「謙遜」という文化が日本にはある。
ほめられても「いえいえ私など大したものではございません」と自己否定をするのが良いとされていた。心の中では「やっぱりそうでしょ!うれしい!」と思っていても、おくびにも出さず否定するのが美しいとされていた。
昭和や平成のはじめくらいまでは、まだこの謙遜と言う文化は色濃く残っていた。今でも高齢の方とお話するときにはあからさまな謙遜が使われることも多い。「いえいえそんなことはありません」。北海道弁でいうなら「なんもなんも、たいしたもんじゃねえ」。
この謙遜と言う文化は、「好ましくないもの」として叩かれた。
特に西洋人には「『すいません』じゃなくて『ありがとう』って言ってほしい」と叩かれた。ほめられたら素直に「ありがとう」と受け取れと。自己否定するなと叩かれた。
ゆえに、パクス・アメリカーナなこの時代に謙遜はすたれた。
だけど、意味もなく日本人は謙遜していたのだろうか。
謙遜して自分を低く見せることこそが賢い処世術だったからこそ、「いえいえそんなことございません」と言っていたのではないだろうか。
漫画家の久保ミツロウ先生は「モテるでしょ~?」と言われてそこを否定するのが「人生で一番無駄な時間だった」とおっしゃっていた。
飲みの席で優しい人が「え〜そんなこと言ってモテるでしょ〜?」とお情けで言ってくれただけなのに ムキになっていかに自分が継続的にモテてないか唾飛ばして説明していたあの時間が人生で一番無駄な時間だった
— 久保ミツロウ (@kubomitsurou) 2018年6月16日
わたしもこの「モテるでしょ~?」というフリがクソめんどくせえなと思っている人間だったので
「アッハイ。モテます」
と真顔で返すようにしていた。謙遜0。
そうすると、当然場の空気は「シーン」と静まり返り、「あっ、そ、そういえばサー……」と少し決まり悪く別の話題に移ることが常であった。クッソめんどくさい「えぇぇ~ぜんぜんモテないですよぉ~」「またまたァそんなこと言って~」というテンプレ会話を交わすことを回避できて、わたしは心から快適であった。
しかしながら、若干コミュニケーションとしてはまずい面もある。
「お前となんか仲良くなりたくねえよ」という相手にはこの返しでスッキリスッパリ切り捨てればよいのだけれども、「ムラ社会」の田舎やSNSコミュニティではそうもいかないだろう。「アッハイ、モテます」なんて言った日には「何あの人イキっちゃって~」と不評を買うこと間違いなしだ。
よって、謙遜というのは、ムラ社会において非常に機能性の高い実用文化という面もある。SNSによるムラ社会が復活している今、謙遜は叩くべきものではなく有用なスキルとして再評価したほうが良いものに見える。
嫉妬からの防衛スキルとしての謙遜
そう。。。不思議なことに、「自分のできないこと」に敬意を払わない人は多い。「自分にできないことできるから、すごい」とは考えず、「自分はできないけど、あんたは楽にできるんだよね」という発想になぜなるのか。わしには全く理解できない。
— バーバラ・アスカ (@barbara_asuka) 2018年10月7日
自分より優れているものを見て嫉妬する人間は後を絶たない。有能で人望のある義経は兄に疎まれて最後には自刃した。千年も昔から、人間はそういう生きものなのだ。
毛沢東の妻、江青は嫉妬深いことで有名で、自分より若くて優れた女を追い詰めたり殺したりした。
外交の場面で活躍した美貌の才媛、王光美。スポーツ万能で、フランス語も英語もロシア語もお手の物!スタイル抜群の体躯をチャイナドレスに包み、他国の要人と祖国を橋渡しするさまは、まさに「華麗」の一言。
その輝かしさこそが、権力者・江青の嫉妬心に火をつけた。
【画像】澳洲新闻网
■愛を知る女こそ強い
激動を生き抜いた王光美さん■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。静止写真からはあまりわからないが、記録ビデオをみた譚さんによると、王さんは、紅衛兵のいたぶりに、「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。
■(中略)いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。
■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。
自分より若くて優秀な女が、憎い!!
夫から愛されている女が、憎い!!
美貌によって毛沢東を篭絡した江青。
だけど、江青には美貌しかなかった。若さしかなかった。中身が、無かったのだ。若さが失われた時、彼女には「醜い愚かな自分」しか残っていなかった。
「なら、研鑽して精神を磨けばいい!」
というのはごもっともだ。が、そんなことを殊勝に考える人ならば江青が江青にはならなかっただろう。嫉妬に囚われてしまう人は、かくも恐ろしい。
そういう人に対しては「謙遜」というのは身を守る盾となってくれるだろう。
「イエイエ、わたしなんてつまらない者です」と。
自己否定しているふりをするのだ。もちろん、根では自己肯定しておいて良い。表面だけ否定しているようなふりをするのだ。
それがムラ社会(SNS社会)を賢く生きる術となるだろう。
アホなら低能とバカにされ、有能なら嫉妬で意地悪される。
まったくもって、俗世というのは生きにくい。
馬鹿馬鹿しいねえ。