わたしたちは期間限定の命である

子どものいないあなたのための スピリチュアルブログ

今、生きているということは、死につつあるということと同じである。
人間は誰も、死ぬといって間違いない。昔から死ななかった人はいない。
それ故、十年生きたことは、十年死んだということになる。
しかし、死を見つめて生きてきた者と、死を見ないように生きてきた者とは、人生に対する態度が違う。
人の死ぬことを知って生きているものは、いつも人生に誠実である。
人のいつか死ぬことを覚悟して生きるものは、養生の人である。

風声明語2(P8) 野口晴哉

精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは死ぬ瞬間―死とその過程についてで、どんな人も自分は永遠に生きるかのように考えている、自分が死ぬものだという事実を直視して生きている人はほぼいないことを書いています。

となると、上の野口氏の言葉でいうところの「いつも人生に誠実である」という人は、ほとんどいないことになります。多くの人は、「死ぬことを知って生きて」はいないのです。そして病にかかったり知ってる人(有名人含む)の若い死を見てショックを受ける。「まさかそんなに死が身近にあるなんて」

普段は心優しく親切に見える善人ですら、この基準に照らし合わせると、ほとんどが不誠実に生きていることになります。こういった話題を避け、「そんなこと考えていたら、生きていけないよ」と物わかりの良い大人のふりをして、笑ってごまかします。

まあ、それはそれでよいのですよ。だって、世の中の9割近くはそうやって生きてますよ、実際。
だけど、そうしていくと、魂の輝きは死にます。死体が生きているような、虚しい毎日を送る人生になります。

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社畜の叫び

リンデンバウムを訪れる多くの人が(そして訪れない多くの人も)、少しの本質的な質問をされると、答えに詰まります。

「私は私らしく生きたいんです」
「なるほど。じゃあ、私らしい私とは一体なんですか。あなたはどんな時に自分らしいと感じるのですか」
「えっ…いや……その……いきなりそんなこと言われても……」

「わたしらしくいたい」とか、フワッとしたことは言えるのに、じゃあその「私らしくは何か」を具体的に言語化できないのです。

「幸せになりたい」
「では、あなたにとっての幸せな状態とは何ですか」
「えっ……か、考えたことなかった…」

フワッとしていてモヤってて。だからまったく形にできない。
フワッとしたオブラートに包んだ言葉ってダメですね!言葉は明確に!ハッキリスッキリエッジをきかせて!具体的に言葉にできてこそ、この世界では現実化できるのだから。

フワッと禁止令!
フワっとは悪!!
NO MORE フワッと!!!

なぜこんなにフワフワしてしまうかというと、野口氏のいうところの「死を見ないように生きてきた者」だからです。私たち人間の物質的な、肉体的な絶対到達点である死から、目をそらして毎日をただダラダラ過ごしているからです。

光だけでは眩しすぎてカタチが見えません。
闇だけでも暗すぎてカタチが見えません。
光と闇、両方があってはじめて、カタチがわかります。

生と死、両方を見定めてはじめて、魂の器にふれることができます。

死に臨んで平然と死ぬことを活かすことのできる人が武士の魂のもち主である。生きても死んでも永久に美の中に生くるものに芸術家としての魂がある。 それ故私は生命というものを魂という名で感じているのかもしれない。 (中略) 最近魂をいう人が、動物霊が人間を支配するとか、先祖の霊の祟りで病気になるとか申していたが、私はそういうことを魂の問題に入れて考えることはできない。宗教業繁栄の方便として使ってはいるのだろうが、こういう人と私は魂のことは語れない。魂のことは結局、言葉で語って判ることではない。魂で感ずることだけだ。それ故、魂の無い人は言葉でわからせることはできない。魂の言葉は魂にしか聴こえないのである。その有無は別として、私は魂によって生きたい。

風声明語2(P101~102) 野口晴哉

本気で魂の輝きを見たいなら、心から満たされたいなら、生だけではなく死も冷静に受けとめてください。「当たり前に自分にも訪れるものなのだ」という事実を。ただし、死にたがりメンヘラ(リストカッター)や一昔前のビジュアル系バンドのように死に酔ってはいけません。死を美化しすぎても、本質を見失います。

生命に対し誠実でありたいなら、死から目を背けることをやめましょう。自分が「期間限定」の存在であることを自覚してはじめて、見えることがあります。
そして、そこには優しさと厳しさ、両方が必要となります。

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