ほろ苦さこそが癒しにつながる「おっさんずラブ in the sky」

人生:スピリチュアルブログ

前の記事で、JUNEについて書きました。

そして2019年の今。
雑誌JUNEは廃刊し、地上波ドラマで男同士の恋愛が「真っ当に」扱われるような世になりました。そう、ドラマ「おっさんずラブ」はもう明確に「JUNE」ではありません。

おっさんずラブに見るインラケチ(ワンネス)

おっさんずラブ-in the sky-

「おっさんずラブ in the sky」は、「同性愛差別が存在しない世界」を描いている。
そして、それを見た一部の視聴者はこう感想をツイートする。
同性愛をこんなにすんなり受け入れるなんてリアリティがない。
これじゃただのBL、ファンタジーだ。
男を好きになってしまったことに対する葛藤がないのが残念。
ノンケが男に恋をして悩み苦しまないなんてつまらない。(中略)

打ちのめされた。
ファンタジーとはなんだ。
つまらないとはなんだ。
現実世界でゲイが差別され苦しむのがそんなに面白いのかこの人たちは。(中略)

10年後には、ゲイを取り巻く環境はどうなっているだろう。
もし、in the skyのような世界が待っているなら、私は親に自分のことを話したいと思う。そして、パートナーを家族に紹介して、誰にも隠れることなく一緒に暮らすのだ。
ドラマは残り4話。どのような結末になるのか、楽しみにしている。

「同性愛者に苦しんでほしい」彼女たちへ

私は最近マイケル・タルボットのホログラフィック・ユニヴァースを読んでいました。

投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待

偶然と言ったらいいのか何なのか、タルボットもゲイでがん(白血病の一種)で若くして亡くなるまで男性のパートナーと暮らしていたそうです。【参考】 Michael Talbot (author) – Wikipedia

この本では宇宙はホログラフであることが書かれています。ミクロはマクロでマクロはミクロなのです。この理論からすると、インラケチ「あなたはもう一人の私です」というマヤの言葉が深く理解できます。わたしたちが縁のある人は鏡である(自分の中の別の一面を見ている)という法則も。

ホログラフの例として、反射区を挙げることができます。顔や足裏は手のひらには「反射区」があるのです。対応するところに老廃物がたまってゴリゴリすることで、体のどこが疲れているのかがわかります。顔のどこにニキビができたかで、どの内臓が弱っているかがわかります。舌もそうです。舌の特定の部位を見ることで、内蔵の状態がわかります。

足裏マッサージを受けた人は、いかに的確に疲れているところがわかるか実感したことがあるのではないでしょうか。問題のところをさすってみたり押してみたりすると、実際に体が軽くなった感じがします。

つまり、足裏というミクロが体全体というマクロと対応しているのです。一つ一つの細部は、一つの全体と対応しているのです。それがタルボットの述べるホログラフ理論です。

つまりは、私たちは一人一人の人間として独立しているように見えて、実は全体と一つである。「現実」と思っているものは実は幻想であるという考え方にもつながります。

おっさんずラブを見ていて、私はまさに「インラケチ」、登場人物の一人一人が自分の一部分の投影であって「全部が私だ」という感覚を抱きました。

春田も私だし、成瀬も私だし、シノさんも私だし、グレートキャプテン・武蔵も烏丸さんも、私です。ディスパーッチ!👍
登場人物みんなが、私だなあと感じたのです。インラケチ。つまり、「何でこんなことするの?信じられない!」と思う人が一人もいない。「ああ、だよなあ、その立場だったらそうなるよなあ」としみじみ感じ入るわけです。

だから、誰が誰とくっついても別にOKです。固定カプはありません。
だって、誰もが自分なわけで、失恋して一人でいるのも私だし、恋が実って誰かと一緒にいるのも私なわけです。同時に二つの状態が存在しても、それは全然矛盾していない。

そこには過去に恋人から言われた言葉があったり、自分がまさにそう思ったことだったり、クルクルと立場や人を変えることで「そういうことだったのか」という気づきがあるのです。不幸であり同時に幸福であることは、まったくもって真理であり真実です。

これって、実にホログラフだよなあ、と。
自分を反射させるもの(すでに自分の内にあるもの)と惹き合うのであるなあ、と。
それが人だろうと猫だろうとマンガだろうとドラマだろうと。

そして「いろんな自分」を回収した後は、それを自分の中で統合する。
そうすると、世界がもっと鮮やかに認識できるようになる。分離している感覚が薄れて、孤独感もなくなっていく。「ワンネス」を感じる。

意識レベルが上がると、相手を傷つけることは自分を傷つけることだという世界へ行く。

週刊代々木忠 : 第426回 意識の高みへ

別に山にこもって瞑想しなくても、ドラマを見ているだけでもスピリチュアルなレッスンにはできるわけです。現実にもたらされるものはすべて魂の成長のためのツールとして使えるのです。つまりは、どんな環境にあったとしても、自分次第なのです。

癒しをもたらす「アンハッピーエンド」

おっさんずラブは基本的には「優しい世界」の物語です。上のゲイの方も書いていたように、希望の持てる世界ではあります。

だけど、大切な気持ちほどすれ違ってしまうし、大団円ハッピーエンドにはならないだろうなぁ、という感じです。誰か彼かは辛い思いを抱いて終わるのだろうな、と見ています (現段階で最終回は未視聴です) 。

しかし、それこそが私には価値のある物語に見えます。大団円ハッピーエンドもたまにはよろしいですが、そういうものばかりだと「埋まらない」ところが出てくるのです。先の「魂の成長のツール」として使うならば。

最近「ハピエン厨」なる「絶対ハッピーエンドじゃなきゃイヤッ!」という人を見かけます。「ハッピーエンド保証」されていないと見る気にならないそうなのです。同人誌やBL漫画でも「最後はちゃんとハッピーエンドです!」なんて紹介文があったりして、違和感を覚えます。結末があらかじめわかると読む楽しみが半減してしまうからです。

ハピエンばかりを望む気持ち、わからないなあ、と思うのです。
そして同時に、大変もったいないなぁ、とも思います。
悲劇にこそ深い癒しがあることを知らないのでしょうか?

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

「感情が解放されて浄化される」という意味の「カタルシス」という言葉があります。アリストテレスが演劇学用語として使いはじめた言葉です。

そもそもこのカタルシスというのは「物語を見てただスッキリする」という意味ではなく「劇中で繰り広げられる恐怖や悲しみを追体験することで癒され浄化される」という意味なのです。

つまり、ハピエン厨だとアリストテレスの言うところのカタルシスを得ることができないのです!「不幸→幸せになる」パターンはアリストテレスの言うところのカタルシスじゃないんですよ!!悲劇でこそカタルシスは起こるのだから!!!

ハピエンじゃ浄化もされなければ解放もされない!
ただ物語にホッコリ現実逃避して終わるだけ!!
なんてもったいない!!!

悲劇の癒し、アリストテレスのいう「真のカタルシス」を経験してみたい人は、オペラ「椿姫(LA TRAVIATA)」を観てみてください。

はじめウジウジウダウダしてる登場人物にイラっと来るかもしれません。
が、第3幕にもなれば
「あああああんヴィオレッタアアアア~~~なんて悲しいのぉぉおおお~~!!!」
と涙の大洪水にくれること請け合いです。

そして、あんなに悲しい不幸な結末の物語を観たのに、なぜかスッキリしている自分がいるのです。
悲劇の浄化の力はまさに本物!!「ホッコリ優しい世界でハピエン~♡じゃ深いところは癒せない」って意味が分かるでしょう!!!

ついでにジュゼッペ・ヴェルディつながりで、三郎神のヴェルレク置いときますね。

隙あらばオフクロ。

え? レクイエムって言ったらモーツアルト一択だろって?
しかたないな~ (チラッチラッ) そんなに知りたいのか~(チラッチラッ)じゃあオイラのとっておきのモツレク動画を教えてやんよ! (ドヤァァァァ!!)

これ以上のディエス・イレの使われ方をいまだにオイラは知らん。婚活は物理。Here is called finishing move!!(619 hey!)

暗い気分になる自分にも、OKを出してあげよう

ハピエン厨の人は悲劇を見ると辛すぎて受け止められないといいます。暗い気分になるのが嫌だといいます。
しかし、それは紛れもなく自分の自然な感情であるのだから、受け止めてあげる必要があるのです。「暗い気分からなぜ自分は逃げたがるのか」を冷静に眺めて心の深みに気づく必要がある。

自分の感覚を磨いて内なる声を聴くには、ハートを開いておく必要があります。
「暗い気分から逃げたい」という人は自分のハートと向き合っていないのです。素直に自分の心を受け止めていない。そういう状態だと、内なる声は聴こえてきません……。

そこを抑圧してハッピーな物語だけ見ていても、心の底にたまった澱は浄化されないのです。抑圧された感情はシャドウとなって、「好ましくない相手」「良くない出来事」を呼び寄せてしまいます。そして余計に感情をふさがせるような現実ばかりを引き寄せるようになるのです!!

自分の内側の澱んだ暗い闇を見たくない。逃げたい。
だからハッピーエンドな話じゃないと見たくない。
ハッピーお話なら、嫌いな自分から逃げられる!

そして、いみじくもユングが言ったとおりのことが起こるのです。

ああ、ハピエン厨は不幸のはじまり!
ハピエン厨、やめよう!!
ハピエン厨にNOを!!!

といっても、別にハッピーエンドもいいんですよ。ハッピーエンドばかりを好み、悲劇を避けることが健全ではないと言っているのです。(逆に言うなら、「バッドエンドの病み系じゃなきゃ興味がわかない」ってのもちょっとマズイわけです)

そして今回のおっさんずラブ(in the sky)は、どこかほろ苦い話になっているのでちょうどよい塩梅だなあと思った次第です。

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