「気づき」をくれるマンガたち

人生:スピリチュアルブログ

人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか?

おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?

そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか、あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか?

小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?

本に登場する人物は、その本が読まれないとき、なにをしているのでしょうか?

エンデのメモ箱 愛読者への四十四の問い

他者の視点から「世界」を眺める

わたしは或るアホウの一生が打ちきりになってしまうという事実に相変わらず燃え尽きておりますが皆様にあられましては今日もポジティブな笑顔で松岡修造のように熱く生きておられることと存じます。

なんでわたしが落胆しているかというと、このマンガは世界を見せてくれる漫画だったからです。

本というものは「他者の視点」をもたらしてくれます。それによって、大きな気付きを得られます。「そういうことだったのか!」と。普通にただ生きているだけでは触れらない情報をもたらしてくれるのが、他者の視点、書物です。スピにいうなら、それによって分離を統合して魂は全体性を回復します。

或るアホウの一生で、それを強く感じたのが紫紅編です。
紫紅は1~3巻までの時点では、飄々としていていつも超然とした、なんかスゴイ人でした。言ってることも哲学的だったりして、なんかよくわからない人だったのです。主人公・高以良の子ども目線から見ているから、「なんでも知ってる大人!(エライらしい)」って感じで余計に。

或るアホウの一生 2


【画像】或るアホウの一生(2)

或るアホウの一生 1


【画像】或るアホウの一生(1) 

しかしながら、4巻紫紅編で見せる紫紅の姿は、高以良の視点から見た彼とはまるで別者でした。
それまでの、なんだか浮世離れしていて人形じみていた紫紅とは違って、弱さも孤独も抱えた一人の人間でした。紫紅編によって、彼に血肉が通ったのです。それまで何気なく高以良に発していたじゃれあいの冗談すら、重い意味があったことに気づかされるのです。

そこには「世界」があったのです。

或るアホウの一生 1

さすれば、否が応でも期待が高まるのは、もう一人の天才・佐宗嘉内の世界でしょう。
1~3巻での佐宗は、得体のしれないバケモノでした。直接的にバケモノ描写されちゃったコマすらありました。

【画像】或るアホウの一生 3  
森へお帰り……。

佐宗は聴覚障碍者なので、「音」で表現することがありません。フキダシにのせてセリフを吐くということがないのです。しかもタブレットに表示される言葉にも彼の感情は乗っていません。本心をあらわにしません。佐宗の心がある程度読めているのは主人公の高以良と兄の一賢だけです。

或るアホウの一生 1

天才・佐宗嘉内は親の手にすら余ります。(天才の子育てあるある)

【画像】或るアホウの一生 3  

父母の気持ちも伝わってきます。
お兄さん一賢の気持ちも伝わってきます。
なのに、佐宗の気持ちだけ、全然見えてこないのです。

なぜ、師匠である紫紅の真似をしているのか、わからないのです。
なぜ、林田戦の前に、将棋盤に愛おしそうに触れていたのかも、わからないのです。

ああ、これが知りたい!
天才・佐宗の中に何が横たわっているのかが知りたい!
紫紅編を読んで、そう思ったのです。そして、当然それが読めると無邪気に思っていたのです。

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わたしがメンヘラを避ける理由

繰り返しますが、物語によっていろいろな人の心をのぞき、その人の視点を得て気づくということは、計り知れない恩恵があるものです。
なぜなら、全ての人が自分の心を上手く表現できるほどの表現力に恵まれているわけではないし、恵まれていたとしてもそれをさらけ出して見せてくれるとは限らないからです。

【映画パンフレット】累 かさね 監督 佐藤祐市  キャスト 土屋太鳳, 芳根京子, 横山裕, 筒井真理子, 生田智子

最近映画化されたマンガ「累」でも、「そういうことか!」と目を開かされる機会がありました。

わたしは触らぬリストカッターに祟り無しと公言するメンヘラ嫌いです。「死にたい」とか言われたらその人の元から去ります。「いや、わたし、メンヘラ無理なんで勘弁してください」と。病んでるっぽい子は関わらないように避けます。

これは経験則から来るもので、要するに触らぬリストカッターには祟りはない=リアルでメンヘラに関わると痛い思いをするという体験をしてきたからです。
病んでる人に優しくすると、恩を仇で返されるのです。後ろ足で砂をかけられて終わるのです。

だから、私はメンヘラ嫌いになり、病み系の子には近寄らないように心掛けるようになりました。


↑これは他の人間関係にも言えて、メンタル強い優しい子に愛をあげると当然のように愛が返ってきて優しくしてもらえて暖かい関係も築ける。いいことだらけ。病んでない。
病んでる子はいくら優しくしても愛をあげてもダメ。メンタル弱い子と関わってもひどいことされて傷つけられるだけ。しかも、なぜかこちらが悪者にされる始末。

それは経験則として理解できていました。
ですが、「なぜそうなるのか」ということはわかりませんでした。その理由の一端を、「累」は見せてくれたのです。

累(1) (イブニングコミックス)

いじめを受けていた主人公・累は、誰からも好かれる憧れの存在である先輩・幾から「友達になろう」と持ち掛けられます。

幾には妬まれることでいじめられた過去がありました。
だから、いじめられていた累と自分を重ね合わせたのです。
そして、「助けてくれる人はいる、大丈夫!」と累を励まします。ああ、なんて愛あふるる素敵な女性なのでしょう!

いじめられたって負けない!見返してやる!
メンタルの強い幾様は大天使♥

しかし、姿も心も(!)醜い累はその手をはねのけます。

こともあろうにか、恩を仇で返すのです。

累にとって幾の優しさというのは「無神経」だったのです。
友達になられるだなんて、ありがた迷惑だったのです。


【画像】累(1) (イブニングコミックス)

累を読んで、病んでる子と関わると痛い目に遭う理由がわかりました。そして、「ああ、私と一緒にいたら辛いんだろうから、そういう子と友達になろうとしないことは実に正しい判断だったのだなあ」と納得しました。

可哀想なイワナガヒメに情をかけても、呪われるだけ。
メンヘラに優しくしても、劣等感から意地悪されるだけ。

わたしは大天使♥幾様のような心の強い人と仲良くして、累のような心の醜い(弱い)人を遠ざけることを誓います!
心の強い人は、美しい!!

私はこの学びを生かして、これからも触らぬリストカッターに祟り無しを貫き、メンタルの強い病んでいない人と仲良くして、優しく愛のある世界を築いていこうと思います。
気づきをくれるマンガって、本当にありがたいですね♥

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