老後という時間こそ、スピリチュアルに満ちている

精神世界:スピリチュアルブログ

若いころ、母をはじめ、年上の方からこうネットリと絡まれることがありました。

早く子ども作らなきゃ!
子どもがいなきゃ
さびしい老後になっちゃうよ!

こういったありがたーい年長者のアドバイスに、私は違和感を持ったものです。

こういう方は「老後はたくさんの孫に囲まれてワイワイにぎやかに過ごす」ということを好ましいヴィジョンとして描いているのでしょう。しかし、想像力を巡らせるに、私は老いて幼い子どもと共に生活したいとはあまり思わないのです。

確かに、子どもはかわいいです。
しかし、子どもと直接的に触れ合って「楽しい」と思えるのはせいぜいアラフォーくらいまでで、本格的に老いてからエネルギッシュな子どもと一緒に暮らさねばならないというのは、少々キツイと感じてしまいます。

体のあちこちにガタが来て、動くのもしんどくて痛いのに、無邪気に「おばあちゃんも一緒に遊ぼうよっ!!」と誘われると、厳しいです。

しかも、子どもって、超あきらめないし。「いや、ちょっとね、おばあちゃんはね、遠慮しとこうかな…」といっても「どうして!?遊んだら楽しいよっ!学校の先生だって動いたほうが体にいいし元気になるって言ってたよ!ホラ一緒に走ろうよ!!!!!!」って無邪気に悪気なく圧をかけてくるのが子どもですよ。無理。

いや、かわいいですよ、子ども。それは本当に思いますよ。
でもそのかわいさは写真や動画で味わえば十分なのであって、直接「ねえ、おばあちゃんこっち来て来てー見てー!!!」って遠くから呼ばれて、ひざの関節が痛いのにえっちらおっちら歩いて行かなきゃならないのは、ちょっと辛いんですよ。

老いて幼い子どもと暮らすのが幸せ、とはちょっと思えないんですよ。
私も、「孫疲れ」するお年寄りになること請け合いなんですよ。あんまり子どもと関わりたいとは思えない。

じゃあ私の理想の老後はどういうものかというと、「ちゃんと死ぬ準備をしてふうっと死んでいきたい」。
この物質的な世界への執着を手放して、宇宙と大地に還っていくための準備をしていきたい。

そのためには、静謐な時間が必要で、自分の内面深くに潜っていく、自分の内側にある「広大な空間」につながっていって、死への恐怖を超越し肉体を離れていく準備がしたい。
そんな老後が理想的と思うんです。

今の世では「死の準備」というのが、あまりにもおろそかにされているでしょう。いつまでも治療していつまでも延命していつまでも生きていることこそ尊い、健康診断を受けましょう!!薬を飲みましょう!!ワクチンを打ちましょう!!みたいな誘導がされるでしょう。

そういうの、ちょっとしんどいんですよ。
もうすべきことをやり終えて肉体を離れていこうってフェーズになったら、「いかに生きていくか」ではなく「いかに死んでゆくか」を大切にしていきたいんですよ。

神経の難病におかされスイスでの安楽死を選択した女性は、死と向き合った結果このように家族へ語ったそうです。

・死を考えることはどう生きるかを考えることと同じぐらい大切な事
・面倒を看てもらっても、ありがとうもごめんねも言えなくなる
・私は思い残すことはない。お願いだから逝かせてほしい
・私が私であるうちに、安楽死を施してください、自分に残された 最後の希望の光なのです

医療者と共に考えたい | 多系統萎縮症がパートナーになっちゃった

病気だって、衰えだって、「もう生きなくてもいいですよ、肉体から離れていくための準備ですよ」って素直に受け入れて治療しなくったっていいじゃないですか。なんで病気だと思ったら「病院に行かなきゃ!診断受けなきゃ!」って言われなきゃならんのですか。

肉体は意味のないことなどしないのだから、「ああ、そうか。そう在りたいんだなあ」って受けとめればいいじゃないですか。それは大地と宇宙に還っていくプロセスであって、邪魔なものではないのだから。

病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。
健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。
私は健康も疾病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。

風声明語2 野口晴哉

そんな風に感じていた私に、オーストラリアの先住民・アボリジニの「老後の過ごし方」が一つの答えをくれました。

アボリジニーは、ヒンドゥのヨーガ行者も顔負けの、きわめて高度な瞑想の実践をおこなっていたのです。それは、こういことです。

アボリジニーは老人になると、それまでの家族や社会にとりかこまれた生活を捨てて、一人で山の中に入っていき、そこで孤独な瞑想の修行をおこなうのだ、というのです。彼らは一人になって樹木もまばらな山の中にゆき、岩の上にすわり込み、目を青空に向け、そこで呼吸を整えながら、じっと、いつまでも青空を見つめつづけるという修行に、一日の多くの時間を費やすようになるのです。

目を見開いて、青空を見つめる。
いっさいの思考を停止して、感情をかきたてる社会生活の思い出から離れて、じっと青空を凝視するアボリジニーの老人の目からは、宇宙に遍満する力の流れの、もっとも深くもっとも純粋なエッセンスが、光となって、流れ込んできます。

このとき、老人は彼らの人生の真実が隠されている「ドリームタイム」という力の流れの、まさに核心に触れようとしています。
彼らはもうすぐ、肉体の死がやってきますが、肉体に死が訪れるよりも前に、彼は生と死のさらに彼方にある、宇宙的な力の流れの実在を、体験しようとする。

アボリジニーは、認識によって、死をのりこえようとしていたのではないでしょうか。

ナンディスヴァラ・ナヤケ・テロ師は、この事実を知って驚嘆します。
三万五千年もの間、自分たちの文明の本質を変えなかったこのアボリジニーたちが、実践していることは、多くの点で、ヒンドゥ文化や仏教が理想にして創出しようとしてきたものと、共通点を持っていたからです。

その「出家主義、呼吸法と姿勢を基本にしたヨーガの方法、目を見開いて青空を凝視する高度な瞑想――アボリジニーの実践は、人類の精神文化の、驚くほどの深さ、古さを感じさせます。

三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界 p44~45

このくだりを読んで、私が感じたのが
「ああ、そうか。姥捨て山というのも、そういうものだったのかもしれない」
ということです。

姥捨て山というのは、口減らしに働けなくなった老人を山に棄てるという伝承です。親不孝の可哀想な昔話とされています。しかしながら、民俗学の本を読んでいくと必ずしも悲壮一辺倒なものではなく、死を受け入れていく場所としての役割も見えてくるのです。

池照雄の『遠野物語をゆく」(1983)でも、村田喜代子の「蕨野行」の設定を髪環とさせる記述があり、棄てられた老人が自活しつつ、衰弱して死を待つ場所としてデンデラが描写されている(菊池1983:51)

《論文》「棄老研究」の系譜(1)民俗学的アプローチと文学的アプローチを中心に-2015

出来る範囲で生きつつ、衰弱していく肉体を受け入れて死んでいく。これは荒野に向かう老いたアボリジニと似ています。

もうこの世界を離れていく準備をするのに、世俗的な孫育てや現役世代のいざこざに巻き込まれてしまうと気が散ってしまいます。いつまでも現役世代のような気分でいてしまい、却って若い世代の足を引っ張る「老害」になってしまいかねません。

俗世との縁を切り、生きながらにして死の世界に向かっていくにはやはり「出家」が必要になってきます。姥捨て山は、死に向かう人間の出家の一形態と言えるのではないでしょうか。

私が算命学を勉強している時、高尾義政先生(写真)の言葉に打たれました。
「人間は、いつまでも生きているわけにはいかないのです」

何という深みでしょう。「占いでハッピーになろっ☆彡」だの「ありのままのあなたが素敵♪」だの、そういう最近の占いが言いたがる薄っぺらぁ~い中身の無いスッカスカな言葉とは、一線を画す重みがあります。

この言葉に出会った時、私はあまりの衝撃にしばらく立ちすくみました。
「いや、その通りです、先生。よくぞ言ってくれました、先生」と。

いつまでも生きようとしてはいけないのです。
生きるべき時は生き、死ぬべき時は死ぬ。

そうでないと、人の命は美とはならぬのです。
生命を美しく輝かせるには、生きる覚悟と同時に死ぬ覚悟、両方が必要なのです。

今の世は生きることばかりを賛美します。その反動ゆえに「死ねば楽になれる」とフワッと勘違いする愚かなメンヘラも増殖します。

つまり、バランスが悪い。
生も死もどちらも等価に大切です。
陰も陽も、どちらも大切なように。

正しく死に向かうことは、生きるために非常に重要なことです。
チベット密教の死生観や、老いたアボリジニーの死に向かう姿勢、古代日本人の死に対する考え方など、私たちはもっと死を真摯に学ぶべきではないのでしょうか。

タントラは、そうとうに深い真実の理解に達した人のために、書かれたものですからこの『太陽と月の結合』も、一般の人々のためではなく、一人で孤独な探求を行う修行者が読者である、という前提で書かれています。

そういう人たちは、山の中や森の中で孤独に暮らすのを好みますから、とうぜん一人で死んでいかなければなりません。

そのために、自分の死期を自分で知って、それにあわせて準備をおこなう必要があります。
このタントラがこれにつづいて、微に入り細に入り、死の兆候をリストアップしているのは、そういう人たちの必要に応ずるためなのです。

(中略)

このような死の兆候が、延々とリストアップされ、いつ死という現実が自分にやってくるのかを、確実に判断するための、手助けがあたえられるのです。

修行者はこのとき、じゅうぶんに兆候を観察して、死の時期を知り、それを知ったら、ほかのよけいな修行や瞑想を、全部ストップして、ただ「心の本性」をのぞきこむ、ゾクチェンの瞑想だけに集中するように、との忠告が与えられます。

三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界 p73~75
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