メルマガ読者プレゼントで、うさとの服を「魂レベルが上がる服」としてご紹介しました。
しかし、このうさとの服を着ても「まったく何も変わらない人」というのもいることでしょう。パワーストーンを持ってみても対して効果の感じられない人や、パワースポットに行ってもあまり変化のない人がいるのと同じことです。
つまり、スピリチュアルな情報やエネルギーを受け取れる幅を広げている人か、そうでない人か、ということです。
私はスピリチュアルな仕事をしているくせに、神社巡りや祐気取り(お水取り)をする人に対してあまりいい感情がありません。
もちろん、そういうことに励む方でも精神を美しく羽ばたかせることもできる方もたくさんいらっしゃるのでしょう。ですが、そういう手法に依存してしまうあまり、自分の内面に全然目を向けない人も、残念ながら目にするのです。
私が風水(気学)についてあまり肯定的ではないのは、学べば学ぶほどそれが「天子のもの」であることを思い知らされるからです。四柱推命や算命学もそうですけれども、東洋の伝統的な占術(東洋哲学)は帝王学なのです。
帝王学って、わかりますか。帝の視点で「いかに国を治めるか」という学問です。
庶民のものではありません。
だから、算命学の教科書を読んでいても、内容自体は素晴らしくはありますが、マキャベリの「君主論」を読んでいる時と同じ違和感を覚えます。大衆的価値観とはズレがあるのです。
つまり、「将の視点」であるがゆえに、一人の兵の命など軽く扱うようなきらいがあるのです。「一寸の虫にも五分の魂」なんて視点はまずありません。イン・ラケチ(あなたはもう一人の私です)というワンネス的視点もありません。
そんな「帝にとってのツール」を深く使いこなそうとするなんて、正直「庶民の幸せ」からはずれてしまうと感じるんですね。帝の求めるものを、ほとんどの庶民は求めていないでしょう。帝の道(天命)というのは、非常に険しく業の深いものです。
庶民の幸せというのは、もっと凡庸でささやかなもので、血なまぐさくないものでしょう。
だから、かえって形骸化させてしまって「黄色いお財布を持てば金運UP♪」なんて毒にも薬にもならないようなレベルで「おまじない」程度に使うなら、風水も気分転換に良いものでしょう。
でも、真剣に風水(気学)を学んで取り入れるならば、「あなたは帝のエネルギーを受けおえるだけの器があるのですか?」と問わねばなりません。

風水に凝って風水建築で家を建てた人を知っています。彼、Aさんは結婚しても母親にベッタリで、当然夫婦関係はあまり良好とは言い難い状態でした。そして、Aさんはマイホームを建てるときに母親のいう通りに(≓妻の意思は無視して)風水的に設計をし、風水的に完璧な家を建てました。
その風水的な家で完璧にAさんは幸せになれたか。
待っていたのは妻との離婚でした。姑の目ばかり気にして、妻である自分をないがしろにする夫と子どもを作る気にもなれず、奥さんはその風水的な家から出て行ったのです。
風水に従えば完璧に幸せになれる?
いや、その前に、目の前にいる人と心を通わすことでしょう。言葉を交わすことでしょう。ちゃんと、愛の器と広げておかないと。風水に頼るのはその次でしょう。

あるスピリチュアル好きのBさんは、神社巡りやパワースポットが大好き。海外のパワースポットにも積極的に訪れるほど。
しかし、それが実生活で何か身になっているのかというと、疑問符がつきます。
パワースポットに行っても、彼女の波動は上がらないのです。なぜなら、地に足をつけて現実生活を大切にしていないから。
彼女が第一に学ばなければならないのは神社での参拝方法ではなく、現実に人と愛をかわすにはどうしたら良いかということ。感謝に満ちた関係を築くには、神社に行くよりもお水をくむよりも、家族や職場の人に「ありがとう」ということが必要です。
でも、彼女は神社やパワースポットにしか興味がありません。人に興味がないのです。
日々の日常で、自分の愛を大きくするチャンスを、毎日毎日もらっているのに気づけません。もったいない……。
パワースポットに行っても、器が小さな人は小さいエネルギーしか受け取れません。器が大きな人は、大きなエネルギーをもらって変容を遂げることができます。
一番はじめに「うさとの服を着ても変わらない人」と書いたのは、この「小さなエネルギーしか受け取れない状態の人」という意味です。
いいですか。
一番のスピリチュアルなイニシエーションはパワースポットで起こるわけではありません。私たちの日々の日常の、小さな積み重ねこそがスピリチュアルな成長を促してくれます。
パワースポットに行って、ビビビッ!ときて大きな変容が起こる人は「準備のできた人」なのです。普段の生活で、人生の積み重ねで、愛の器を広げてきたからこそ、パワースポットの神聖なエネルギーに触発されて、大きな飛躍を遂げるのです。
一番大事なのは、スピリチュアルな手段に頼ることではなくて、「自分の愛の器」を広げるよう日々努力していくことです。
準備が整った人には、必要なことが起きます。
例えば、そこでパワースポットのエネルギーが必要だとしたら、「ねえ、今度お伊勢さんに行ってみない?」と友達(普段そんなスピリチュアルなことに興味がなさそうな人なのに!)から、いきなり声がかかったりすることでしょう。
努力は内側に向かってしてください。外側の現実に向かって、無理にアクションしようとしないで下さい。内側が整っていれば、外側の現実は自然と「流れ」を作るものです。

流れに乗れば、努力せずとも必要なところに運んでもらえます。自分はただ存在するだけでOKです。
ただ、流れに乗るまでには自分の内側を整理し浄化する努力が必要です。
だから、スピリチュアルな手段にはじめから乗ろうとするのはおすすめできません。流れが来た時に自然と導かれた方が成果は大きなものになります。
ゆえに、私は神社巡りや祐気取り、パワースポット巡りに「はまりすぎている人」にはあまり良い印象を抱けないのです。
「旅行にでるまでに、ちゃんと、周りの人に笑顔で感謝してきましたか? 周りの人にお土産は用意しますか? 自分がいないことで迷惑をかけることを詫びてきましたか?」
「ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています」
こういうことが、人として、一番大切なことであると気づいてほしいのです。パワースポットよりも、スピリチュアルセッションよりも。

上の図のように、次元を上昇させるには全ての要素が必要です。全ての要素をそろえる必要があります。精神性も大切な一要素ではありますが、仕事も人間関係も奉仕も同時に大切な要素で欠かせません。
「ヒマラヤに行かなきゃ覚醒できない」なんて言う人は、ヒマラヤに行ったって覚醒できないのです。
自分の魂の成長のために必要なものは、今ここに全てそろっている。その気づきからはじめましょう。
私たちにとって、一番大きなイニシエーションは日常生活です。日々の生活の小さなことから自らの内にある神性にふれられれば理想的です。
くれぐれも、誤解のないようご理解のほどよろしくお願いいたします。
古代エジプト人は普段の生活こそ、もっとも重要な学びの場とみなしていたのです。古代エジプトの見地からすれば、今生で起こりくる全てのことは学習の課程であり、通常の世界で死といわれる高次の存在レベルに備えるための教習所だったのです。
フラワー・オブ・ライフ ― 古代神聖幾何学の秘密(第2巻) 10.神秘学派「ホルスの左眼」 P65
人生とは教え学ぶことに尽き、古代エジプト人にとっては、私たちが日常生活と呼んでいるものにこそ理解を超える深遠な意味があると見なしていたのです。