一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。
僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。
森有正 バビロンの流れのほとりにて パリにて1953年10月8日
いやあ、ほんとうに、その通りだなあと思うのです。
この一文は、マイケル・タルボットの提唱したホログラフ理論とも相通じます。人は、産まれた赤ん坊の時点ですでに「その人」なのです。
確かに、どんなしつけを受けるかどんな教育を受けるかで、人の運命は変わることでしょう。しかし、それでもトマトの苗がカボチャの実をつけることはありません。トマトは何をやってもトマトであります。どうやって伸びたとしても、また枯れたとしても、トマトであります。
トマトは芽生えた双葉の時点ですら、既にトマトなのです。
人もそうです。「一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われている」のです。
この考えは、幼少期にトラウマを抱え、機能不全家族で育った人にとっては絶望をもたらすものです。「じゃあ、自分はずうっとあのパターンを繰り返さねばならないのか」と。
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