あのー、あんまりこういうことは、書きたくないというか…
いや、嫌なわけじゃないんですけど、私、推しの話をするのがメチャクチャ恥ずかしい性質でありまして。いや、照れるっていうか、無理じゃね?ってなるんですよ。いい年こいて。
これは二次元だけじゃなくて三次元でもそうで、リアルタイムのパートナーの話(いわゆる恋バナ)とか、私、できないんですよ。恥ずかしくて。照れるんですよ。いい年こいて。
過去のことだったら平気なんですけど、現在進行形のことはなかなか無理です。恥ずかしすぎて!!!(我がミューズ、南野陽子様の輝かしきデビュー曲)

でも、ちょっと上の人(私のガイド)が「これ書きなよ、いい加減シンクロ積み重なって重要だってわかってるでしょう」と無茶振りしてくるので、ちょっと、推しの話をします。一人ですごい恥ずかしいですが、ちょっとスピリチュアルなことでもありますので、お読みください。
今、私は刀剣乱舞の源清麿と長曽祢虎徹の組み合わせにはまっております。
この二人の関係性はちょっと特殊で、「もともと一つであったものが思念によって二つに分離した」という状態です。本来ならば一つしか存在しないものが、強い想いによって二つになったのです。
別に名をつけたから、一つのものが二つになった。
本来は一つのものなのに、分離した。
これって二元性の最たるもの、太極からの陰陽の分離と同じですよね。

聖書でははじめに神が「光あれ」といったそうです。
そうすることで、混沌たる世界に光ができ、そして同時に闇もできた。光と闇を分離することで、この世界の具体的な形を作る基礎ができたのです。
日本の神話でも、初めて世界に降り立った神々(別天津神)は無性です。だんだん世界が形作られてくる(つまり分離して二元性の法則が働きだす)と、イザナギとイザナミのような男神や女神が現れてきます。
つまり、私がBLに尊みを感じることができるのも、攻と受に分離しているからなのです。

若干何を言っているのかわからない人のために(もちろん全然わからないほうが健全で好ましいことです)もっと汎用性を持たせた表現をするならば、私たちがパートナーを求めたりつがったり引き寄せられるのは、分離しているがゆえのことなのです。
源清麿と長曽祢虎徹はもともと一つのものでした。
でも、わざわざ分離しました。
ゆえに、今私はそこに刺激を覚えて興味を引かれることができます。分離ゆえです。
分離していなければ、引き合いもしません。
二人でいたいなら、一つになってはいけない理由にも書いた通り、本当に「二人」と言う存在でありたいならば、分離が必要なのです。
セッションで、あるお客様はパートナーについてこう言われたそうです。

同じ職場にいて同じ業種でやっていくというのはあまり好ましくない
同じ仕事を続けていきたいというならば、別の会社に転職しなさい
この方はパートナーと共に企業の経営に携わっていて、これから伸びていく流れにありました。
今まではパートナーが主で自分が従でいてよかったのですが、ぐんぐんと力を付けていく段階になると力量が拮抗して「一つ」になってしまいます。
つまり、相手か自分が、極端な場合死んだり失踪したりする。もちろん、そんなケースはまれです。良くあるのが、パートナーの力をしのいだ時に、相手が「自分はもう必要ないんだな」と自信を失ってしおしおと目の前からいなくなってしまうという事態です。
松村潔先生は「ツインと出会うとすべて消滅するということもある」と表現しています。これも「二人が一つになること」ゆえに起こり得る現象です。
たとえばの話、わたしがツインとその場所で会ってしまうと、そもそもツインは出会うとすべて消滅するということもある
2018年2月11日からの雑記: 20190515 ツインに関係しているのか
「一つ」になると、「二人」ではいられないのです。
二人でいたいならば、名を分かたねばなりません。つまり、役割を分担せねばならない。完全に対等で同等であるならば、一つ(太極)になってしまうのです。二つ(陰か陽)である必要が無い。
しかしながら、二元性の統合をなしてより高次のステップへと踏み入れた人は、もう二つではなく一つになります。陽であり陰であります。光であり闇でもあります。男であると同時に女でもあります。
そうなってくると、
物質(量子)は、互いが互いの状態に依存しており、それは「相手の状態の影響を受ける」という性質、つまり、
「物質はひとつであり、ふたつである」
という性質から、片方の状態を変化させると、もう片方も変化することで「移動したようになる」というような技術です。
モンタニエ博士の2011年の実験は、
「その性質が、私たちの DNA そのものにある」
という可能性を明らかにしたものであり、私たち人間そのものが、「ひとりであり、ふたりである」という存在であるかもしれないことを示すのです。
実際、先ほどの人工ウイルスの記事を書いている時に、「ああ、この博士は確か…」と思っていたのですが、人工ウイルスの話を書いている時に「人間はひとりであり、ふたりでもある」とかを書き始めると、記事全体がややこしいものになると思いまして、その際にはいっさいふれませんでした。
どうして、今回、この話にふれたかといいますと、先ほどのジョン・タイターという人が(実際にタイムトラベラーかどうかは別としても)述べていた、
「別世界への移動の理論」
というものも、基本的にはこのような、「ひとつであり、ふたつである」という物質の特性から可能になることなのです。
量子的な性質を利用して「この世界にいながら、他の世界にも存在する」という状態を作り出すのが、タイターさんの言うタイムトラベルです。
タイムトラベルというより「多次元宇宙への移動テクノロジー」と言うべきですかね。
「私たちは終わることのない完全な永遠の状態の渦中にあるのだから」 – In Deep
リンデンバウムがあまり「恋愛推し」をしないのも、むしろ恋愛依存、恋愛脳否定をするのも、「そうするとあまりにも『二つ』の状態に固定してしまうから」という理由があります。
「相手は自分」ということに気づけず、「相手は自分をわかってくれない」とか「相手は別の人」という分離の中にはまりこんで、相手の中(特に自分のシャドウとなる相手の嫌な部分)にこそ自分が気づかねばならないものがあることを理解できないままでいる人が、あまりにも多いのです。
そうじゃない、それは、あなたの鏡なのに。
二つではなく、一つなのに。
本当にずうっと恋がしていたくて、一緒にいる相手を求めていたいならば、それは分離していなければならないのです。だと、統合の道に至らない。それはちょっとスピリチュアル的には停滞なんじゃないですかね、という話で。
もし自分が何百万回も恋に落ち、それがいつも失敗に終わったことがわかるようになったら、その罠にふたたび陥ることはありえない。それは虚しいということがあなたにはわかる–魂の恋人などいない、いたことがない、と。その孤独は絶対だ。親しく交わるすべはない。意志を伝えるすべはない。
— OSHO bot (@osho_bot_jp) July 26, 2020
でも、「二つであって一つであり、それは二元性のゲームなのだ」ということをグルジェフ風にいうならば自己想起して眺められるのなら、言い換えるなら「ツインソウル(ツインレイ)と一緒にいれば自分はハッピーになれる☆彡」とかそういう勘違いをして恋愛にのめりこむことにならなければ、それはそれでこの世界の真理を深く体感していくには有効なのかもしれません。
あんまりこういうことは書きたくないんですけど、上の人が書けというので書きました。
あー恥ずかしかった。(そして、おそらくこれは多大なる自意識過剰であって、読んでいる方は私が何が恥ずかしいんだかさっぱりわからないと思うのです)