スピリチュアルというと「うさんくさい」とか世間一般では思われがちです。
確かに、うさんくさかったり詐欺がまいのスピリチュアル業者もいます。
「科学的に証明しろ」とか言われても全部は無理です。信じたくない人はいくら科学的証拠やデータを積み重ねても「そんなデータは信憑性に欠ける」って信じないしねぇ~。つかさ~10年前の医学論文のいくつが「今も正しい」で継承されてると思ってんのよ~100%じゃねんだぞ~いくらでも「アレ違いました」ってひっくりかえってんだぞ~。データで証明したことがそんなに正しいと思ってること自体がお前アレだよアレ。
目に見えないものや死後の世界を信じる心が、0%ってのはちょっとまずいですぞ。
特に、歳をとったり病に冒されたりした場合、スピとか宗教とかって、まじ大事なのです。
死後の世界は、ありまぁ~す!!!
そもそもわたしは、こういった目に見えない世界のことや神や宗教については「まあ、信じる信じないは個人の自由だべ」と思ってきました。
だけど、ちょっとくらいは、「まあ神様的なもの(宇宙的な大いなる何か)はあるのかもな」くらいのぼんやりフワッとした信仰心は、あったほうが良いと思いなおしました。
そのきっかけは、西部邁 自死についてを読んだからです。
この本、暗い。マジ闇。
メンタルやられ気味の人とか頭でっかちで考えこんじゃう(考えて考えて行動に出られない)タイプの人は、ほんっと病むんで読まないほうがいいですよ。特に奥さんを介護してその死を看取っていくくだりとか、「いやこんなこと考えてたら自殺もするべな」って納得の暗さです。暗い!!!!ネクラ(陰キャラ)の極み!!!!
いやーニーチェとかもそうだけど、頭で色々アレコレアレコレこねくりまわして考える人間っちゅうのは本当に老いたら悲惨やね。わたし、アホで良かった。アホォー(鳴き声)
これね、西部先生だけの問題じゃないと思うんですよ。
日本人男性(特に企業人)の多くは、この闇の孤独感にズッポリはまりながら死んでいくんだよ、コミュニケーション能力の低さによって。現役時代の「上下でしかつながれない人間関係」の構築の癖によって、ものすンごい深い孤独の闇に突き落とされて死んでいく。
それがどんなに残酷なことか、この西部先生の本を読んでいて思い知ったわけです。
女の世界にはここまでの深い闇はない。盲点だったわ。唯物論でここまでの地獄に堕ちるんだったらある程度スピも押しつけたほうが良かろうもん。
残酷なのは、一人でいることじゃありません。実際、西部先生は結婚して子どももいました。娘と息子とその嫁に囲まれながら妻の介護をしていたわけです。だけど、もんんんんんのすっごごごごごい孤独。妻子がいようが私淑してくれる人間がいようが、にじみ出る救いようのない絶望オーラ。つら。
ホントそんな生き方辛すぎ。無理。そら救いは自殺のみになるわい。
結婚したって子供がいたってダメなんだよ。この手の孤独に堕ちちゃったら。
だけど、実は本質的な問題は孤独じゃない。孤独は誰にでも訪れます。
特に老境に入れば、その陰はますますもって深くなります。
問題は、孤独になったときに神がいないことなんだよ。
「死後の世界」がないことなんだよ。西部氏みたいに「死んだらすべてが無になって何もかもが消えうせる」という唯物論的虚無思想こそが問題なんだよ。
唯物論者(スピリチュアルとか神とか信じない人)の虚無感、絶望がここまで深いとは思わなんだ。だから自分は「別に信じないんだったら信じなくていんじゃね」というスタンスでおった。
しかし、西部先生の絶対的絶望を見てしまった今、そんな生ぬるいことは言えん。
いいか、おまえら!!
スピリチュアルを信じろ!!!
死後の世界は、ありまぁ~す!!!
いや、だってそっちのほうが絶対幸せだもん。心安らかだもん。
確かに嘘かもしらんよ?詐欺かもしらんよ?膨大に金詰ませるようなスピリチュアルとか宗教とかはそりゃ行かんほうがいいよ。
だけどさ、宗教でもスピでも自分的神秘でもなんでもいいから「今の自分はかりそめの姿なのだ」という中二的思考を頭の隅っこに入れておくだけで、人生はずいぶんと生きやすくなるんだよ。特に、老いたときや病気になったときに。
「死の受容」のプロセスを提唱したエリザベス・キューブラー・ロス。彼女は患者からの臨死体験の話を聞いたり、自らの神秘体験により死後の世界を信じるに至りました。
晩年、彼女は脳梗塞で体が不自由になりました。そんな彼女の死の様子を、息子はこのように語っているんです。
息子は、母の最期のひと月を、このように語りました。自分がはじめた運動の成果を収穫し、世界中から訪ねてくる家族や友達と親密な時間を過ごした、と。
「死を待つことは、母には過酷な試練ってわけじゃなかったんですよ」とも言いました。
「死を迎えるにあたって唯一の問題は、待たなきゃならないことでした。だって、母はもう星とダンスできることをそれは楽しみにしていたんですから!」Her son said that his mother, in her final months, was reaping the benefits of the movement she helped start, finding comfort from friends and family who visited from around the world.
Awaiting death was not such a challenge for her, her son said.
“Her only problem with facing death was patience,” he said. “She was looking forward to dancing with the stars.”
あゝ、西部邁の絶望世界と比ぶるまでもない、なんという希望溢るる優しい世界……。光属性。
死後の世界を信じていると、体が不自由になったり寝たきりになっても、安らかであれるんです。
死は、ただの人間世界からの卒業にすぎないのだから。
人間って「信じてたら楽になれるもの」ってのがあるじゃないのよ。
どこかで「嘘かも」って思いつつ信じたい嘘もあるじゃんよ。死後の世界も、そう思っておいた方がいい嘘だと思って、1割でいいから信じといた方がいいんだよ。
なぜなら、そのほうが老いた(病んだ)ときに楽だから。
孤独になったとしても、体が動かなくなったとしても、その先には神との対話が残されているから。
「じゃあ老いたときに信じるわ」って?
バカモーン!ジジババになってから新しい考えをそうすんなり受け入れられるかっ!脳みそ固まってからの年寄りの頑固ぶりをなめんなよ!若いうちから「1割は死後の世界を信じておく」これが大事なんじゃ!
やっぱさー、スピリチュアル大事だよ。
別にお金かけてセッション受けろとか宗教団体に入れ!とかじゃなくってさ、バリバリ信じ込め!ってんじゃなくてさ。ちょっとでいいから「死後の世界があるのかも」って思ってよ。そうしたほうが、絶対いいよ。ホントホント。
わたしは、死後の世界があると思う場合と、死後の世界は存在しないと思う場合とでは、人生の過ごし方が、大きく違ってしまうと思っている。
死後は存在しないと考えている人たちには強い否定性が潜んでいると感じることが多いのだ。常に何か暴力のようなものを隠し持っているようにも見える。
(中略)
わたしがここで否定性に支配されているというのは、根底的なところで、人間は死んだら何も残らないと考える人々のことである。
どんなものも終わる、決して何ものも続かない。何をしても最終的には何も残らない。「こんにちの世界観が絶望の上に打ち建てられる」(バートランド・ラッセル)
バートランド・ラッセルらしいが、死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
(中略)
このような気持ちになるとしたら、それは自分の人生は死に支配されているというのが、根底にあるのではないかと思う。
さらに、絶望に支配されてしまうと、他の人がそうした絶望感を抱いていないことが許せないという感情も芽生えてくる。
死の壁は、人と人の壁を作るのである。