歌は世につれ世は歌につれ。
言葉も世につれ世は言葉につれ。
最近、男性の配偶者のことを「うちの旦那」とか「旦那さん」とか呼ぶ人、多くないですか?
「女性は品が大事」と言っている人も、「うちの旦那さんは」とか普通におっしゃるので、私は「オヨッ」と違和感を覚えたりします。
下品な言葉 「旦那」
私、確か中学生くらいのときになにげなく「あの人の旦那さんね〜」って話したんです。そうすると、母にたしなめられたんですよ。

ちょっと
「旦那さん」だなんて…
下品な言葉を使うのはやめなさい
そのことが結構強烈に頭に残っておりまして、私にとって「旦那」とは「下品な言葉」というイメージがあったんですね。だから最近平気で皆さん「あそこの旦那さん」とか「旦那が〜」とかおっしゃるので、「エッ、そんなに軽く使っていい言葉だったっけ?」って驚いてしまうのですよ。
でも、そもそも母がなぜ男性配偶者を「旦那」と呼ぶのが下品だと表現したかというと、「水商売で囲われている愛人を養っている相手(内縁の夫)を示す言葉」としてこの言葉を卑下していたと思うんですね。母は「うちの家系には離婚したり水商売をやるような変な人はいないのよ! うちはちゃんとした家なんですからね!」という人でしたから、水商売の人や籍の入っていない男女関係を連想する言葉を毛嫌いしていたのでしょう。
デジタル大辞泉(小学館)では、旦那の意味についてこう書かれています。
- ほどこし。布施。転じて、布施をする人。檀越(だんおつ)。檀家。
- 商家の奉公人などが男の主人を敬っていう語。「店の大―」
- 商人が男の得意客を、また役者や芸人が自分のひいき筋を敬っていう語。また一般に、金持ちや身分のある男性を敬っていう。「―、これはよい品でございますよ」「顔見世に―衆を招く」
- 妻が夫をいう語。他家の夫をいう場合もある。「お宅の―」
- 妾(めかけ)の主人。パトロン。「―がつく」「―を取る」
母は、このうち5の意味合いで「旦那」という言葉を使うことが下品だと言ったのでしょうね。
そんなわけで、私はこの「旦那」という言葉に対して結構敏感です。
そして、最近「旦那」と使う人の率が増えてきた感があります。「品格が大事」という人が多いのに、この結構とっぽく使われる「旦那」というワードも頻回に使われるようになってきた。
これって、世の中の流れを表している、つまり「令和的現象」なのではないでしょうか?
結婚とは、愛か金か。
さて、旦那という言葉を使うには男と女のつがいが成立する必要があります。
この、結婚にまつわる空気感というものはこの100年くらいで目まぐるしく変わってきました。
100年くらい前は、結婚は「親が決めるもの」。庶民だと村の年齢層が合う男女がいたら「おミヨちゃん今年数えで15だべ、うちの佐太郎は17だからちょうどええじゃろ」って感じで牛や馬をめあわせるノリでホイホイ結婚させていました。上流階級だともうちょっとめんどくさくてややこしいですが、それでも家柄や格が合えば親同士が勝手に決めてホイホイ結婚させていました。
50年くらい前は、結婚は自由恋愛でするもの。もちろん家のしがらみはまだまだありましたが、それでも理想としては「恋に落ちた男女が恋愛を経て結婚する」というルートが好ましいとされました。安保闘争な学生運動にヒッピーのラブアンドピース。ジョンレノンはオノ・ヨーコと結婚し、愛を歌いました。
お見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転するのも、この時期です。
30年前はフェミニスト運動まっさかり。
前時代的な「旦那」という言葉を嫌悪する女性も多かったのではないでしょうか。
男女雇用機会均等法も施行され、名目上は「男と女は平等である」という制度が整えられました。自立する女こそが先進的で格好良かった時代です。自立こそが格好いいということは、裏を返すと誰かに養われるということは格好悪いわけです。
この時期になると、50年前の「男と女は愛で結びつくべきだ」という潮流は単なる一部の人が実現できる理想ではなく、マジョリティにまで浸透しています。多くの人が「自分はなんとなく恋愛してなんとなく結婚するのだろう」と思っていたのがこの時期です。結婚には恋愛が必要という考えが確立してきたのは、この時期でしょう。
そう、結婚は愛でするもの。
金でするものではない。
金目当てに結婚をする人間はダサい。
もちろん金目当てに結婚する人だっていたわけなんですけれども、この時代には明確に「愛で結婚することこそが正義」という空気がありました。あからさまにお金目当てで結婚する人は蔑まれました。建前であっても、結婚は愛でせねばならなかったのです。
そして令和の今。
大人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の英訳タイトルは”We married as a job!”。「仕事の一環として結婚いたしました」というわけです。
結婚に愛はない。
家族として過ごしていくうちに情としてめばえてくる愛はあるかもしれない。でも、「愛ありき」ではないのです。30年前〜50年前から連綿と続いてきた「結婚は愛する男と女がすべきもの」という流れが、ここにきて途切れています。
この風潮はリーマン・ショック後によりはっきりと出てきたものとかんじます。それまでは「好きで好きで一緒にいたいから結婚する!」みたいなのが理想形であったのが「生活のために必要で結婚すること」に変わってきた。「好きではないけれども結婚したほうが人生設計として有利だから結婚する」ということがそれほど恥ずかしいこと、蔑まれることではなくなってきたのが2010年代だったとかんじます。
結果として相対的に、恋愛のプライオリティも下がります。それまでの恋愛至上主義的「恋さえしてればハッピー!」「女の子は恋しなくっちゃ!」「クリスマスに一人だなんて人生終わってる!」イデオロギーはかなり薄められていきます。むしろ「それ、恋愛依存じゃね?」「恋愛脳の人って無理〜」と眉をひそめられるようにすらなってきたのです。
つまり、「金でする結婚」「計算(打算)でする結婚」が現実としてシックリくるようになったわけです。愛で結婚してたら食えない時代とも言えましょう。
そ こ で
旦那
です。
もう一度さきほどの辞書にのっていた「旦那」の意味を並べます。
- ほどこし。布施。転じて、布施をする人。檀越(だんおつ)。檀家。
- 商家の奉公人などが男の主人を敬っていう語。「店の大―」
- 商人が男の得意客を、また役者や芸人が自分のひいき筋を敬っていう語。また一般に、金持ちや身分のある男性を敬っていう。「―、これはよい品でございますよ」「顔見世に―衆を招く」
- 妻が夫をいう語。他家の夫をいう場合もある。「お宅の―」
- 妾(めかけ)の主人。パトロン。「―がつく」「―を取る」
どうでしょう。
一つの共通点が見えてくると思いませんか。
旦那と呼ばれる人は、基本「経済力のある人」なのです。
この令和の厳しい時代、経済力のある人は相対的に価値が上がっています。援交するオッサンは平成のギャルから心底バカにされていましたが、令和の港区女子はオッサンでも金があれば結婚したいと真剣に思っています。平成ギャルはオッサンとなんて結婚したくなかったんです。これは大きな差です。
つまり、昭和や平成と比べて経済的に苦しい人が増えた。
結果、「旦那」という言葉の威力、価値が上がってきたのではないでしょうか。そこまで考えてないかもしれないけれども、「旦那」という言葉を使う人が増えたのは「旦那」という言葉にひそむ金の匂いを求める人が増えてきた証左なのかもしれません。
歌は世につれ世は歌につれ。
言葉も世につれ世は言葉につれ。
なんとなく使っている言葉にも、世相が映し出されるものです。
面白いですね。