なぜいじめと縁があるのか~スピリチュアル的な理由

人生:スピリチュアルブログ

私はいじめについて、「いじめる側といじめられる側は同じ問題を抱えている」と考えています。

何言ってるの
いじめはいじめる側が悪いに決まってるでしょう!!!
いじめられる側と同じにしないで!!!

こう思われたかもしれません。
しかし、固定観念を外して、つまり二元性を超越した見方をしてください。そうすれば、いじめる側もいじめられる側も同じ問題を抱えていることが見えてきます。

つまり、「攻撃性のコントロール」という問題です。
宋文洲さんはこういいます。

実は弱い人ほど差別を好むのです。学校のいじめをみれば分かるように、本当に強い子はいじめのグループに入りません。また、いじめっ子が大人になると大成しないことも世界的な傾向だそうです。差別は差別されないための事前手段であり、差別される心を満たすためのバランス行為なのです。

差別が全部悪いとは限らない: 宋文洲のメルマガの読者広場

いじめられる側ではなく、いじめる側の心が弱いのだと。

こういったらまた怒られるかもしれませんが、いじめというのはやる側もやられる側も心の弱さがあります。ここでいう心が弱いとは、「自分の攻撃性をうまくコントロールできない」という弱さです。

いじめる側は攻撃性が強すぎる。
いじめられる側は攻撃性が弱すぎる。
つまり、どちらもバランスを欠いているのです。

いじめをする側とされる側はコインの裏表です。
いじめていた側が何かの拍子でいじめられる側に転落するということは、特に珍しいことではありません。

そして学校生活や職場や家族間で長い間いじめを受けてきた人が、ある日豹変して傷害事件を起こすだなんてことも、(あってはいけないことですが)たびたび耳にします。

いじめられていた側がいじめる側になるって、実は珍しくないんです。
親に虐待された子が大人になって自分の子を虐待する、虐待の連鎖が典型例です。親からいじめ方(虐待)を教わってきたから、いじめる側もできるんです。

家庭で親から虐待を受けている子が、クラスで自分より弱そうな子をいじめるというのも良くある話です。上司からのパワハラでストレスをためた夫が妻に暴力をふるうなんてのも同じ構図です。

一人の人間がいじめられる側であり、いじめる側でもあるのです。まさにコインの表と裏。見える面が違うだけで、コインはコイン。

実は、いじめをする人もいじめられる人も、かなり攻撃性が強い人なんです。それが外に出るといじめっ子になり、内にこもるといじめられる側に回ります。

「同じ波動」だから惹きあって、いじめをする側といじめられる側に二分化するだけなのです。二元性を越えて見るならば、両者ともに「攻撃性を上手くコントロールできていない」という課題があるのです。

「自分の子がいじめられる側になるくらいなら、いじめる側に回るほうがまだマシ」という話を耳にしたりしますが、どっちもダメです。

いじめもせずにいじめられもしない、バランスの取れた中庸の形が良いわけで、いじめる側の方がマシということはありません。どっちも悲惨です。

なぜいじめる側が悲惨かというと、今の世の中はパワハラ体質の人間は上手くやっていけないからです。

でも、「いじめることで人を支配できる」という成功体験をつんできてしまうと、大人になってからも無意識のうちに弱い立場の人間にパワハラをしてしまいます。いくらエリートコースを行ったとしてすら、パワハラ人間は転落していきます。

北大・名和総長を解任へ 文科省、パワハラの訴え認める:朝日新聞デジタル
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いじめる側なら勝者ではないのです。
いじめもしないしいじめられもしない状態が良いのです。

だから、いじめと縁のある人は、いじめている場合は「攻撃性が外に出過ぎる状態」を律する必要があり、いじめられている場合は「攻撃性が内にこもりすぎる状態」を律する必要があります。

つまり、いじめている人は攻撃性をもっと抑える努力を、いじめられている人は攻撃性をもっと表に出す(ためてためて我慢して一気に出すのはダメです。その場にふさわしい量だけ出す)努力をせねばなりません。

いじめがあるというのは、中庸から外れた異常な状態なのですから。

こういうと、「いじめられている子は何も悪くない!いじめられている子に努力しろだなんてひどい!!」なんておっしゃる方がいます。

しかし、攻撃性を内に向けすぎて溜め過ぎるのは、明らかに悪い状態です。その溜まったエネルギーが一気に噴出したときに、自殺したり傷害事件になったりしかねません。

自分に向けば自殺になるし、他者に向けば傷害になります。どちらも傷つけることになります。良くないです。悪いです。ハッキリいいます。

いいですか、私が今言っているのは「性格が悪い」ということではなく「攻撃性のコントロールが不適切なのを訓練すべき」ということです。攻撃性を上手く出せない、獣的に表現するなら「自分の縄張りに入ってきたヤツに上手く脅しをかけることができないから、かえって争いが大きくなる」ということです。

いじめるにしろいじめられるにしろ、いじめに縁のある人は、人間関係において「いくさ下手」なのです。相手との距離感をはかるのが下手なのです。
そこを脱して、無駄な争いとは関わりのない生活をしましょうということです。

でも、攻撃性ってスピリチュアルな観点では悪いものでしょう?
攻撃性なんて出したら波動が下がるのでは?

こう思われたかもしれません。確かにそれも真実です。

ですが、いじめという「攻撃性に対する課題」と縁のある時点で、まずは「人間の持つ攻撃性というテーマ」に取り組むべきなのです。「下位のチャクラのテーマにまず取り組みなさいよ」と言われているわけですから、スピリチュアルうんぬんはおいといて、現実的に攻撃的なエネルギーへ取り組んでほしいのです。

いじめる側でもいじめられる側でもどちらでも、いじめと縁のある時点で、かなり攻撃性が強い、パワフルなエネルギーが内在しているわけです。
それを上手く扱えるようになることが、いじめと縁のある人の課題です。自分の内側にある虎を飼いならさねばなりません。

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強烈なる攻撃性は、当然ですが社会を渡っていくときに大きな武器になります。
しかし、攻撃性を出しすぎたらパワハラになるし、出さなさすぎたらナメられていじめられます。

攻撃性が強すぎる人(外に出しすぎる人、内に向かいすぎる人)は、社会に対するときには「あるがままの自分」ではいけません。社会的に一番自分にとって有利なレベルへ、攻撃性を調整して意識的に駆使する必要があります。

融通無碍にパワー(攻撃性)を使いこなしてこそ、厄介な虎が頼もしい相棒へと変容するのです。
いじめはそのために設けられた試練とも言えます。いじめる側は「もっと攻撃性を抑えなさい」、いじめられる側は「もっと攻撃性を表に出しなさい(ただし一気に爆発するとヤバイので小出しにすること)」。

いじめる方からも、いじめられる方からも、卒業せねばなりません。
どちらも攻撃性のコントロールという意味で、バランスを欠いていて未熟なのです。

攻撃性を上手くコントロールできるようになったならば、そのパワーを建設的に、愛のために使っていくことすらできます。例えば、社会悪と戦うために使うこともできるし、どんな人相手でもハッキリとNOの言えるカッコイイ人にもなれます。

攻撃性が強いと言われて嫌だと思わないでください。
必要なエネルギーだからあなたに内在しているのです。

いじめというのは「必要なエネルギーを(いじめる側もいじめられる側も)上手く使えていないよ」というシグナルなのです。
パワーを正しく使いこなしてください。

天のあたうるを取らざれば
かえって其のとがめを受く

魂にとって無駄なものは与えられていません。
攻撃性も、必要だから存在します。
問題は、使い方です。

攻撃性の課題を抱える人は、その攻撃性を自在に操ることで愛に貢献できるのです。

そのレベルにまで高めることができれば、攻撃性もスピリチュアルに役立ちます。だって、大天使ミカエルは剣を持っているし、不動明王だって金剛杵と金剛棒という武器を持った眷属を従えているのですよ。そこには攻撃性が見えるでしょう?

どんなエネルギーだって洗練させていけば宇宙的な愛に近づきます。
攻撃性の課題に取り組むことは、そのプロセスの一つです。

例えば、親が攻撃的で暴力をふるう人だったとしましょう。
あなたも残虐で攻撃的な自分の一面を見つけた時、「親の影」を自分のうちに見つけて、震えあがることでしょう。自己肯定なんて遠い話。

しかし、あなたは忍耐を学ぶこともできます。攻撃性というのは、それだけで「悪」ではありません。怒りはそれだけで「悪」ではありません。攻撃的な怒りを忍耐と共にコントロールしながら使うなら、あなたは不正な出来事、間違った出来事にたいして「NO!!!」を突きつけることができます。カッコイイ!

どれだけ醜く、真似したくないものだとしても、「毒親」の最たるような見本だったとしてすら、「型」自体は悪くありません。型を洗練させず低次のレベルで使ってしまうから悲劇が起こるのであって、どんな型でも「質」を洗練させることができるなら、素晴らしい愛の形として顕現します。

ですから、自分の持つ「型」を恥じないでください。

親の遺伝子を継いで、なお自分らしく生きるには

*「わがまま」と、自分の欲求や優先事項に正直であることとの境目はどこか。
*怒りを感じたり、落ち込んだりすることなしに、どこまで相手の要求を受け入れることができるのか。
*相手の要求に屈したら、私の健全な自我、自分の軸がわからなくなってしまうのか。

私たちはいったいどこまで相手に責任を持つべきなのだろう。
それを知るための手段を、事例別に紹介したい。それを知ることことこそ、あなたを相手の心理操作から解放するもっとも大切な鍵のひとつなのだから。

脅しと屈服のメカニズムを理解し、その悪循環から自分自身を解放するすべを手に入れたとき、私たちは大きな喜びと活力を手にすることができるだろう。

となりの脅迫者 (フェニックスシリーズ) P19
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