本当のあなたは魅力あふれる魂なのです

人生:スピリチュアルブログ
写真AC

ある女性がいます。
彼女はわたしの周りをうろうろしては、真似ばかりしている子でした。
やることなすこと、わたしを真似るのです。

わたしが読んだ本を、彼女も読む。
わたしが服を買うと、彼女もそこで服を買う。
なんでもわたしの話を聞いて、コピーするのです。

彼女には絵の才能があって、プロの絵師になりました。
すごいことです。わたしも絵を描いて同人誌をやっていましたが、彼女の足元にも及びませんでした。

だけど、彼女は売れなくて、数年して絵の仕事は廃業してしまいました。
上手いんですよ。べらぼうに技術はあるんです。
だけど、彼女の絵には輝きがなかった。

なぜ輝きがないかというと、「自分」がないから。
彼女は絵に関しても、人の真似ばかりしていました。「○○さんみたいな絵」を描くのはすごく上手かった。だけど、それはあくまでもレプリカであって、自分のものではない。自分の内側からにじみ出てきたエネルギーではない。人からの借り物。自分じゃなくてもできる、代えの効くもの――

内田 おじさん週刊誌にはおじさん週刊誌のテンプレートがあって、「それさえ覚えれば、若い女性でも「おじさんみたい」な記事を書くことができるんですって。

鈴木 ヘェ?

内田 二十代女性でも、「おじさん文体」を装着して、書けば「いかにもおじさんが言いそうなこと」をかけるんですから、「簡単なんです」という話を聞いて、日本のおじさんて本当にチープだなと情けなくなりました。「おじさんメディア」って、本質的にファンタジーなんですよ。リアリティないんです。書き手の生活実感とか身体実感の裏付けとかがなくても、出来合いのテンプレートにはめ込んでちゃっちゃっと書けば、おじさんが納得できる文章がさらさらと出来上がるんですから。

鈴木 じゃあ、人間が書かなくてもいいじゃないですか。

内田 そうなんですよ。本来なら、「これだけは自分以外には誰も言いそうもない言葉」をこそ選択的に語るべきじゃないですか。余人を以ては代え難い言葉にその人のリアリティがあるわけですから。でも、いまメジャーなメディアの中で横行しているのは、誰もそんなこと本気で思っていない言葉」ばかりなんですよ。「おじさん週刊誌」の最近の特集はほとんどが六十代、七十代向けの「老人の病気の話」と「老人のセックスの話」と「昔のテレビやアイドルの話」ばかりですけれど、あれ書いてるのは大半が若いライターなんですよ。記事を書いている書き手自身にはまるでリアリティのない話なんだけれど、「おじさんたちって、そういうことが知りたいんじゃないの」と想像して書いている。あれはファンタジーなんです。そして、読んでいる当のおじさんたちは、「おじさんたちって、こういうファンタジーが好きなんだろ」と侮られていることを知らずにそういうものを読まされている。ファンタジーだからこそ若い女の子でもおじさん週刊誌の記事を書き飛ばせるわけですよ。
 もう新聞でも雑誌でも、記事のほとんどは「こういうものを書けば読者は喜ぶはずだ」というマーケティングにもとづいた「作文」です。だから、プロのライターはいくらでも書き飛ばせる。自分の経験知も身体実感の裏づけもいらないんですから。嫌韓本もそうだと思いますよ。そういうのを出すのは、韓国や中国に生まれていれば嬉々として「嫌日本」本を出すような人間なんですよ。

慨世の遠吠え2 P158~159 赤字強調は記事作成者による

なぜ若い女の子の間で「おじさんLINE」が流行ったかというと、「おじさんの書きそうなこと」というのがあまりにもパターン化していて簡単にまねできたからでしょう。
「言う言う!おじさんこういうこと言う!キモーイ!笑」って。

そうやって、「簡単にまねできること」が人生の中の大部分を占めると、ものすごく精神は疲弊します。つまり、それは「本当の自分」から離れてしまっているということだから。

彼女が絵の仕事を続けられなかったのも、常に誰かの真似ばかりしていたからです。そして、たぶん、彼女は自分に自信がない。だから、人の行為に正解を求めて真似をする。自分の内側に正解はないのだと思っている。

だけど、それこそがまったくもって愚かしい行為であって、自分の正解は自分の中にしかないのですよ。人の行為を真似てもいいのだけれど、それはあくまでも入門や導入段階のみに有効であって、そこからは自分の内にあるものを混ぜて深めていく必要がある。

人の真似ばかりしている自信の無い彼女だけれども、才能があって輝きのある人なんです。本当は。
だけど、彼女はやっぱり真似をします。わたしの読んだ本を読んでは、わたしと全く同じ感想を述べます。それを「寄りそう」とか「共感」とか、勘違いしているのです。

なんてもったいないんだろうと思って、「そうじゃなくて、自分の心で本当に感じたことを言いなよ」といっても、彼女は小首をかしげるばかりです。頭で考えて正解を選ぶことはできても、心で感じることができないのです!

ああ、本当になんてもったいないのだろう。
いくら才能があっても技術があっても、心がなければ空しいばかり。
そう、なにをしても空っぽなのです。満たされない。

「本当のあなたは魅力的なのだから、わたしの真似をするのではなく自分の心で感じたことを表現しなよ」といっても、やっぱり彼女には伝わりません。彼女の口からは頭で考えた正解が出てくるばかり。

彼女と過ごすのは、非常に空しい時間です。空っぽだから。

彼女の言葉はいつも美しいです。だって「正解」なんだもの。愚痴ったりネガティブな言葉も出てきません。フワッとして優しい言葉ばかりです。「正解」なんです。
だけど、空しいです。心がないから。

やっぱ、人生には心が必要です。心が、感情が、気持ちがないと、波動で共鳴し合うことは難しいです。他人なのに、びっくりするくらい溶けあう奇蹟の瞬間は訪れません。正しくても心のない生き方をすると、さびしいです。溶けあえないから。

彼女だって、光り輝く魂なんです。本当は。
だけど、心と断絶されてしまうと、その素敵な魂の輝きは見えなくなってしまう。
ただただ死ぬのを待つばかりの空しい時間を生きねばならなくなる。まさに生き地獄。

誰だって本来は、素敵な魂なんです。
だからこそ、心で感じることが大切です。
心に嘘をつかない。自分に嘘をつかない。わたしたちは人に嘘をつくのをやめる前に、自分に嘘をつくのをやめねばなりません。

貴きを欲するは人の同じき心なり。
人々己に貴きものあるに、思わざるのみ。
人の貴くする所の者は、良貴に非らざるなり。

素晴らしい人間になりたい、それは誰しもが願うこと。
なのに、自分の内にこそ無上の宝石があることを気づけない。
周りの人が認めるような、わかりやすい評価や承認に真の価値はないのに。

孟子の言葉( 告子章句上)

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