怒るって、大事

人生:スピリチュアルブログ
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リンデンバウムでは怒りを肯定しているのが驚きました!「怒ってもいい」と言われてスッキリしました!

お客様から、こんな声をいただくことがあります。

もちろん、怒りすぎは良くないです。いつも怒っている人、イライラしやすい人は、アンガーマネジメントを学ばれることをおすすめします。

しかし、「怒るのは絶対的にいけないこと」と思いこみ、自然な怒りを抑圧してしまうのは良くないことです。

スピリチュアル的に見るなら、怒りのエネルギーを健全に発散できないならば第1チャクラのエネルギーが滞ってしまいます。そうすると、鬱になったり無気力になったり性欲がなくなったりします。

つまり、「怒りの抑圧」は、生命力の低下を引き起こすのです。

何事にもやる気がわかない…

「好きを大事に」っていうけど
熱中できるものが見つからない…

生きてる意味が分からないし
喜びが感じられない

こんなあなた、「怒ること」ができてますか?
ちゃんとブチ切れてますか?
いやなことに「No!」ってキッパリ言えますか?

怒るのはいけないことって、それは確かに正しいんですよ。そういう教育、しつけもされますよ。
だって、怒らない奴隷って使いやすいですから。

だから、「怒っちゃいけませんよ」とか「いつも笑顔でいなさいよ」とか「そんなことでイライラしないの。感情的になるのはいけません。冷静になりなさい。落ちつきなさい」とか、しつけが行われるんですよ。

それは実に優れた奴隷教育です!

漢方でも、怒りすぎは肝を痛めるので良くないといいます。
でも、「怒らせること」で治療することもあるんですよ!

上の動画内では、華陀の話、怒らせることによって原因不明の病気を治療したことを紹介しています。患者にわざと無礼を働いてカンカンに怒らせることで、於血と気滞を治療したんですね。

怒りやすい人は、怒る必要があるから怒っているわけです。怒ることで体のエネルギーのどこかを調整しているわけです。

それが行き過ぎるともちろん害になるから良くないんですけど、単純に「怒るのはダメ」で抑圧してしまうと、「なぜ怒りたがるのか」という体からのメッセージを無視することになります。

すぐ怒る人、イライラしやすい人は、その裏に何があるのかを見つめるのが大切なんです。体は必要があって怒っているのですから。怒ることで何かの気を動かそうとしているわけです。それが何かを見極めなければ意味がない。

そしてね、今は過剰に「叱るのはよくない」って風潮があります。何か言ったらすぐパワハラ・モラハラ扱いです。

けど、叱ること、厳しい言葉をぶつけることで浄化が起こるケースだってあるんですよ。常に優しい言葉でホッコリすれば魂が救われるというわけではありません。

そもそも、そうじゃないならリンデンバウムのストロングスタイルのセッションがこんなにお客様の支持を頂いているのに説明がつきません。15年前からずーっとリピートしてくださってるお客様だっていますからね。

野口整体の創始者、野口晴哉さんは著書・体癖でこう書いています。

みんなに親切にされているお婆さんがありました。

癌で、大阪でもう死ぬというのを、ともかく東京へ出てきて、二年くらい道場に来ているわけですが、まだ死なない。知っている人たちは、弁当を作ってやったり、お菓子を買ってやったりして、みんなでいたわっております。

ところがそのお婆さんがこの間私のところへ来て「全くこの世に生きているのは地獄のような苦しみだ」というから、「地獄にこんな親切な人たちがいますか。こんな親切な人たちに囲まれて、地獄などと思っているその心がきっと地獄なのだろう。けしからん」といって怒ったのですが、叱られると急に楽になるのです。

「ともかく地獄だなどというのなら本当にあの世に行ったほうがいい。みんなあなたを楽に生かしたいと思って努力しているのに、それを無視するなら早く行ったほうがいい。僕もそんな人に操法するのは嫌になる。すぐ死になさい。そんな馬鹿な女を相手にしているのかと思うと時間が惜しい。お帰りなさい」といったのですが、叱られてスーッとして気分が良くなったとか、翌日元気になってきましたが、そんなに叱られてスーッとするのはなんだろうか。

終始心の中でゴタゴタしているのは四種的な不満、不安状態なのですが、叱られるというのは一つのエネルギーの消耗です。若い人が性欲を解消するには効果があるのです。

そこで私はそのお婆さんがよく亭主の悪口をいって「二度と顔を合わせるのは嫌だ」といっていたことと睨みあわせて、体の中に亭主を求むるものが生きていると見て、今度は亭主を東京へ呼ぶことにしました。

その人は「亭主を見たらすぐに首をくくる」とか「とっついて殺す」とかいうようなすごい剣幕でしたから、多分何かあるのでしょうが、見物するには面白い。

そういうわけで、亭主を呼べと周りの人に相談したら、「もしそんなことをして怒ってポックリ死んだら困る」という。「怒って良くなる。もう治すのはそれより他にないのではないだろうか」といったのですが、多分そうなると思う。(中略)

自分の感情もあれば人の感情もある。それも生のままで置いてあるだけである。そうして発すべき感情は出せない。発さなくともいいような、人の感情の代理はやれる。

あちらとこちらと、どちらが良いかというのは他人が見るのです。良いとか悪いとか、偉いとか偉くないとかいうのは自分でいうべきではなく、他人が判断し決める問題である。他人が見て感じる感覚にまかせて、自分の判断をゆだねる。おかしいけれど、そういうようなやり方で感情を動かしていく。

そうして本来の、自分の体の中から生まれてくるような怒りも、悲しみもない。
「こういう時には烈火のごとく怒るべきだ」ということを覚えていると、烈火のごとく怒るのだけれど、本当は怒っていないのです。体で怒ってこないのです。(中略)感情が常に受け身に働いている。

体癖 (ちくま文庫) p139~141

こういう人はまったく精神が麻痺してしまっています。「自分の感覚」と言われても、「内なる声」と言われても、ぴんとこなくてぽかんとしています。

自分の「生の感情」とつながれていないのです。だから、模範解答ばかりを繰り返します。「心で感じていること」はつかめませんが、「正しいこと」「いうべきこと(普通の人ならこう言うだろう、ということ)」はいくらでも言えます。

そういう人は魅力がありません。
生気がないのですから当然です。

そういう人には、刺激を与えねばなりません。麻痺しきっているのですから、「全ては愛です」とか「ありのままのあなたでいいのです」とか「あなたは価値ある大切な魂なんだよ」とか、そんな優しい素敵な言葉をいったところで「はぁ」と生気のないレスポンスをされて終わってしまいます。

こういうときに、やはり強烈にガツンと効くのが怒りです。なんといっても怒りは第1チャクラ・ムーラダーラのエネルギー。生命力の源ですから。

自分を不当に扱われたと感じた時に怒るのは、自然な感情です。怒れない人は、不当に扱われても搾取されても「はぁ」とさえない返事をしてぼけーっとして、ただただ流されるままでいます。見下されボロ雑巾のように扱われる現実を変えられません。

私自身はおよそ10年潰瘍性大腸炎を患いその最後の方は血が吹き出るようなことも度々でした。
同時に呼吸困難、あちこちに激痛、疲労感。
毎月月末には生きていられるのだろうかと考えて怯えて来ました。

医師からストレスで死ねるんですよ、と諭されても一体逃れられない自分の状況をどうしようというのだろうと途方にくれました。

しかしある事がきっかけで少しストレスが減り、症状の殆どがきえてしまいました。
それでも心的外傷ストレスの症状が出るのが苦しくて色々読んでいるうちにこの本に行き当たり、納得出来ました。

自分が幼い頃から他のひとの不当と思える怒りの表現に晒されて、怒り自体を悪とみなすようになっていた事に気付きました。
怒りは自分の境界線を守るのに必要なのにそれ自体を否定して来たんですね。
自分を踏みつけられるマットにされる事を良しとした自分に身体が反撃してきたようにも思います。

怒りやストレスについて定義や対処の仕方を根本的に見直すヒントを得させていただきました。

「身体が「ノー」と言うとき」カスタマーレビュー 太字強調は記事作成者による

怒るって、大事なんですよ。
(もちろん、怒りすぎもよくないです。過ぎたるは及ばざるがごとし)

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