「新しい世界に行きたい」
「新しい自分に生まれ変わりたい」
そんな願望を抱く人は少なくありません。
実際、ミュージックシーンではそのような歌がよく出てきます。
多くの人が、新しい自分になりたいし、今とは違う新しい世界に飛び出ていきたいのです。
新しいものを求めるならば、古いものを捨てなければなりません。
言い換えるならば、今の状態の「死」を受け入れねばなりません。
死を恐れる人は、手放しのできない人。新しい展開を呼び込めないのです。
松村潔さんはブログで以下のように述べています。
LGBTは物質的生産性はないが、そもそも文化的芸術的には驚くほど生産性が高いぞ。文化はこの連中が引っ張っていると言っても過言ではない。ノーマルな男女二極化というのは、この下に位置するもので、あまり高級なものではない。LGBTはその上に位置する。みずがめ座の15度のフェンスの上のラヴバードを参考にするといい。理想像としてはつまりは両性具有であることに間違いはない。変性女子とか変性男子は、より進化した形であり、その上に両性具有が君臨しています。21世界のカードのことだ。そうでないと人格の軽さは手に入らない。
精神性を高め、「ふつうの人間」から少しでもステップアップして進化を遂げたいならば、「性を殺していく」「自分の中の性が死んでいくのを受け入れる」というプロセスが求められます。
殺すとか死ぬとかいうと仰々しいですけれども、年齢とともに一般的に性欲が衰えていくことをイメージしてもらえれば馴染みやすいのではないでしょうか。
年を取ると、おじいちゃんがおばあちゃんぽかったり、おばあちゃんがおじいちゃんに見えたりします。見た目の性別がボーダレスになっていくのです。これに合わせて、男性性と女性性を統合することで中身の性別もボーダレスになっていけると、素晴らしい錬金術的な変容が起こります。肉体的に男か女かは関係なく、精神的には両性具有になるのです。
精神的な両性具有になるには、性の死が必要です。リアル現実世界では性を追い求めず、性エネルギーを内側にこもらせる必要があります。まずは、自分の内側に「異性」がいることに気づかねばなりません。内なる異性がいてこそ、統合が可能になるのですから。

そして、男性性と女性性のエネルギーを通わせていくのです。そこに、性の融合が起こります。
死のあとには復活があるのです。
だけど、この「死」を恐れる人がいます。
自分が死にゆく存在であることから目をそらしたいがために、若い異性に手を出しては虚しい関係を作りだす富豪もいます。若い人と一緒にいることで若くなった気になって「まだまだ自分は死なない」と自分の老いから逃避したいのです。往生際悪いナァ~。
破壊の女神カーリーも癒す者で殺す者。(中略)「閉経の暗い女神の力に改めて気づくと、老いや死の恐怖から自由になれます」とデメトラ・ジョージは書いています。老婆は破壊者。その力を受け入れる者は再生します。(P400)
死の無い文化こそ死んだ文化です。そこには生気がなく、官能も体験も成長もありません。男女共に悪影響となるでしょう。死や苦しみを否定して、どうやって宇宙と一つになれるでしょう。試練を経て輝く場所に到達するには死を恐れず、信頼してゆだねることです。(P409)
「父権が女性を怖れたのは、性よりもむしろ生死において女性の力を感じたからです」(P418)
死を恐れる文化において老婆は強く拒絶されます。若さや進歩、「未来」を渇望し、古いものをさっさと捨てて世代交代を推し進める文化では次々と怪しげな科学や「新しいもの」が出てきます。自然の変化や腐敗、死は忌み嫌われ、強く否定されます。
父権社会にとって死は絶望であり「負債」であり、もうおしまいだという観念を突きつけるものです。(P418~419)
自分を殺すということも、一つの「死」です。「悪いこと」と思われています。自分を生かし、個性を発揮することこそが人生の成功への道だと、勘違いしている人がいます。
確かに、個性の発揮は大切です。「自分ではなければできないこと」をできたら、人生は生きるに値するでしょうし、充実感でいっぱいになるでしょう。
しかし、それでは片手落ち、いや、むしろ上手くいかないかもしれません。
京都国際映画祭クリエイターズファクトリー。
上映後に監督たちとディスカッションして面白かったのは、審査段階で「あのシーンがなければ・・・」と我々審査員たちが口を揃えた場面がことごとく監督たちが強烈にこだわっていたシーンだったこと。
ここが映画製作の難しさですね。自主ならなおさら。— 春日太一 (@tkasuga1977) 2018年10月14日
映画史・時代劇研究家、春日太一さんのこのツイートは、「君の名は」が大ヒット作になった理由にもつながっています。
新海誠監督は、センシティブで独特の作品を作る人でした。だけど、「こだわり」が強いがゆえにアクが強すぎて、正直「キモイ」の域に達してしまうことがありました。大衆娯楽たる商業映画のお客である凡人には、高尚な芸術は理解できぬのです。
その余計なこだわりをバッサバッサ切り捨ててニュートラルでフラットにして脱臭して作ったのが「君の名は」です。
見事にヒットしました。
個が確立され過ぎると、アクが強すぎて飽きられます。
自分を殺すことも、人生には必要な時期があるのです。
そして、殺すことでいつのまにか「新しい自分」が生まれてくる。
ホンダ創業者・本田宗一郎など著名人の寵愛を受け、俳優・勝新太郎の愛人でもあった伝説の芸妓、岩崎究香さんはこういいます。
お稽古を通して「個性」を消していくんです。
そして面白いことに、流派の教えを守って“型”をしっかりと身に付けると、自然と個性が出てくるんです。素直に“型”を受け入れて毎日お稽古に励むと、本当の個性が見えてきます。なので、「個性を作る」なんてもってのほか、個性は自然に出てきます。
将棋もそうです。まずは型にはまらないと「何をしたらいいのか」すらわかりません。
【画像】或るアホウの一生(2)
そしてオイラはいまだに美濃囲いを組んだ後どうやって攻めていったらいいのかわかりません。(矢倉ばっかり使ってる…)

こちら↑の記事で、このように書きました。
自由を謳歌するにも、適性があるんですよね。
型にはまっちゃいけないとか言うけど、ある程度型にはまってたほうが幸せだったりする人もいるんだよね。「なんでこんな理不尽なルールに縛られなきゃならないんだ!」とか不満に思ってるその縛りこそが、自分を楽にしてくれてたりするんだよね。
善は悪で、闇は光。
自由は不自由で、安定は不安定。
すべては二元性を内包しているのです。さあ、あなたは「どのくらい自由」でいたいですか?
どのくらい型にはまっておけば、一番楽で心地よいですか?
どれくらい自分を生かすのか、殺すのか。
人生の時期によって、そのバランスも変化してゆきます。
いままでは物質の安定によりかかって、自分は安定しているかのように思い込んでいた。が、この土台が流動化を始めると、実は自分が自力ではひとときも立っていられないことに気づかされる。サラリーマンが自分は毎日規則正しく生活していると思っていたが、定年退職すると、毎日異様にだらしない生活になってしまい、いままで会社が秩序を作ってくれていたのだと気がつくように。
自我むき出しでガンガン行くべき陽の時期もあれば、自分を殺してサポートに徹するべき陰の時期もあります。呼吸のように、吸う時もあれば吐く時もある。波を繰り返すのです。風向きがどちらなのか、賢く感じとる必要があります。
万物は流転する。
高野山から仏の教えを広めるために各地を巡った高野聖。南北朝時代には一遍の影響を受け、よりみんなが親しみやすい形になって、弘法大師信仰を広めていきます。
しかし、時とともに高野聖は堕落していきます。果てには「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」とまで歌われます。要するに一晩泊めてやったら娘をレイプされちゃうぞ~って悪評がたつほどだったんですね。
一遍の教えも、難しい仏教の教えをシンプルにして(南無阿弥陀仏と言っておきゃ誰でも救われるぞ~)民衆に浸透させました。踊念仏のトランス状態で法悦を得、どうしたら民衆を救えるのか真剣に考えました。贅沢などせずに質素に暮らし、生涯を民のために生きました。
【参考】死してなお踊れ: 一遍上人伝
ですが、念仏を唱えることで死者を供養してあげたことで、純粋なる「修行者」ではなく、僧に「葬式を行う役割」が付加されます。それが今の悪名高き「葬式仏教」にまでつながっていきます。
明治~昭和の時代は死者の弔いをする僧は下層で、修行のみをして仏に帰依する僧のほうが格上であると見られていたそうです。(もしかしたら今でも寺院宗派によってはそういうのあるのかもね)
【参考】生きていく民俗 —生業の推移 (宮本常一)
一遍の教えも、高野聖の姿勢も、原点は素敵なものでした。
だけど、時代と共にドンドン腐っていってしまいました。世俗と交わり民草に寄り添いながら清廉さを保つというのは、大変に難しいことなのでしょう。
純度が高いがゆえに縛りのゆるいものは、そうやって変質してしまいがちです。常に自由な状態がいいわけではなく、ルール(縛り)も時には良いものだったりするわけです。縛りプレイすることで面白くなるゲームもあるでしょ。
でも、じゃあ腐っていくからルールでがんじがらめにして止めようとしなければならないのかというと、それも実はそんなことなかったりします。
死ぬべきものは死に、生まれるべきものは生まれるのです。
例えば、西田天香さんのように「与えられるなら生きる。(逆に与えられなかったら土に還るという覚悟)」という生き方は、一遍をはじめとする優れた僧侶の姿勢に共通してみられるものです。
【参考】懺悔の生活 〈新版〉
必要なものは、死に絶えてもまた生まれます。それほど、喪失を嘆く必要はないのです。
もちろん人間的に嘆きたいときは嘆いてよいのですが。
死というのは絶えず起きています。今この瞬間も、わたしたちは息を吐くことで死に、息を吸うことで生まれています。(細胞分裂的にいうなら、この言葉はそんなに的外れではないはずです)
眠ることで死に、起きることで生まれ変わります。
死を恐れないでください。
死は自然の営みです。死があるからこそ、生は輝きます。