令和な今こそ、昭和な大人がカッコイイ

この映画館では、ロマンポルノを専門に流しています(そして、矢野少年の言動から、以前は任侠物や時代物も上映していたことが推測されます)。

当然ですが、成人映画(ピンク映画)のフィルムを基本的には置くことになります。

なのに、オッチャンが「もう遅いけど映画一本おごったる 見てけ」と流したのは、黒澤の羅生門だったのです。
オッチャンは、本当は、そういう映画が好きだということです。好きで、ポルノを流しているわけではないのです。

自分の存在を忘れられるエンタメと、自分の内側に気づかされるアート。
大衆がどちらを好むか?
現実を忘れられる方でしょう。みんな、自分から逃避したいんだもの。

本当は、孫みたいな年代の青少年に、羅生門のような映画こそを観てほしい。
だけど、日本映画は斜陽の時代。(よーさんの人向けの)ハリウッド映画には興業的に勝てません。

経営に行き詰った日活は、1971年(昭和46年)11月より低予算の成人映画「日活ロマンポルノ」を公開します。

 映画の斜陽期、それまでの様式美(たとえばガラス越しの接吻とか、抱き合ってベッドに倒れ込んだら花びらが散るとか)に疑問を抱く監督たち俳優たちがいた。「人間の性はそんな綺麗ごとじゃ表現できない」と。

 そうして新たな性表現が誕生する。彼らは決して性だけを描きたかったわけではない。たまたま嘘のつけない映画屋たちだったのだ。ただ、彼らの思惑がどうあれ、映画館には観客が戻ってきた。場末の二番館・三番館もピンク映画に切り替えられ、映画業界は息を吹き返そうとしていた。

週刊代々木忠 : 第286回 アダルトビデオの未来

街中の小さな映画館が、ピンクポルノを流さざるを得ない状況になっていったのです。経営のために。

そんなときに、自分の一番好きな映画を観て、感情を揺さぶられてくれる若い子がいたら。どう思うでしょう?

オッチャンは、この時すごく嬉しかったはずです。
スクリーンの中の登場人物が、まるで自分自身のように見えてしまうなんて、最大の賛辞ですから。心理学的な言い方をするならば、アーキタイプを提示したがゆえに深層心理を深く揺さぶった。

自分の心の奥に横たわる感情に気づいた矢野少年を見て、オッチャンは映画の力を再確認したことでしょう。自分の感性は、間違っていなかったと。

なのに、オッチャンは矢野少年を突き放すのです。

少年と友達になって、対等な目線で映画を語り合う同士になろうとはしないのです。

自分の仕事が先行き明るくないのはわかってる。自分が良いと思う映画を観てもらうのではなく、ポルノで糊口を凌がねばならない日々。鬱屈した気持ちだってあるでしょう。

「せやけど最近ポルノの上映多すぎとちゃう? 任侠とか時代モンあってもええと思うで」
矢野少年が無邪気にこう指摘したとき、「オレが誰よりもそう思っとるわ!」と言いたかったのは、オッチャンのはずなのに……

だけど、子どもにそういう姿を見せないのです。
ちゃんと距離を取って、大人としての姿を見せるのです。
オッチャンには、大人の矜持があるのです。――例えそれが孤独を呼びこむものであっても。

オッチャンは、父親のいない少年に父性を示した。その後、ダラダラと慣れあわず、スッと身を引いた。
本当に、大人です。精神的に成熟した、大人の所作です。

わたしはいい歳こいたオバチャンですから、オッチャンの気持ちを思うと、泣けてしまうのです。ああ、カッコイイなあ、と。

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