「健康診断を受けなよ!ガン検診は大事だよ!」と心配してくる人(特に医療従事者)が大変に迷惑です。 それは、優しさではない。余計なお節介。
「何言ってんの?医療になんかかかったら必要以上に生かされるじゃないの。今の医療技術はスゴイから、無駄に生きのびさせることにかけてはピカイチだもの。生きることは大切だけど、必要以上に生き過ぎることは良くないわ。私はすべきことが終わったら自動的に死ぬんだから放っておいてちょうだい。身体の好きなようにさせてちょうだい」としか思えないのです。
あなたがたは、死ぬのはよくない、という社会を創りあげた。死んでもいいなんて言ってはいけない、そんな社会だ。あなたがたは死にたくないから、どんな環境あるいは状況でも、死ぬことを望んでいる者がいるなんて想像できない。
生きているより死んだほうがいい、という状況はたくさんある。少しでも考えれば、想像がつくはずだ。だが、自ら死を選んだひとの顔を見ている時、あなたがたはその真実には気づかない。それほど、わかりやすくはないから。死ぬゆく人は、まわりのひとが死を受け入れたがらないことを知っている。部屋にいる人たちが、自分の決意をどう受けとるかを感じる。
部屋に誰もいなくなってから死ぬ人が多いのに、気づいたことがあるだろうか? 愛する者に「さあ、向こうへ行きなさい。何か食べていらっしゃい」とか「行って少し眠ってきなさい。わたしはだいじょうぶだから。明日の朝、また会おう」と言う者さえいる。そして、親衛隊が去ると、魂は守られていた身体から離れる。
もし、「わたしはもう死にたい」と言ったら、集まった家族や友達は、「まさか、本気じゃないでしょう」とか「そんな言い方をしないでください」「がんばって」「わたしを置いていかないで」などと言うだろう。
医療専門家はみんな、ひとが安らかに、尊厳を持って死ねるようにするのではなく、ひとを生かしておくように訓練されている。
医師や看護婦にとって、死は失敗なのだ。友人や親せきにとって、死は災いだ。ただ、魂にとってだけ死は救い、解放だ。
死にゆく者への最大の贈り物は、安らかに死なせてやることだ。 「がんばれ」とか、苦しみつづけろだの、本人にとっての人生最大の転機に、まわりのことを心配しろだのと要求しないほうがいい。
まだ生きるといい、まだ生きられると信じているというひと、生きたいと祈っているひとでさえ、魂のレベルでは『気が変わっている」ことがしばしばある。魂が身体を捨てて自由になり、別の探求の旅に出る時がきた、と決意したら、身体が何をしても決意をひるがえすことはできない。精神が何を考えても、変えることはできない。死ぬときに、身体と心と魂のうちのどれがものごとを動かしているのかがわかる。
一生を通じて、あなたは身体が自分だと思っている。ときには精神が自分だと思うこともある。本当の自分は何者かを知るのは、死ぬときだ。
神との対話―宇宙をみつける自分をみつける P109~111
わたしが「死にたい」というメンヘラを忌避するのは、そういう人は本気で死にたいわけではないからです。
わたしは人間の力というもの、精神の力というものが、偉大なるものと評価しています。人間が本当にやり遂げようと思ったことは、実現すると考えています。
監察医の上野正彦さんは、色んな死体を見てきた人です。当然、自殺遂行者もたくさん見てきました。
ある自殺者は、自分の首を後ろから両手挽きののこぎりでゴリゴリ切って死んでいたそうです。人は、本気で死にたいと思ったら手段は選ばない。何としてでも死ぬものなのだなあと上野さんは感心してしまったそうです。
そうです。やろうと思えば、いくらでも死ねる。
来島恒喜も大隈重信の馬車に爆弾を投げつけたあと、首の横側から短刀をぶっ刺し、前にゴリゴリゴリっと喉をかっ斬ることで自害しています。
人ってスゴイですねえ。本当にやろうと思ったら、本当にやるんですよねえ。
メンヘラは「死にたぁい」「死にたぁい」と言って死にません。
そして「ふうん、そうなの」と気のない言葉を返すと「あなたは冷たい人だ!」とブチ切れてみたり、ガッカリした顔をして去っていったりします。
メンヘラは死にたいのではないのです。
「死にたいだなんて言わないで(≒あなたは私にとって必要な存在なのよ)」と言われたいのです。ひふみんがどっぽちんに言うみたいに。
僕が悲しみという海溝に深く沈んでしまうから
消えないでくれたまえよ
いのちの電話でも、死にたいというひとに「死にたいんじゃなくて、苦しいのではないですか?」と聞くように訓練するそうです。
本当に死にたいなら死ぬんだから。
人間はそれくらいの力があるんだから。 人間の力を侮んじゃねえぞ。
これも「死ぬのはよくない、という社会」という価値観がデフォルトになっているからこそ起こる現象でしょう。
「私は不安だ、私は必要とされたい、私はここにいていいって言ってほしい」→「死にたい」に安易に変換されてしまうという。
だけど、言葉を正しく使えない人は、自分を満たすことはできないのですよ~。「死にたい」って表現、雑すぎ。
大体ね、死の何たるかを知らないで「死ねば楽になれる」って、ずーっとずーっとそういうパターンを繰り返してきたでしょうに。
「受験が終われば楽になれる」
「就活が終われば楽になれる」
「結婚すれば楽になれる」
「子どもができれば楽になれる」
「マイホームを手に入れれば楽になれる」
いい加減気づいたら?
そのパターンは、あなたを救わないって。
だからわたしは「もう死にたい」っていうメンヘラに「ふーん?なら死ねば?」と返すのです。わたしにとって死は自然現象の一つであって「いけないこと」ではありませんから。
また、わたしは自分の心に正直になれない人に、自分の心をちゃんと表現しようと努力する気の無い人(≒コミュ障)に、エネルギー(時間、興味関心)をさく気はありません。自分の心に嘘をついている人とマトモに話そうとしたって、要領を得なくて疲れるだけです。
それに、死というものをそんなふうに利用するだなんて、死への冒涜が過ぎます。死は、生と同じくらい神聖なものなのに。
古代マヤでは、「勝ったほうが死ねる」という神事(スポーツ)があったと言われています。死にたくないからビビってゲームをするのではなく、勝利を目指したガチ勝負をして、勝った方は喜んで死んだそうです。肉体からの解放!ヒャッハァー!!
今の価値観からすると、「???」なのですけれども、そういう視点もあるということです。ここまで極端ではなくても、死が名誉であるという価値観は、日本の歴史にだっていくらでも見当たります。
命は何よりも大事。そう思うこと自体は良いのです。
だけど、生が大事ならば死だって大事なのです。忌むべきものではなく、避けるべきものでもない。「生きることが大切で、死んだら終わり」なんて考えは「男だけが大切で、女に生まれたら終わり」なんて考えと同じです。バランスが悪すぎます。
生と死は、まったくの同等です。
生と尊ぶというなら、死も同じくらい尊ぶべきです。
今の医療は、生を重視しすぎている。だから、もう食べられなくなった人に胃に穴をあけてまで生かし続けるようなグロテスクなことを、平気でやってのけるのです。
晴れあり、曇りあり。
病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。
健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。
私は健康も疾病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。(P8~9)薬となる物質の使いようを工夫して、薬として使うことを得た。
人間が薬を薬だと思ってたくさん使えば効くと考え、どしどし使いだしたことが今日の薬の病気をつくる。新たな病気の背後には薬があるとみられるに至った理由である。
薬そのものが悪いのではない、使い方の問題である。己のもつ能力を自覚することなく、自分以外の他の物によりかかって、自ら立つことを忘れた人の問題である。(P16)風声明語2 野口晴哉