世界を変えるための思考

人生:スピリチュアルブログ
【画像】写真AC

私は以前、ゆとり教育を批判しました。

ゆとり教育は、搾取される大人しい羊を作りだす(国家的には)非常に優れた教育方法だったからです。
自分の頭で考えず(というか、自発性のための総合学習だったはずなのに、どうしてこんな矛盾が生まれたのか絶望しております)素直に権力に従う若者たちを見て、私はゆとり教育の偉大さにおののくばかりです。

あるゆとり世代は「性格が良いから芸能界で長年やっていけるのだ」とのたまいました。恐ろしいです。じゃあ芸能界で夢破れた人たちは、全員性格が悪いのですね。

つか、芸能界ほど性格の良い人が生き残れない世界もないのに、むしろ性格が悪い(人を押しのけて自分が勝ち上がる)ことが褒め言葉にすらなるのに。表向きはそんなところは見せないけれども。

そんな当たり前のことにすら気がつかない、人の裏を見ることができない。
30代なのに10代のようなピュアピュアおじさん/おばさん。
ゆとり、怖い。

「そうは言うけれども、ゆとり教育を押しつけてきたのは大人じゃないか。そこからどう抜け出せばいいんだ」という方に、一読いただきたいのがヴェルナー・ハイゼンベルク部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話です。

ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)は、スピリチュアル好きならみんな大好き量子力学の発展に貢献したドイツの物理学者です。

「いや、物理学の本とか難しそうで無理です」と思わないでください。高校理科総合A程度の知識があればなんとかなります。言ってること自体は全部わからなくて良いです。

なぜなら、この本のキモは物理学ではなく哲学だからです。
この本でハイゼンベルクはプラトンのように対話することで哲学をしておるのです。つまり、ネタ(話題)は物理学だったりするのですが、そもそもそこで語ろうとしておるのは「いかに生きるか」という哲学なのであります。

ハイゼンベルクは、常に疑う姿勢を持ちます。
「教科書にはこう書いてあるけど、おかしくねぇ?」と疑います。
先生から言われたことを疑問もなく丸呑みする典型的ゆとりとは大違いです。

「なんでも疑うこと」
そこから古典物理学をひっくり返すような量子力学の発達が可能になるわけです。

ここのページを見ているあなたは、こう思ったことはないですか。
「新しい自分になりたい」
「新しい世界で羽ばたきたい」
「この息苦しい世界から生まれ変わりたい」

こんな願いを可能にするのが「発想の転換」です。
しかし、先生や世の中の専門家(エライ人)のいうことをそのまま真に受けて「ふんふん」と聞いていては、決してこの世界から逃れることができません。あなたの毎日は変わりません。

なぜなら、「既成の枠組」にはまっているからです。
新しくブチ壊さない。それなら、世界は「今まで通り」の景色から変わるはずがない。

この本は、ドイツがあの空前のハイパーインフレを体験するきっかけになる第一次世界大戦終結の翌年から始まります。戦争によって荒廃した世界。しかもハイゼンベルク少年はバイエルンにおったので、内戦(ドイツ革命)にまで巻き込まれる羽目になりました。

だけど、平和な時代に機能していた家庭や学校による保護がなくなったことで、混乱の時代だからこそ若者たちは自分の頭で自由に考えるようになった、十分な基礎もできていない場合でも自分の判断を信用するようになったとハイゼンベルクは書いています。

コロナ禍の混乱した今にも、参考になりそうです。
大人はそんなにあてにはらない。マスク2枚配られた時点で、賢い若者は身にしみてわかったでしょう。

さて、100年前の混乱の時代におかれた10代後半の若者たちの会話を引用してみます。
話題はざっくりいうと「CO2(二酸化炭素)ってなんでCO2なん? CO3になってもいいべや」です。

君たち自然科学の信奉者どもはいつでもすぐに経験事実ということをひっぱり出して、それで真理を確実に手に入れたと信じてしまう。しかし経験するというときに、実際に何が起こるのかをふり返ってよく考えてみると、君たちのやり方は非常に議論の余地があると僕には思われる。

君たちが言っていることは要するに君たちの考えに基づいており、直接に君たちが知っていることはその考えだけなのだ。

しかし考えというものは物体の中にはない。
われわれは物体を直接に知覚することはできない。だから、まずそれを表象に変化させて、それから最後に物体についての概念を作らねばならない。

外界からわれわれに感覚的な知覚を通じて流れ込んでくるものは、非常に多種多様な印象からなる、ほとんど無秩序な混合物である。それには、われわれが後になって知覚するような形だとか性状だとかいうものは直接にはまだ全然関係していない

部分と全体(Amazon) 原子学説との最初の出会い P6

どうです。
このロバートという10代の少年の主張だけでも、もうずいぶんと頭のネジが2~3本はブッ飛んだと思いませんか。

自分が今知覚している「確固たる世界」なんてのは幻想で、目の前にある物質というものが一体何なのか、疑ってみる気になりませんか。

物質、つまり結合する分子と分子の間には莫大な空間(空白)があるのに、なぜ自分はその空白を突き破れないのだ? 本当は莫大な空白があるはずなのにミッチリと詰まった物質に見えてしまう。感じてしまう。そこに働く力とは一体何なのだ?と。

たとえば一枚の紙の上に描かれた正方形を見たときに、われわれの目の網膜の上にも脳の中の神経細胞の中にも、正方形の形をしたものは何も生じない。

部分と全体(Amazon) 原子学説との最初の出会い P6~7

これ、すごくないですか。
紙の上に描かれた正方形を見ても、私たちの脳みそは正方形にはならないし、網膜も正方形にはならない。

【画像】Wikimedia Commons

この正12面体を見ても、頭の中に正12面体が描かれるわけじゃないんですよ。
正12面体が脳みその中に目の中に出現するわけじゃないんですよ!
なのに、私たちは正12面体を認識する!「5角形が12個あるな~」って認識する!!!

その認識って、一体何なんだと思います?
そして、その認識は「本当に真実」なのでしょうか?
私とあなたがただ単にそう認知(もしくは錯覚)しているにすぎない可能性は?

カウンセリングには「リフレーム」というテクニックがあります。
スピリチュアルカウンセリングは特にこのリフレーミングによって癒しをもたらします。「起きた事柄」に対する「意味づけ」を変えるのです。

例えば、亡くなってしまった人が意味のない死に方をしたのではなく「お役目がもう終わったから、肉体を離れたんですよ」と伝えることで、遺族の方の心は慰められます。

失敗してしまったことに対して「そこから学ぶために起こったことですよ。学ばなければ失敗したあなたはダメな人間かもしれませんが、そこから学んで繰り返さなければ人生にとってなくてはならない経験に変わるのですよ」とリフレームすることで、失敗した経験を前向きにとらえて生きていくことができます。

さて、この「リフレーミング」が可能になるという事実自体が、ものすごく重大な真理を語っています。
この世に「絶対的なファクト(事実)」などというものは存在しないということです。その「意味づけ」によって、ファクト(事実)の持つ意味は、いくらでも人によって変わるのです。

私が「ファクトフルネス」を読んで、ビルゲイツがワクチンたくさんの人に打ってるよ=素晴らしい世界!という解釈を「ハッ」と鼻で笑ってしまうように。

「われわれは感覚的な印象を無意識のうちに表象を通じて整理し、印象の全体をいわばある一つの表象に、すなわち一つのまとまった”意味のある”像に変えているにちがいない。

この変化によって、つまりここの印象をある”理解し得るもの”に整理することによって、われわれははじめて”知覚”するのだ。

だから表象に対する描像がどこからきているのか、いかにしてそれらが概念的に把握され、そして物体に対してどのような関係にあるのかということを、まず一度確かめてみなければならない。

そうしてはじめて、経験の意味するものについて確実に判断を下し得るのだ。
明らかに表象というものが経験より先にあるものであり、表象こそは経験に対する前提になっているのだからね」

「それでも、君が非常にきびしく知覚の客体から分離しようとする表象というものは、結局のところ、やっぱり経験からくるのではないのか? 素朴に考えるほど直接的ではないだろうが、例えば感覚的な印象の似たようなグループがたび重なって繰り返すとか、いろいろな感覚を証拠立てるものの間の関連だとかを通して、間接的に生まれてくるのではないのか?」

「それは僕には全然真実とは思えないし、とうてい納得できない。(中略)人間の魂は初めから表象というものを持っている、あるいは少なくともこのような表象を自分自身で作りだす能力を所有しているとするものだ。

この場合には人の魂は感覚的な印象によって、既に持っていた表象を思い出すか、あるいは感覚的印象によって表彰を自分で形成するように刺激されるのだと説明する。

そこでマルブランシュ自身が支持した第三のものは、人間の魂は神の摂理に参画するものだとする。人の魂は神と結びついているので雑多な感覚的な印象を秩序づけ、概念的に整理し得るような表象能力や、描像や理念をも神によって与えられているのだと考える」

クルトはそれに対しても全く不満であった。

「君たち哲学者はいつでもすぐに神学と手を取りたがる。そしてむずかしくなってくると、すべての困難を労せずして解決してしまうような偉大な未知のものをひっぱり出してくる。

しかし僕は、これに妥協することはできない。
いま君がこういう問題を提起した以上、人間の魂がいかにして表象を得るかということを僕は知りたい。ただしあの世ではなくこの世でね。だって魂も表象も、この世のものなのだから。

もし君が表象は単純に経験だけから生ずるということを認めたくないのなら、どうやって初めからそれが人の魂に付与されているのかということを君は説明しなくてはならない」

部分と全体(Amazon) 原子学説との最初の出会い P7~8

こんなワクワクした議論が、100年前のドイツで10代の少年の間で交わされていたんです。しかも「第一次世界大戦の結末は、わが国の若者たちを不安と焦燥におとしいれていた」これは今の日本の若者像と共通するところがあるのではないでしょうか。だって、不安を感じている人だって珍しく無いはずでしょう。

ハイゼンベルクはこういいます。
「この本を通じて、科学は討論の中から生まれるものであるということを、はっきりさせたいと望んでいます」

自分と意見の違う人がいてこそ、討論は成り立ちます。ゆとりは「否定はいけない!」「全否定された(=相手から人としてやってはいけない悪いことをされた)」と言いますが、なんでも「そうだよね、その通り」と肯定されてしまうと、議論は深まりません。それじゃ、ただの「講義」になってしまいます。

意見の違う人は敵ではありません。
自分の意見や立場を更に明るく照らし出し、理解を深めてくれるのが自分と意見を異にする存在です。オポジションであり七冲です。

長々と少年たちのみずみずしい議論・主張を引用したのは、こういったものすごく大切な根本的疑問を持てるような子どもは、今日ではまず変人扱いされて学校生活に馴染めないからです。

「何でそんなこといちいち考えてるの?」
「そんなこと考えてどうするの?」
「何?意識高い系?面倒くさっ!!」

こんなふうに茶化されて、何より今の世を渡っていくのに大切な「疑問を持つこと」「みんなが当たり前に受け入れていることの裏を読むこと」という資質をつぶされてしまうからです。

学校の友達と、こんな対話はできないかもしれません。でも、本の中で100年前の知的な少年たちと語らうことは可能です。学校では教えてくれない「真の学問とは何か」という疑問にも答えてくれるでしょう。

そうやって自分の頭で考える力をつけていけば、前述の「リフレーム」の手法を使って、あなたは自分が知覚する世界を変えていくことができます。日常は何も変わらないかもしれませんが、人生は生きる価値のあるワクワクとした面白い冒険の世界に変容していきます。

先生や大人に「正解」と言われることは答えられるのに、「自分が何を感じているか、何を考えているのか」を答えられないのは、大問題です。その状態を「魂の死」と呼んでも良いでしょう。

エライ人の言っていることを丸呑みしてはいけないのです。
世界を変えるために。
新しい自分になるために。

※何度も版を重ねているような本なので、図書館に蔵書があると思います。

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