ブレない自分って、本当に必要なのかしら?

精神世界:スピリチュアルブログ

師走ももう半分過ぎたところですが、12月前半の私は見事にアクセサリー屋になっておりました。リピーターのお客様相手にパワーストーンのブレスレッドをお作りしていたんですね。

一人ひとりのエネルギーをリーディングして、必要な石を選んで、手元になかったら発注して、浄化して、一粒一粒ビーズを選んで(「あなたはこの人のところに行きたい?この人の力になりたい?」って確認する作業があります)、数秘を考慮しながらサイズに合わせて配列を確かめてブレスを作って、また浄化して、梱包して発送してーー

と、珍しく忙しくアクセサリー屋さんをしておりました。笑
10日で受注を締切って入金も確認できてレアストーンのビーズも取り寄せ終えて、ようやく終わりが見えてきました。なので、ブログ記事の更新も再開できるでやんすヨォ~。お疲れちゃん!

でね、普段のセッションももちろんそうなんですけど、こういうブレスのお作りっていうのも不思議と同じ時期に「同じテーマの人」が集まってくるんですよ。
ブレスを注文してもらうときに「どんなエネルギーがほしいですか?」って書いてもらうんですけど、今回多かったのはコレ。

ブレない自分になりたい

半分くらいの人が書いてたんです、「ブレない自分になりたい」。なので、ルチルクォーツやカイヤナイトやクンツァイトなど「ブレない系」の石の出番が多かったですね。変わったところではグランディディエライトなども使いました。


これは今ちょっと見過ごせないテーマなのかも、と記事を書いてみることにします。

ブレない自分になりたいの?てか、ブレちゃダメなん?

そもそも、なんで人は「ブレない自分になりたい」と思うのでしょう。
逆に言うと、すぐブレブレになっちゃう自分から変わりたいと思っているということですよね?

でも、人間なんぞそもそもがブレるモンなんっすよ。宇宙の星々だって揺らぐもんなんですから、人間ごときが揺らぐのは当然の当然であります。

仏教の伝統的な瞑想法であるヴィパッサナーも「揺らぐこと」前提にデザインされてるんです。揺らいで当たり前なんです。だから「揺らぐ自分を眺めてみなさい」っていうんです。雲のようにやってきては消える、不安定な感情を眺めてみなさい、と。

ウ・ジョーティカ『自由への旅』
ウ・ジョーティカ師(Sayadaw U Jotika) "A Map of the Journey" 本文の全訳です。

「ブレない自分になりたい」という人は、「確かな自分」を求めているのかもしれません。でも、そんなん幻想なんじゃないっすか? それこそこの世はマーヤー(幻想)であるように。

AV監督の代々木忠さんは「僕自身は生き残ろうとしなかったからこそ、生き残ってこられたという実感がある」とおっしゃいます。

 僕がピンク映画で駆け出しの助監督をしていた頃の話だが、崖の上から女性が突き落とされるシーンの撮影があった。当時は今みたいなSFXもないし、本当の人間を突き落とすわけにもいかないので、海に落ちたのは人形である。もっとも、借り物だからそのまま捨てて帰るわけにもいかない。荒れ狂う海に人形を取りに行く……それが助監督である僕の役目だった。

 伊豆・城ヶ崎の冬の海に、僕は飛び込んだ。やっと人形をつかまえ、岸に折り返そうと体勢を変えたそのとき、体が一気に持ち上げられた。眼前の岩に叩きつけられると思った瞬間、今度は海中に引きずり込まれていた。岩場の波は不規則だ。二度三度と波は襲ってきた。崖の上で見ていた監督や他のスタッフたちは、もう助からないと思ったらしい。

 僕は波に呑まれるたびに、体の力を抜き、海面に浮くのを待っては泳ぎ、岩場から離れた。海面に浮くまでの感覚は、子どもの頃によく遊んだ、川に投げ込まれたときに浮上する、あの感覚と同じだった。子ども時代の体験を通して、体が覚えたコツ。無意識はちゃんとそれを覚えていた。

 多少泳げる人でも、海中でパニックになれば、あわて、もがき、水を飲む。水を飲めば、パニックは増幅し、さらにあわて、もがいて、溺れてしまう。僕が助かったのは、荒れ狂う波にあらがうのではなく、全身の力を抜いて、自分の体が浮くのを待てたことに尽きるだろう。

(中略)僕自身は生き残ろうとしなかったからこそ、生き残ってこられたという実感がある。問題の渦中から一度離れてみないと、自分の置かれている状況などわかるはずがない。そしていったん手を離さなければ、次なるものはつかめないのだ。
 しがみつくな。手を離せ。力を抜け。そして時と場の流れに乗れ。絶体絶命のピンチとは、自分を信じて自分を解放してやる絶好のチャンスでもある。

 生き残ろうとしているときの意識は、能動的ではあるけれど狭くて重い。生き残れなかった場合の不安もよぎるし、切迫感がつきまとう。それにひきかえ手離したときの意識は、受動的であるとともに広くて軽い。前者は執着、固執、依存、排他、快への飢餓ゆえに、ネガティブな現象と共鳴する。後者は、すでに手離してしまったのだから執着や固執はない。だれかに寄りかかったり、だれかを排斥する必要もない。焦燥感もないだろう。だからこそポジティブな現象と共鳴する。戦いつづけることを卒業し“在りつづける”ことによって、長い人生を楽しみたいものである。

週刊代々木忠 : 生き残るためには、どうすればいいのか?

海でおぼれた時、「自分のペースをブラさないで自分軸で動く」をやったら、代々木さんは助からなかったでしょう。波のリズム、海のリズムに従って、タイミングを見て呼吸を行ったから、助かることができたのです。

強力な波が来ているとき海流が来ているときは、もうどうしようもない。自分の力ではどうしようもできない。そういう時はそれに沿うしかない。

易経でも、そんな陰の時代の君子の過ごし方を諭しています。 「艱貞に利あり吉、いまだ光いならざるなり」苦しみがあったとしても心の灯を消さないようにしなさい、今は輝けないときなのだから待ちなさい、耐える時間をもってこそ成長し新しい視点が見えてくる(パラダイムシフトが起こる)のだからと。

時期が来ていないのに、やみくもに自分を貫こうとしても、大きな波にのまれて海の泡と消えるだけなのですーー。

何があっても揺らがない自分は、既にあなたの内にある

同じく、海でおぼれた時の経験をOSHOの弟子ラダ・ルーリオはこんな風に語っています。

「アユート!ヘルプ!エド・モア!」

わたしは必死に叫んで助けを求めた。最初にイタリア語で、次に英語で、そして知っている限りの言葉で。人々がわたしのほうを向いて笑っているのが見えた。さらに何度か水に潜って、さらにもっと水を飲み、とうとう人々もこれは冗談じゃない、わたしはほんとうに溺れているんだと気がついて、みんないっせいに海に向かって駆け出した。

そうやってもがいているときに、わたしは自分の中にとてつもなく強烈だが、とても穏やかな空間があることに気がついた。何度も水を飲めば飲むほど、いっそうその経験から分離していった。わたしの体は溺れているし、心はパニックに襲われていたが、わたしの一部はそのすべてを見ながら、いっさい巻き込まれたり心配したりすることもなく、ほとんど笑うか微笑んでいるかのようだった。

もがくしかなかったし、パニックに襲われるしかなかったが、同時にまったく平然としている、少しも影響を受けていない、なにか新しいものがわたしの中にあった。

(中略)私はぐったりとして、消耗しきっていたが、命が助かったことがうれしかった。また、生死を超えるような体験をしたこともうれしかった。なぜなら、やっと元気を取り戻して、浜辺に打ち上げられたクジラのようにあえいだり咳き込んだりしているときにも、なにものにも影響されないという、その感じが、まだはっきりと自分のなかに残っていたからだ。

タントラライフ―変容のヴィジョン P15~16

グルジェフが「自己想起した状態」と言ったのが、このラダの「自分の中にとてつもなく強烈だが、とても穏やかな空間があること」とも言えましょう。
誰もがすでに「ブレない自分」を手に入れているのです。だけど、そこに気づくかどうか。眠ったままの自分でいると、その領域にはアクセスできません。

これほど強烈な体験ではないけれども、私が12年前に海で感じたことも似ています。
それまで私は「本当の自分」に戻るために旅をしなきゃならないと思っていました。旅をして自分を解放することで、ようやく本来の自分が息を吹き返すことができる、と。

だけど、横浜のみなとみらいで海を見ているとき、唐突にふっと思ったのです。
「あ、私、どこにいても私だ。世界中のどこにいても、私は私で揺らがない」と。
本当に、突然、何の前触れもなく腑に落ちたんです。「それ」が。

ラダは海で溺れることに関して、もう一つのレッスンをこう書いています。

ある夜、強烈な夢を見た。海辺にいると、海から巨大な波が、津波のような大波が押し寄せてきた。わたしは助かりたくて必死になって陸地のほうへと走った。しかし、自分ではわかっていた。いくら走ったところで、海は生命そのものであり、陸地は砂漠にすぎないということを。とても象徴的な夢に思えたので、講話で答えてもらおうと和尚に質問の手紙を書き、新たな「海で溺れる集中レッスン」を求めた。

彼は言った、「ラダ、海から招きが来たら、それから逃げてはいけない。海はまさに生命の始まりた。比喩というだけでなく、実際にそうなのだ。わたしたちの肉体は海からやって来た。そしてわたしたちはもっと広大な海、肉眼には見えない、スピリチュアルな海からやって来た。この招きがやって来たとき、干からびた陸地へと走ることは自分の墓場へと走ることだ。海の外にあるのは墓場だけだ。生命は海のようなものだ……」

「溺れ方など学ばなくてもいい。ただ逃げないこと、走り去らないことを学んだら、あとは沈黙、愛、真理、瞑想の海のような感覚がすべてをやってくれる。そういったものがあなたを溺れさせるだろう」

(中略)

「君は長いことわたしのそばにいたが、春が訪れようとしている今、そこにはためらいと恐れがある……未知がなにをもたらすのかわからないからだ(中略)しかし、その恐れは自然だ。近づけば近づくほど、ますます恐れを感じる。だから近くに来るときは、急いでくること、自分の恐れに先んじることだ」

タントラライフ―変容のヴィジョン P260~262

「海で溺れるとき」に、軸なんてあったところで役に立ちません。
ただただ「在ること」しかできないのです。まったくもって無力なのです。
だけど、それこそが限りない安らぎや穏やかさを心にもたらしてくれます。「ブレてはいけない」と思って不安でギスギスした心とは別物のように!

安らぎは常にあなたの最奥にあるのです。
既に、あなたは手に入れているのです。
問題はそこにつながるかどうか、それだけです。

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