人生に小さな死をもたらすと、新鮮な気持ちで生きられる。

子どものいないあなたのための スピリチュアルブログ
写真AC

アメリカ陸軍士官学校の元教官が書いた人殺しの心理学
ミリヲタなおいらが嬉ションして読んじゃうタイプの本です。たーのしー!!!

この本、表紙とタイトルがグログロしてます。けど、内容は「人は基本的に人を殺せないもんなんだよ。できうる限り殺さずに済ませるように人殺しを避けるんだよ。それでも人を殺してしまうと心が壊れるんだよ」的なことが書かれています。意外と性善説な本です。

(だからまあアメリカ軍は研究に研究を重ねて、元々は人殺しができない人間を人殺しができる兵士へと育成してきたわけですが)

この本は、少年が豚の屠殺現場に立ち会い、命に真剣に向き合う大人たちを目にするところからはじまります。

今日では、肉をとるために家畜を殺すときは、急速冷凍貯蔵所に家畜を送り、係員に手数料を払って殺してもらう。

豚を屠殺すると、しばらくは豚肉を食べる気がしなくなる。豚どもが屠殺されるのを嫌がっているのがわかってしまうからだ。仲間が連れていかれたきり戻ってこなかった場所へ、無理やり引きずっていかれるのを嫌がるのである。

それは、子どもにとっては大した見世物だった。
生きた肉の塊を見、ほかの動物の生きた内臓を見るのだから。

きっと気分が悪くなるだろうと思っていたのだが、予想は外れた――できるだけ近くで見ようと、夢中でにじり寄っていったほどだ。

いまでも憶えているが、いとこも私も興奮に我を忘れて、囲いの外から豚に小石をぶつけはじめた。豚が飛び上がったり、きいきい鳴きながら逃げまわるのが面白くてたまらなかった。

と、ふいにがっしりした手に肩をつかまれた。
くるりとふり向くと、すぐ目の前におじの顔があった。
「こんどそんなことをしてるのを見つけたら、腰が抜けるほどぶちのめしてやるからな、わかったか?」
私たちはふたりとも震え上がった。

おじが怒ったのは、どうやら屠殺と関係があるらしいと子ども心にもわかった。
屠殺は儀式であり、儀式らしく行われていたのだ。

手早くすまされるその儀式は、あくまでも厳粛に進められていた。冗談を言う者はおらず、会話もほとんどない。男も女も、自分の仕事に没頭していた。だれもがなにをすべきかよく心得ていた。

そしてどんなときでも、食料になる動物たちへの畏敬の念があった。

私たちが豚に石をぶつけたことは、その儀式を踏みにじる行為だったのである。
儀式は粛々と続けられた。

(中略)

あれは強烈な体験だった。
生と死の境界があいまいになるという体験。
人が手元にあるものでなんとかやっていた時代、自力で生きていた時代、大地から摂れるものを食べ、地と神のはざまで生きていた時代。そんな時代は失われた。この地上から失われただけでなく、記憶からも失われてしまった。

人殺しの心理学 p16~17

今の世ではすっかりグロイものは子どもたちの目の前から封印されています。が、ここに出てくる少年たちは大人たちの命に向かう真摯な姿勢によって、その重さを体得することができたのです。

三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界でも、年端もいかぬ少年修行僧に死の場面を見せるくだりが出てきます。

昔のチベットは鳥葬を行っていましたから、死体を山の台に置いて鳥に食べさせるんですね。でもそのままだと食べにくいから、ちゃんと手足を切断して頭蓋骨を砕いてお腹を切り開いて中身を出し、鳥さんの食べやすいようにします。

その様子を、子どもたちにしっかりと何度も見せるというのです。

死体が砕かれていく様子を、恐ろしいと思うでない。
その死体はすでにお前自身でもある。
お前の中にもすでに死体があるのだ。

この真理を体得させるために、何度も鳥葬にふされる死体を見せるのだそうです。死を他人事にせず、自分の内にすでにあるものだと理解せよ、と。

確かに、私たちはあまりにも意識せずに過ごしていますが、肉体の中は生と死にあふれています。皮膚は約6週間で生まれ変わって、入れ替わります。つまり、何度も生まれては死んでいます。腸内フローラの微生物だってそうです。生まれては死んでいます。白血球だって不要な物質やウイルスや細菌などを飲み込んだあとは死んで排出されます。うんこや垢は細胞たちの死体でもあります。

私たちの肉体では、実に多くの生と死が毎日起こっているのです。

呼吸だって、生と死の象徴であります。吸うことによって生まれ、吐くことによって死にます。
睡眠だってそうです。朝起きることで生まれ、夜眠ることで死にます。だから、死の恐れを心の奥深く抱く人は不眠症になります。眠り際に「このまま目がさめなかったらどうなるんだろう」とふと考えたことがある人も多いことでしょう。

意識していないだけで、生と死はものすごく身近に存在しているのです。
そこから目をそむけるから、生も死も歪んでしまう。だって、「在る」ものを「無いこと」にしているのだから。そんなこと、世の中にたくさんあるでしょう。

占いでも七冲とか土星回帰とか、死とか破壊とか終わりとか、そういうワードが付きまとう配置がありますよね。それだって、フレッシュに生まれ変わるためのブランニューな配置なのです。タロットの「死」のカードもそう。

そういう人生の中の小さい死を生かしてこそ、輝きはもたらされます。

これは個人だけではなく家系でも国でもそうです。
栄えて衰える。徳政令や明治維新みたいにいったんリセットされる時期が定期的に来ます。それは自然の流れです。

腹筋だけは割れとるぜ(ドヤァ

私は一時期アシュタンガ・ヨガを定期的にやっていました。なので、チベットの五体投地の様子をみると「スーリヤナマースカラ(太陽礼拝)のようだなあ」と感じます。

五体投地
朝ヨガ お家で太陽礼拝A by Akiko Nakamura #001

ヨガスタジオの忘年会で「太陽礼拝100回マラソン」みたいなことやるんですよ。笑 そうすると同じ動作をずーっとずーっとずーっと繰り返すわけですから、頭真っ白になって何も考えられなくなるんですね。軽いトランス状態みたいな感じになります。

そうやってヨガのアーサナ(ポーズ)を呼吸とともに行っていくと、肉体の中に閉じ込められていたネガティブなエネルギーが解放されて、ワーって出てきます。
一番強烈に出てくるのが、最後に行うシャバーサナ(死体のポーズ)なんです。

【シャバーサナ】ヨガ最後の瞑想の時間

シャバーサナとかカタカナで書くとなんか難しそうですけど、死体のように横たわるだけなのでポーズをとるだけなら至極簡単です。床に寝ればいい。(でも、ある意味では一番難しいポーズでもあります)

そんななんの変哲もないポーズを取ったときが、一番エネルギーがわーって上がってくるんです。シャバーサナをしてるときにハートから熱いものがこみあげてきて泣いてしまったりもします。歓喜のうずが体中からわき起こって、満面の笑みになったりもします。

死体(のポーズ)は、解放で浄化で癒やしなんです。

いろんなアーサナ(ポーズ)のあとにシャバーサナをすると、体が軽くなってふわあ〜っと自分が空間の中に大きく広がっていく感覚がします。これは、チベット死者の書(バルド・トドゥル)のいう死の瞬間の記述と同じことでしょう。大きな喜びに包まれて、穏やかで安らかな気分になります。

それくらい、「ただ寝転がってるだけ」に見える死体のポーズというのは強烈な体験をもたらす重要なポーズなのです。なぜなら、そもそもヨガも瞑想も仮死の体験だから。

ポワは不思議なヨーガのやり方です。
死の瞬間が訪れたとき、それをおこなうと、意識体の全構造(マナ識)をそっくりそのまま、「心の本性」に転移させてしまうことのできる技術と言われて、チベット人は修行者もそうでない人も、このヨーガにだけは、生きているうちから習熟していよう、と努力しているのです。

早い話が、これは急激な仮死の状態をつくりだす技術です。死の訪れた瞬間に、自分のコントロールの能力によって、仮死状態に入り、死後の意識体がバルドの自己運動に巻き込まれないようにするわけです。

(中略)

ここのところが、チベット文明の伝承してきた「死の教え」の、もっとも興味深いところでしょう。深い瞑想やシャーマンのトランスによってもたらされる、仮死に近い状態の体験とか、いったん死んで生き返ったというニア・デスについてのおびただしい報告と体験の積み重ねをとおして、このような教えが、長い時間をかけて形成されたきたのだと思います。

三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界 p77~79

さあ、現実世界を変えていこう。でご紹介しているトム・ケニオンの音声瞑想を行ったとき、友達は以下のような感想を述べました。

この瞑想を試した友人が「これって死後の世界だよね。だからはじめはちょっと怖かった」と言いました。そう、そうなんです。このメソッドにより内側と外側の境界線は消える。すなわち「肉体の無い=肉体から離れた状態」を体験しているのです。

2/16 新月の日に拡大意識とつながろう会(メルマガ読者限定記事)

でも、この「仮死の体験」をすると、ものーすごい心がスッキリするんですよね。心が洗われたようにサッパリする。眠りに入っていくことが小さな死だとしたら、眠ったあとの肉体はスッキリサッパリと晴れやかな状態へリセットされます。瞑想っていうのは一旦死の世界につながることで精神をリフレッシュさせてくれるんですね。

死ぬからこそ、新鮮な気持ちで生きられる。

「死にたい」というメンヘラに厳しい態度をとる理由

わたしは「死にたい」という人に寄り添いません。
「死にたいなら死にな。なんで生きてるの」と言います。死にたいという人には死ねと言い、生きたい人には生きろと言います。発した言葉をそのまま肯定し、発言の言霊自体を尊重します。

「死にたい」というなら、絶対に死ぬべきなのです。
本当に死にたいなら死にたいなんて言ってる前に死ぬべきです。

死にたいのに死んでいないのは、本当に死にたいのではなく「辛い」とか「苦しい」とか「ここから逃げたい」とか別の理由があるのです。それをいっしょくたにして「死にたい」というのは自分の心に対して雑すぎます。心も言葉も、雑に軽く扱うのはいけません。

同じく私は自殺を否定します。

しかしながら、微妙なところ、覚悟を持ったうえでの自死については簡単に否定できないとも考えています。安楽死は是か非か。個人的見解に書いたように、安楽死について(条件付きで)肯定的なのも、そういった理由です。

細かいことを言うと「死に入っていくときの心の状態」というものがとても大切だからです。「死にたい」「死にたい」と言ってはズルズル死なないで人を振り回す迷惑で浅はかなメンヘラは問題外ですが、沈んだ心の状態で死んでしまうと、いわゆる地獄に落ちてしまいます。死で救われるどころか苦しむ羽目になってしまう。

といっても、地獄という場所が実際にあるわけではなく、これは比喩です。
正確には、肉体を失うと「思ったことがそのまま実現する世界」に移行してしまうから。つまり、思考がそのまま現実になる世界に移っていくことになるんですね。

「こうなったらいいなって思ったことがすぐ叶うなんて、素晴らしいじゃないか!」
こう思われたかもしれません。そう、確かにそうなんです。愛に満ちた状態で肉体を離れた人はそれこそ極楽浄土、天国に行きます。全てが光に満ちていて、穏やかな世界です。こういう死は真の救いです。

でも、逆に「自分なんかダメ人間で死んだほうがいい。消えたい」なんて心の状態で肉体を離れてしまうと、「自分なんか本当にダメだ価値がない」と心底思わされるような世界を無限に体現しちゃうんです。それこそが、真の地獄。

「思ったことがそのまま現実になる」というのは、肉体のある状態ではなかなか難しいのですが、権力を握ったり富を得たりした人は限定的ではあっても、生きているうちから自分の思った通りになる世界を構築することができます。

それが幸せか?
いやいや、その人の心の成熟度によるのです。
天国にもなれば地獄にもなる。

(漫画)最強の天下人、豊臣秀吉の生涯を漫画にしてみた(マンガで分かる)

豊臣秀吉は、晩年に暴君としてふるまったことで有名です。
茶人の千利休や後継者である豊臣秀次を死に追いやり、豊臣氏は滅亡への道をたどりました。

鶴の一声で自分が思ったことが即現実化してしまうような世界では、未熟な心でいると悲劇が起こる可能性がある。老いた秀吉の姿は、そう教えてくれるのです。

豊臣秀吉はアルツハイマーだった?晩年の奇行、謎だらけの茶会中止…
1587(天正15)年、九州を平定した豊臣秀吉は、京都の北野天満宮で「無礼講の大茶会」を開催した。世にいう「北野大茶会」である。『北野大茶湯之記』という史料によ...

ある意味この「思ったことがすぐそのまま現実化しない」という重苦しい物質世界は、リミッターでありストッパーでもあります。どれだけ「アイツは死ね」と思っていても、そうそう簡単に相手が死ぬことはありません。

だから、私たちは生きているうちに、まだ肉体というくびきがあるうちに、心を成熟させねばならないのです。今の人生で起こることは、身の回りで起こる人間関係は、まさにそのために用意されていると言っても過言ではありません。

肉体を離れると、バルドの世界に投げ入れられ、そこは天国にもなり地獄にもなります。それを天国にするか地獄にするかは、感情を抑圧せず感じたまま、かつ溺れずに愛ある方向へとコントロールできるかという技術を生きている間にどれだけ発達させることができたかどうかにかかっています。

地球は感情の学び舎です。
だから、面倒くさいかもしれないけれども、感情を感じ、ある時は振り回され、ある時は溺れる体験も無駄にはなりません。

ただ、一生そのまま振り回されて溺れてしまってはいけません。そこから抜け出し、感情を感じてなおそこにははまりこまない自分を確立する(グルジェフの言うところの自己想起する)ことが大切です。

人生に意味のないことは起こりません。
今、あなたの目の前にある現実の出来事こそが、心を成熟させるために一番適した舞台演目となっているのです。

精一杯取り組んでください。
愛ある成長と成熟を成し遂げるために。
あなたはそれだけのことができる魂なのです。

自分自身と、自分の周りの世界について
学べることを全て学びましょう。
実際のところ、これは本当に教育なのです。

自分自身について学び、そして
自分の周りの世界について、また
自分と世界の関係について学ぶこと。

世界とは、生きているものとそうでないものの全てを含みます。
これが最高の教育なのです。

ウ・ジョーティカ「自由への旅」 p76
タイトルとURLをコピーしました