人生の意味を知りたいなら、死を考えなさい

精神世界:スピリチュアルブログ
【画像】枯れたヒマワリ - 写真AC

「わたしの人生の意味は何ですか」
「自分の人生の使命は何ですか」

こういうことを気にされる方は結構いらっしゃいます。
でも、「自分が死ぬ時はどうやって死んでいこうか」とか「死のプロセスがきたら、どうやって向き合っていこうか」とか考える人はあんまりいないようです。

だからなんでしょうか「生きてるって感じがしない」と言います。
それは当然のことかもしれません。
死と向き合うことで、生をこの上なく実感できるわけですから。

言葉への誠実さがシンプルな人生を作る

わたしが「死にたい」と言いながら全然死なないメンヘラを嫌悪するのは、言葉に対して誠実ではないからです。

「死にたい」と言葉にするなら、実際に死ぬべきです。
どんな手段を使ってでも絶対的に死ぬべきです。
言葉に対して不誠実なのは良くありません。

言霊を捻じ曲げると、複雑なエネルギーが生まれるので、シンプルに生きられません。そういう人の元には当然「やりたくもないことを仕方なくやるしかない人生」が生まれます。「だってみんなそうしてるから、仕方ないでしょう」というわけです。

死にたくないなら、生きたいと言葉にすればいい。なら、わたしだって「あなたは生きたほうがいい」と言います。だって、生きたいと言葉にしているのだから、その人は生きたほうがいい。死にたいというから「じゃあ死ね」というのです。

現実世界でツンデレはいけません。
自分の心に正直であり、言葉に対して誠実な人がすっきりシンプルな人生を手にします。自分の生き方に満足し、納得がいきます。
ねじくれて、思ってもないこと(本当はどうしたいのかをわかっていないという状態を含め)を言うから、ますます傷つく羽目になるのです。

だって、メンヘラは「死にたいなら早く死ね」って言われたいわけじゃないでしょう?「そっか、辛いんだね」って心に寄りそってもらいたいわけでしょう。なら「死にたい」じゃなくて「辛い」「苦しい」「今の状態は嫌だ」って言わなくちゃ。自分の心を感じとって、言葉を正確に使わなくちゃ。

本来死に対して誠実に向き合っている人は、命の本質を見定める勇気ある人です。死の本質こそが、生の本質だからです。そういう人は、メンヘラ(かまってちゃん)のように、浅はかに死を口にして人を振り回したりなどしません!

いのちが大地に還っていく時

9月はじめのある日、わたしは図書館に本を返しに行こうとテクテク歩いていました。
すると、道路わきに猫の死体がころがっていました。多分、車にはねられて死んでしまったのでしょう。死後硬直が始まっている感じだけど、お腹のあたりはピンク色でまだきれいでした。

で、やわらかい腹のあたりをカラスが鋭いくちばしで突っつき、モサモサ食ってました。

その光景を見て、わたしは
「ああ、自然のあるべき姿だなぁ」
と思いました。

猫がかわいそう!ヒドイ!とか現代的でノーブルな方は思われるかもしれません。でも、わたしにはすごくそれが自然でふさわしいものに見えたのです。そもそも、この二元性の世界は、そういうところです。

猫はもう死んでいました。肉体はただの残骸で、亡骸でした。ならば、他の生き物の栄養になることはむしろ奉仕でしょう。他の生命にできる最後の奉仕。生き物としての最後の循環。

わたしは自分の中の男性性を取りもどすで、こう書きました。

自然の中に全てを投げ出して、自分の腕一本で生きる!
山に生き、山に死す!死んだ後は、土に還る!!

死んだ後は大地が俺の肉体を受けとめてくれる!
肉体は全部獣にくれてやれ!俺の肉を食らうがいい!それこそが自然の循環だ!!

この自然に溶け込むイメージと同化すると、私の男性性はパーッと解放されるのです。「あるがまま」の姿になれるのです。

死んだ後は、食べさせてやればよいのです。
自分だって、散々食べてきたのですから。
ベジタリアンだって植物をいただいているという意味では、命を食べているのです。

なら、最後は自分が食べられても当たり前のことでしょう。

葬儀社勤務の人が「焼き肉食べると『いやー焼き場の匂いするねぇ』って思いますわ~」「そうそう、火葬場担当の時は焼き肉食べたくなるよネ~」と話していました。
そうなんです。人も肉なんです。人間やペットだけを特別視するのは何かおかしい。動物だろうが、人間だろうが、単に肉体でしょうが。

昔お勤めしていた時、上司が「韓国人は犬を食べるんですって。ひどいよね!かわいそう!」と言いました。
私はポカンとしました。「じゃあ豚も食べたらかわいそうですよね。牛だって食べたらかわいそうですよね。なんで犬だけかわいそうなんですか」
上司は「犬はかわいいもの!」と言いました。

意味がわかんないなぁと思いました。
毎日命を奪って生きてるくせに、犬はダメで豚はOK。
豚だって頭良くてカワイイですよ。肉を食べるんだったら頭良くてカワイイ生命だと認めたうえで食べましょうよ。

「生きる」って、そういうことなんだよ。
生きるということは他の命を奪うということ。
その業(つか、ただの事実)を背負おうとしないのは潔くない。

法隆寺 玉虫厨子の一部「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の図

上の画像は、お釈迦様(ブッダ)の前世を描いたものです。
飢えた虎の母子を哀れに思った青年は、崖から飛び降りて、自らの身を虎の餌として差し出します。そんな様子を上から下へと描写した作品です。

一遍や親鸞といった優れた仏教者も、自分の死後の遺体を野生の動物に差し出す風葬を望みました。まあ一遍の場合は、弟子たちが「動物に食べさせるなんて嫌だ!」と手厚く弔ってしまったようですけれども……。

しゃしん【捨身】

仏教で,身を捨てて他の生物を救い,仏に供養する布施行の一つ。捨身の方法は焚身,入水(経典に証例なく,日本にとくに多い),投身,断食,頸縊,自害などがあった。

世界大百科事典 第2版

万物は流転する。陰は陽になり、陽は陰になる。
すべての生まれたものは滅んでいく。その循環こそが二元性の世界です。

生と死は一緒のものです。
生きてるとか死んでるとか、そんなのは「一瞬」を切り取って(時間と空間を分断して)陰か陽か判断しているだけです。

子供を作らないあなたは、確実に素晴らしい愛のある人です。

生を与えるということは、死を与えること。
命を生み出すということは、死を生み出すこと。
命を生み出すから、残酷なる輪廻は終わらない。

元々は完璧であった魂に肉体を与えることで、男か女に両極化する。すなわち、陰陽の世界に放り込まれる。

男か女に分割されることは、ものすごく残酷なこと。
その単純な事実にすら、多くの人は気づかない。残念なことですね。

精神分析のラカンは、鏡に映る自分を自分とは認識できない幼児は、母親の容認の目線によって、肉体と自分を同一化させると言う。つまり繋ぐための仲介者がいるということだ。
その人がイエスというからそうした。母親のような、女神のような、何かしらの存在がいなければ、この肉体の甲冑の中に自分を押し込めるというのは、到底怖くてできないことだと思われる。なぜなら、それは絶望の世界へ幽閉されることを意味する。
(中略)
幼児は肉体に入れない。母親は入りなさいと言う。安心して幼児は、絶望の支配する世界に幽閉される。

死後を生きる

ブッダは生きてること自体が苦しみであると言いました。生まれ変わってまたこの世に生まれるのは、苦の繰り返しなのです。だから悟りを開いて輪廻から解脱する(もう生まれ変わらない)ことが救いであると説きました。

悟りおよび解脱は、ユダヤ教でいうところの「星の支配から解放される」ことにあたるのかもしれまでん。

トーラーがモーセに渡された後、ユダヤ民族は星の支配から解放される可能性を得た。ただし、これはトーラーを学んだ者に限っての話だ。そして学びは実践と共に進められるべきで、天界への道筋は、恍惚的体験をもたらす七つの段階から成るとされた。これは、文字通り物質世界の七層の天球を昇ることではなく、イマジナルな宇宙を旅する魂を思い描くことによって成し遂げられる。この道を行くものは神と一体化し、天界の影響と自然の法則の世界を越えた領域で自らの存在を神と分かちあえる。その一方で、無明なるものは例えユダヤ民族であったとしても、いつまでも星の影響を受けることになる。

世界史と西洋占星術 P83~84

西洋占星術で「自分の星を使いこなせ」というのは、まさにこの「星の支配から抜け出ろ」という意味です。星の影響を他者や外部環境に投影したままだと、自分の意志でエネルギーをコントロールできない。ちゃんと「自分のもの」と内面化すれば星の支配から抜け出ることができる。

すなわち、ホロスコープは二元性の世界から抜け出るための地図、高次の世界にのぼる梯子にできるわけです。仏教でいうところの悟りへの道なのです。グルジェフのいうところの自己想起、人間機械から抜け出すための秘術なのです。

周りの人間や環境はただの鏡であって、自分の投影、反射であることを見る。そうすると、ホロスコープの星々もただの宇宙の照射の反映であって、実は星は自分の内側(ミクロコスモス)にあることに気づけます。そうすることで魂の全体性を回復するのです。

死後を生きる
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アールズ出版 (2014-11-14)
世界史と西洋占星術
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ニコラス キャンピオン
柏書房
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