ある30代の大学病院勤務のナースと話していた時。
わたしは今の医療現場の患者を薬漬けにしたり、管に繋ぎまくって生かし続けたり、「金になる治療法」を優先するような姿勢を批判しました。
話の腰も折らず、一通りわたしの話を聞いていた忍耐強き(まさしく優れた医療者の証)彼女は、こう言いました。
「わたしだって、そういうのは良いとは思ってないですよ。だけど、患者さんに『もっと薬を出してくれないと心配』とか『念のためにちゃんと検査してほしい』とか『先生にお任せします』っていわれるから、そうなってるっていうケースもある。患者による医療依存がなければ、命に対する腹の括り方がしっかりしていれば、つまり死生観がしっかりしていれば、医療と患者の関係も、もっと良くなると思う。患者の『いつまでも死にたくない』家族の『いつまでも生きていてほしい』って非現実的な願いが、ケアを腐らせている一面もあることを理解してほしいです」
わたしたちは自然の一部であって、独立完全体ではない
わたしたちは、完璧なんかじゃない。ずうっと若々しくて健康でなんていられない。
なぜなら、自然の一部だから。自然は移ろいゆくものだから。秋のあとには必ず冬が訪れるのだから。
だから、肉体だって移ろいゆく。健康であることは、病気になることの前ぶれ。失敗は成功の母のように、病むことが健康になる秘訣でもあったりする。だって、病気になってみてはじめて「このラインまではいける。これ以上だと無理」って認識できる場合だってあるでしょう。

完全な健康体という夢物語のような約束を求めるなかで、我々は気づかぬうちに企業を野放しにし、意のままに操られている。科学の客観性や、ヘルスケアの倫理の公正さ、病人のために尽くすという誓約があるからこそ、薬を自由に流通させる特権が許されているにもかかわらず……。
クレイジー・ライク・アメリカ: 心の病はいかに輸出されたか P290
上のナースも言っていたように、「完璧な健康体(家族の「いつまでも生きていてほしい」)」という幻想を患者が追いもとめるから、医療者もそれに応えようと歪まざるを得ない。そういう一面もあります。
今の社会では病むことが本当に許されていない。「夏は良くて冬はダメ」と言っているようなものです。夏でも冬でも、どちらも同じ地球の一面なのに……。
野口整体の創始者、野口晴哉さんはこのように言います。
病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。
風声明語2 野口晴哉
健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。
私は健康も疾病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。
野口さんは、ずっと優れた治療師として整体を行っていました。たくさんの人がその素晴らしい腕を買って、野口さんの元を訪れました。
だけど、次第に野口さんは「治療すること」が嫌になってしまいます。なぜなら、自分が体の調整をすればするほど、患者は整体に依存してしまうからです。自分で自分の体を調整する、自分で体の声を聴くということが一番大切なのに、本来なら整体師よりも自分の体に詳しくなってほしいくらいなのに、「先生に任せておけばいい」で丸投げしてしまう。
だから、晩年の野口氏は治療をやめてしまいます。体についての知識は教えてもいいけれども、自分でちゃんと自分の体の面倒を見なさいよ、ということです。
「お医者さんのところに行けば何でも治してもらえて、完璧な健康が手に入る」
この依存的な考えこそが、今の製薬会社の不誠実な姿勢を作りだしているとも言えます。
わたしたちには、医者や薬ではなく、自分の感覚で体の声を聴いていくという姿勢が求められます。
自分の体と、ちゃんとおしゃべりしなくっちゃ。薬を飲む前に、医者に話す前に。
「言っていいこと」「なっていい病気」
ある著名な知識人[柳田國男]が二〇世紀初頭に、これまで耳にしたこともなく、見過ごされてきた多くの病気が、最新の医学知見によって浮かびあがったことで、「急に人間が病に弱くなり」、「健康のわずかな変調を終始気にかけて居なければならぬことになった」、と記している。
クレイジー・ライク・アメリカ: 心の病はいかに輸出されたか P241
これ、2000年代の「自分、うつで」と主張する人が急増したのと似ていますね。
グラクソ・スミスクライン社が「うつは心の風邪です♪」キャンペーンでうつ病患者を激増させたわけですけれども、「うつであることは恥ずかしくない。我慢をしてはいけない。精神科にかかろう」というプロパガンダが功を奏した。つまり、うつは「なっていい病気」になったのです。

クレイジー・ライク・アメリカでいうところの「貯蔵庫」にストックされたのです。
(一章で、香港で「拒食症」という概念が一般市民に知られると、それまで珍しかったはずの拒食症にかかる人が急増したというケースが紹介されています)
「社会で認められた病気」に、積極的に「かかっていく」。
これって、病気だけじゃないよなあ、と思います。

あるバーで飲んでいた時のこと。みんなでワイワイ適当に話をしていました。その場にいた20代青年は、口下手なのかあまり話をせず、大人しい印象でした。
ですが、わたしがヘタリアというマンガが韓国の国会で問題視されたという話題に触れた途端、人が変わったようにイキイキしだしたのです。
「だよな!やっぱり韓国はダメなんだ!! これだから韓国は!!! 韓国っていうのは何をやっても自分の非を認めないで日本を悪者にし――」
その場にいた一同、ポカーンとしました。だって、韓国の悪口をまくしたてる彼は、それまでの彼とは別人だったから。普段から口数の多い熱血漢なら、違和感もそれほどなかったでしょう。でも、普段の彼は本当に物静かな人だった。その温度差に、正直、ついていけなかったのです。
なので、わたしはなぜそこまで韓国が嫌いなのか、嫌いになったきっかけを聞きました。彼は得意げに、ネットでいかに韓国が悪い国かを知ったと言いました。
「何か韓国人との間で嫌な目に遭ったことはあるのか?」と聞いてみました。彼は「韓国人と接するなんてとんでもない!奴らは害悪だ!!」と息巻きました。
「じゃあ、今『実は私、在日なんだ』って言ったら、どうする?」
そういうと、彼は頭が真っ白になったようでした。
「在日だったら、わたしは害悪で、嫌われちゃうのかな? だとしたら、悲しいなぁ」
「えっ、いや………ざ、在日なの!?」
「ううん、違うけど。たとえ話として。考えてみて、わたしが韓国人だったらって。わたしのこと、嫌いになる?」
「っ、いや、別にNozomiさんは悪い人じゃないって知ってるから…」
「韓国にもたくさん人がいるから、少なくとも一人くらいは、わたしみたいな女はいるわよ。わたしみたいな韓国人がいたら、害悪だって言う?」
「……韓国にはNozomiさんみたいな人はいない。あなたは日本人だ」
「いやあ、他の国にだっているよ。韓国にだって中国にだって北朝鮮にだって、わたしみたいな気の強い女はいるわ。どこの国にだって『肝っ玉母ちゃん』みたいな強い女はいるものよ。そういう女は嫌い?」
「…………」
個人的に韓国人との関係で嫌な思いをしたとか、韓国旅行で不快な思いをしたとかなら、韓国に悪感情を抱くのもわかります。雨宮処凛さんみたいに、バイトの雇い主に「コイツより韓国人のほうがいいかも…」なんて空気出されたら「韓国人は邪魔!韓国に帰れ!」ってなっても「まぁそうなるよな」と思います。だって、それは切実な現実だもの。キレイゴトでは済まない。
私の周りの「右傾化」していると言われるような若者たちは、やはり「俺たちの仕事を奪う中国人・韓国人」という言い方をする。それは観念ではなく、日常レベルで起こっている。そして日雇い派遣などの現場では、外国人労働者が日本人の若者を指揮命令する立場にあることもある。
雨宮処凛がゆく!(043)「愛国心」を語る、の巻
グローバリゼーションの波の中、多くの企業は国外に安い労働力を求め、そして国内にも一生貧困から這い上がれないような安く使える労働市場を作り出した。そのことと、「愛国心」的なものとの関係は、絶対に切っても切れないと思うのだ。少なくとも私は当時、「日本人の誇り」が喉から手が出るほど欲しかった。それしかなかった。
別に「韓国人は素晴らしくて全員善人だ」と言いたいわけではありません。実際、性格が悪くて嫌なやつだっているでしょう。 だけど、彼は 個人的なリアルの体験がなく、ネットの情報だけで韓国を叩いていました。「韓国や中国の悪口ならいくらでも言っていいものだ」と思い込んでいるようでした。
2000年代のうつ病と同じです。「わたし、実はうつで」という主張は許されるもの、「うつは恥ずかしい病気なんかじゃない!」という製薬会社のプロパガンダに乗って、主張する。同じく、「韓国は悪で叩いていい対象だ」という概念に乗って、主張する。
要するに、そういう「社会的に許される精神的な鋳型」があると、すっぽりはまり込む人というのは一定数いるのでしょう。それが病気という形で出るか、イデオロギーという形で出るか、はたまた別の形を取るか、それはその人の性質によるのでしょう。
本心から、心からそう思ってるのではなく、「そういうものだから」でロボット的に動いているのです。「そういうふうに言えば(振る舞えば)社会的に受け入れてもらえるから」と。
そうやって用意された「型」にはまって生きていくのも、一つの生き方です。
グルジェフは、そういうパターンに従って動く人間を「人間機械」と呼びました。
もしあなたが精神性を発達させ、魂を成長させたいと思っているならば。
この「型」から出て、もっと大きな自分の存在を感じとってほしいものです。