SNSはやらないほうがいい

オタク ヒーリング

ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術

わたしは今、ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術を読んでいます。あの「残酷な天使のテーゼ」の作詞家が書いた作詞ハウツー本です。

「え?詩の勉強?作詞したいの??」
いえいえ全然。わたしに詩の才能はないです。無理です。

だって何よりリアリティが大好き合理主義者で「フワッと」嫌いな人間にポエミーに言葉を綴れるわけがないですよ。私の世界はあけすけすぎて夢がない!!!(ドーン!)

じゃあなんでそんな作詞方法を教える本なんて読んでるのよ、って?
一流のプロが語るエッセンスというのは、実に汎用性があるからです。

SNSをやらぬことで「ため」を作る!


作詞がスピリチュアルの何に役に立つのか?
及川さんは詩を書く時に「タイトルだけ(仮で良いので)決めておけ」とおっしゃってるんです。そうすれば、ブレないから。タイトルに沿った詩を作ることができるから。

これって、ブログ書く人にも応用が利くでしょう。とりあえずはじめに、タイトルをバコンと突っこんでおく。もちろんそのタイトルが決定稿にはならずに、公開前に変更になることだって多々ある。だけどタイトルを書いておくことで「書くこと」「書かないこと」「抜いてはいけないこと」「省くこと」が自動的に決まってくるんですよ。軸ができる。

他にも大変汎用性の高いエッセンスがありましたのでご紹介します。SNSの利用法についてです。

ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどのSNS、私もやっていますが、「どうしても職業作詞家になりたい!」という人は、あえて「やらない」方がいいんじゃないかと思います。SNSで気持ちを小出しにできるから、心に溜まっていくことがなくなってしまうような気がするんですよ。

わたしもSNS全くやってません。つまり「気軽に思いついたことをチョコっと発信♪」という手段は全く持っておりません。せいぜい友達に「クリナップ!」って一行クソメール送って「クリンミセス!」って返ってきてニヤニヤするくらいです。

食いたいときは食う
怒ったときは殴る
眼鏡のときは真面目ぶっている!!

昔、英語の勉強のためにオタクネタを英語で書いたブログをやってたんですね。
だけど、それもある程度「わたしって英語書けるな。通じてるな」ってわかった段階で、上の人から「もうこのブログから手を引きなさい」って言われたんです。

大ショックですよ。そのブログでは結構交流ができていて、世界のいろんな人種の人といろんな話ができるのが嬉しかったし、何より言語交換で外国語が学べるってのがすっごい楽しかったんです!! 仲良くなった相手の言語はかなり上達する!!だって話したいもん!!!「ねえ~テレサ聞いて聞いて!Creo que gustaría una anime de KyoAni~~」

でも、上の人は「NO」を譲らない。もうそのブログは君にはいらないと。やめなさいというのです。わたしは泣く泣くそのブログの更新を打ち切りました。

要するに、一定度勉強できればもうOKだったんです。それ以上やると、そこで書くことで本業のブログがおろそかになってしまう。エネルギーの「ため」がなくなってしまう。だからもう英語ブログはやめなさいということだったのです。

やっぱ何かを作るには「ため」が必要なんですよね。
例えば小説を書くにしても、なんかモヤモヤモヤモヤしたものがあって、それを言葉にできるタイミングが来て「あっ!これだ!」ってダーッて一気に書けば一気に書き上げられる。わたしはプロット練って構成考えて書くことは全くないんです。一気にダーッ!!!!って書く。計算してなんて書けない。ブログもそうです。


そのためには「ため」が必要なんです。
だけど、ツイッターとかインスタとか「簡単気軽に」発信できるツールがあると、「ため」はできない。発散されちゃう。スッキリしちゃう。

友達に愚痴を言うのもそうです。簡単に愚痴ってたらエネルギーがたまらない。「何クソ絶対負けねえぞコラ!!」って気分になれない。だから、ツイッターなんかでホイホイ愚痴って感情エネルギーを発散させてたら実際の行動につながらない。「ため」が必要なんですよ。

ゆえに、及川さんがSNSについて「やらない方がいいんじゃないかと思います」って書くの、すごくわかります。やらないほうがいい。簡単に気持ちを発散させてしまわないほうがいい。

熟成させるからこそ美味しくなるものってあるでしょう。年齢を重ねた人なんか特にそうですよ。すぐに気持ちを吐き出しちゃうと、薄っぺらくなる。面白みがなくなる。寝かせないと。
SNSはそういう意味でもマイナスなんですよね。よろしくない。

ママみが尊い?違う。お前が(内なる)ママになるんだよ!

SNSを眺めていて「気軽なつぶやき」を見ていると、「みんな疲れてるんだなぁ」と感じます。
わたしはオタクですので二次元クラスタのアカウントを見ることが多いのですが、ここ数年すごく気になる動きがあるんです。

それは「ママみ」、すなわち母性に萌えるという人が増えているのです。
少し前、「バブみにオギャる」なんて言葉も流行りました。
二次創作ではキャラを幼児化するものが異様に目につきます。

わたしは全く理解できませんでした。
「キャラを子どもにしてなんでそれが萌えるの!?」と。悪趣味だとすら思いました。おぞましいペドフィリア(小児性愛)につながる何かがあるのではないかと。

家族モノ設定にするのも意味がわからない。いや家族じゃないから。パパじゃないしママじゃないから。せっかくの筋肉キャラをショタ(子ども)にして何が美味しいんだよ。大人は大人だから魅力があるんだよ。その魅力が消えちゃうじゃないの、なんなの?と。

理解できないのでじーっと見ていると、どうも小児性愛とは違う。多くの人は母性を求めている。以前の記事にも書いた山姥切長義くんに対しても「ちょぎ君は母性~😍」とか「ちょぎくんのママみまじ尊い😃😃😃」とか言っている。(そして国広は当然のように幼児になっている……)


このキャラのどこに母性が!?どう見たって男子でママじゃねえだろう!! クソクソクソだぞ!?

艦これの二次創作でも駆逐艦をママ扱いするのが定番にすらなっていて、大変違和感がありました。キャラ同士の絡みでもお姉さんが「ママー」って子どもに甘える描写があるんですよ。倒錯しすぎだろう!!!しっかりしろ!!!

この一連の「奇妙な」流れは、どうやら男にも女にも見られる。なんなんだ?とハテナマーク一杯で見ていたのですが、ある作家のつぶやきでようやく納得がいきました。
「自分がママから甘やかされたい。だから、誰かを甘やかしているママみのあるキャラがいると非常に惹かれるのだ」と。

なるほどー!母性を異様に求めてキャラを幼児化したり家族設定するのはそういうことだったのか!
必ずしも性愛を求めているわけではないのは、そういうことだったのか。
日本人、疲れてるなー…(そして壊れてるなー)。

まあ、それはそれでわかりました。
もしその人が幼少期の愛情不足(愛着障害)でキャラに「母性」を求めているならば、それはむしろ健全な心の動きです。自然ですらあります。しかしながら、インナーチャイルドを癒して孤独感や愛されないという想いから本当に抜け出したいならば、ママみをキャラに求めるのは罠になってしまうかもしれません。

なぜなら、「キャラに癒されたい」だと、癒すのはキャラなんですよ。
そこを「考えやすくするためにキャラの造形を借りているけど、実はこれって自分の一部(エネルギー)なんだ」と内面化できないと、いつまで経っても「外部からのサムシング」を必要としてしまう。一言でいうなら「母性がある対象依存」になる。

入り口としては「キャラに癒されたい」「ママ(キャラ)によしよしされたい」でいいんですけど、ある時に「あれっ、このママみって、実は自分じゃね!?」って気づきが欲しい。その転換がないと、インナーチャイルドケアから母性依存に陥ってしまいかねない。

いいか。お前がママになるんだよ!!!!
Free!を見て母乳を出したサンキュータツオのように!!
【参考】【特集】サンキュータツオ×春日太一の文化系食わず嫌い克服講座『BLの豊饒な世界』その3

基本、育てなおしというのは乳児の全受容から始まって、思春期や大人になるにつれて「子離れ」で終わります。全肯定するのはあくまでも一時期であって、ずーっとずーっとずーっとそれを求めてちゃ次のステップに行けないのです。時期が来たら突き放すことも大事。

セッションで「○○の話題だと怒られちゃったけど、××の話題だと仲良く話せました!」とか報告してくる方がいるんですが、「仲良くできたら成功(ギスギスしていたら失敗)」という思考のフレームが、既に大人になれていない証なのですよ。

いっつもベタベタ「仲良しー😄」ってしてるのが「上手くいってる証拠」と思うなら、あなたは人間関係を作れていないよ。乳児で止まってる。そりゃママみがほしいわ。母性を求めるわ。精神が未熟だから。

まあとにかく、インナーチャイルドケアをして内なる子どもを癒してあげたいと思っている人は、「ママみにときめく自分」から卒業できるように頑張ってくださいね。「母性」を外に求めている段階では道半ばであることを自覚してください。
キャラを家族設定にしたい、幼児にしたい時点で「ああ、まだ自分はそっちに行きたいのだな」と。精神的に未熟な証拠、自立できてない。よくないです。

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