままの私で愛される!」といった言葉をスピ系のブログで今までたくさん見ましたが、スッキリしませんでした。
いやいや、そのままでいいなら苦労しないんだが??と逆ギレ気味で。笑
見様見真似で「波動をハッピーに!」「ワクワクしてたら引き寄せる!」と無理矢理ポジティブに意識を持っていこうとしましたが、辛いままでした。

ですが今日Nozomiさんの言葉を聞いて、
陰の者だからこその才能。
そこにいるだけでいい。普通にしてていい。という感覚が、腑に落ちた気がします。
躍起にならなくていいんですね。
頑張らなくてもなんとかなる、美味しいポジションなんですね笑
そう思うことで、少し自分を肯定できます。
上がった分だけ下がる。
それなら、そこまで上げなくていいじゃない。という受け止め方がすごくしっくりきましたし、どれだけ自分が無理に上げようとしていたのか気付きました。

陽に憧れてもいいけど、陽になろうとしなくていい。
言葉にすると簡単ですが、なかなかこの感覚を認められませんでした。
ですが「自分がパワフルにならなくていいんだ」と思った時、すごく気持ちが楽になって、そういうことか…と思いました。

そしてホロスコープの鑑定を読み、
「往々にして苦しいことあるけど意思じゃどうにもならないよ」と書いてあって、最初は、えー!?と落ち込みました笑
ですが、苦しいことも起こるよね~そうだよね~~と流せる度量を身に付けるんだ!と、セッションを受けたからこそ思うことができました。
苦しいこと…無理…やだ…
ではなく、まぁ苦しいことも楽しいことも起こるよね。何が起こっても戻ればいいんだし。という感覚を身に付けること。
それが私の魂の成長に繋がるんだと思います。

余談ですが、『人間万事塞翁が馬』という言葉を最近知って、その意味が気に入ってメモに書いて見返したりしてたのですが、ホロスコープの解説にその記載があって驚きました。。上は、メッセージくれてたんですね( ; ; )
良いことは悪いこと。悪いことは良いこと。すごく好きな考え方です。
私は嬉しかったり楽しかったりした時にそれを表現するのが苦手なのですが、無意識に「上がりすぎないよう」バランスを取っていたのかもしれません。

そしてセラフィナイト。
その意味を読んで、すごくあたたかい気持ちになりました。セラフィムという天使のエネルギー。とてもしっくりきます。ありがとうございます。写真は、待ち受けにしました^^

これからも苦労はあると思いますが、それに振り回されず、影響を受けすぎず、いつでもゼロに戻れる自分で力まず進みたいと思います。

本日は、ご縁をいただきありがとうございました。

Nozomiより

苦しみや不安から逃げようと躍起になればなるほど、その苦しみや不安は奥深くまでしみこみ、逃げられなくなります。

そういうものは「いやだ」と思うほどに、しつこく追いかけて来るのです。だから、そういったものに対してクールにふるまう姿勢が必要です。ヴィパッサナー瞑想で感情を眺める(あるがままに感情を感じつつも、とらわれない)訓練をするのは、大いに効果があります。

長いこと緊張し続けていると、私たちは自分自身にしがみつくことに慣れてしまいます。これは心配が多く不安な人により多く起こることです。(p47)

慢性的に緊張し不安な人は、もし手放してしまったら、何か恐ろしいことが心理面で自分に起こるだろうと感じるのです。
「もし手放してしまったら、何が起こるかわからない。ひょっとしたら何かとても変なことが起こる可能性もあるし、自分をコントロールできないかも知れない。自分の通常のあり方に、戻ることができないかも知れない」
彼はそう感じます。
そうした人たちは、私たちの中にたくさんいるのです。(p50)

心がマインドフルな状態でない時、それは家のない人のように感じられる。とても不安で、とても不幸なのです。マインドフルでいる時、あなたは本当に今ここに在ると感じられる。

ですから、「マインドフルネス(気づき)こそ自分の本当の居場所」なのです。

マインドフルでいるとき、あなたは「今ここ」にいる。
マインドフルでない時には、あなたはどこにも至りつかない路上にいる。
あなたの自己の、スピリチュアルな部分にふれてください。
自身の美しい部分に……。マインドフルでいてください。(p75)

当初、私は本当に不安で、死ぬことを恐れました。私は死にたくなかった。「嫌だ、嫌だ、生きたいんだ」と私は言った。しかし、生に必死でしがみつこうとすればするほど、ますます疲れてしまうのです。私は心配しすぎていましたからね。(中略)

長い間、私は生にただしがみつこうとしていた。しかし、あるポイントで、私はとても疲れてしまって、ただ眠れたら、安らかな眠りに入れたら、本当に晴らしいだろうと思ったのです。

私は手放す決心をしました。といっても、つまり非常に重要な決意をしたのです。「死なねばならないのであれば、マインドフルに死のう」。
そう私は思い、全ての思考を手放して、心をできる限りリラックスして落ち着いた状態に保ち、マインドフルネス(気づき)を維持しました。

徐々に徐々に、心はますます安らいできて、すると私は、自分がもうそんなに疲れていないことに気づきました。疲れも去って、心はより落ち着いて安らぎに満ち、私は眠りに落ちました。

目を覚ました時、心は再びとても落ち着いていて、安らぎに満ちていた。動いたり話したりすることはできません。この瞬間に死ぬならば、それは本当に構わない、と思いました。

私たちはなぜ死を恐れるのでしょう? それは私たちが執着しているからです。執着がなければ、恐れることは何もありません。瞑想は死に向けたたいへん優れた準備です。

それは必要なものであり、とても大切なもの。人々は死について考えたがりません。死について耳にした時はいつも、彼らはそれを聞きたがらず、それについて語りたがりません。人々はただ、生についてのみ語りたいのです。


しかし、死ぬ準備ができている人には、生きる準備ができているのです。
私たちのほとんどは、生命活動を行なっているけれども、本当の意味で生きているわけではありません。
私たちは生に対して、あまりにも多く抵抗している。
私たちは本当の意味で注意を払っておらず、また人生から十分に学んでもいないのです。
(中略)

この段階において、心に恐れはありません。それはとても清らかで純粋です。心はとてもバランスがとれており、また非常な安らぎも感じます。

興奮はなく、喜びはなく、高揚もなければ幸福もない。ただとても安らかなのです。世俗的な心の状態で、これに比すべきものはありません。努力もなく、緊張もなく、硬さもない。この段階以前には、集中し瞑想するために、私たちはたいへんな努力をする。私たちは硬くなって、リラックスすることを思い出さなくてはならないのです。

しかしこの段階では、全てがとても柔らかく、穏やかで、リラックスしています。心はとても安らいでいますが、その状態に執着はしていません。(p203~204)

ウ・ジョーティカ「自由への旅」 

ウ・ジョーティカ師は瞑想で得られる洞察知について「興奮はなく、喜びはなく、高揚もなければ幸福もない。ただとても安らかなのです」といいます。

昨今では「楽しむのが大事!」「楽しんだもの勝ち!」「楽しむことこそが生きてる意味!!」と、とにかく「楽しい(快楽)」に価値を置きますよね。格闘家すら笑顔で「このファイトを楽しみます!」なんて言いだす始末。

私はその言葉をきいて「いや、楽しむとか言うなよ…」と、白けてしまいました。楽しむ姿じゃなくてバッチバチな熱い闘いを求めていたので。グラディエーターは目が血走っていてこそ。戦いの場で「楽しむ」なんて言葉がキまるのは、サイコキラーくらいです。

今って「楽しもう!!」が、少々行き過ぎではないでしょうか。

だって、そうやって楽しめば楽しむほど、気分を上げれば上げるほど、下げ幅もまた大きくなってしまうんですよ。精神疾患や薬物依存の増大はこの過剰な「楽しもう!!!」からやってきているのではないか?私は怪しんでおりますよ。

楽しんで楽しんで楽しんだら、その後には深い鬱がやってくること、そうやって心はバランスを取ろうとすることを、知ってほしいと思います。

楽しむこと全部が悪いわけではありません。ですが、「楽しみ過ぎ(アガリ過ぎ)は躁鬱のはじまり」なのです。
だからこそ「中庸」が大切なわけで。

セッションでセラフィナイトが選ばれる人は、非常に重点的に「ゆるむこと」が大切な人です。これはクリソプレースでもそうなのですが、セラフィナイトのほうがリラックスに対する重要度はより高くなります。

クリソプレースは「楽観的になりなさい、現実は思ったほど悪くないのだから大丈夫」という感じですが、セラフィナイトは「まずゆるみましょう、リラックスするために、自分の内に安全地帯を見出しましょう」という感じです。

セラフィナイトの「リラックスへの必要性」は現実がどうなっているかは関係なかったりします。現実が厳しかろうとゆるかろうと、セラフィナイトが来るひとはとにかくガチガチなのです。

あるセラフィナイトが来たセッションでは、まともにメッセージを降ろすことすらできませんでした。その方はあまりにも緊張しすぎていて、すべてを拒絶する姿勢だったからです。残念でした。

素晴らしいことに、賢明なるA様は聞く耳をもってくれました。言い訳をしませんでした。
これは大いなる希望であり、光です。メッセージを受け入れる度量があるならば、どんな状況においても希望はあるのです。

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