死と向き合うと健康が手に入る

人生:スピリチュアルブログ

健康オタクという人がいます。
イキイキと生きたいという人がいます。
そういう人に限って病んでいます。なぜなら、「死」から目を背けるからです。

例えば、心はなぜ腰痛を選ぶのかでサーノ博士は、高齢者の身体の節々が痛むのは「無意識下では死が避けられないことに憤っている」ことが原因だと指摘しています。

心はなぜ腰痛を選ぶのか―サーノ博士の心身症治療プログラム

以下の根本的欲求を満たそうとすると、自分自身にプレッシャーがかかり、それが内なる自己を逆上させる。つまり、苛立ったり腹が立ったりするのは、この欲求のなにがしかが十分に満たされていないということだ。

1.完璧でありたい(人よりも秀でたい、目的を成就したい、成功を収めたいなどの欲求が強い。理想が高いため、達成目標を高く設定する。自己批判的で、自分に対する批判に対して過敏)。
2.人に好かれたい(認められたい、愛されたい、誉められたい、尊敬されたいなどの欲求が強い。ほかに、人を喜ばせたい、「いい人」でありたい、誰に対しても面倒見の良い親のような存在でありたいなどの本能的欲求がある)。
3.世話をしてほしい(どんなに歳を取っても、どんなに独立心旺盛でも、無意識下には、大事にしてほしい、面倒を見てほしいという願望がある)。
4.苛立ちを鎮めたい(ゆえに、飲食、喫煙、セックス、娯楽、遊びなどによって欲求を満足させようとする)。
5.誰にも負けない肉体がほしい(たくましくて、何でもやりこなせる、セクシーな肉体を求める)。
6.死にたくない(無意識下では死が避けられないことに憤っている)。

この最後の欲求は非常にとらえにくいこともある。それでも、50代、60代、70代になると、痛みの発生原因になることが多い。老いるのは腹立たしい。わたしも実際にこういう年齢になって初めてそう思った。わたしの患者の中には自分の気持ちに気づいているものもいるが、無意識下でどんなに激高しているかについては大抵認識していない。

この「死にたくない」けれども「無意識下では死が避けられないことに憤っている」という現象が起こるのは、「死に向き合うこと」を避けようとする文化が効いていると思います。

今の現代社会を生きるわたしたちにとって、死は「リアル」ではありません。
とりあえず日本では「道を歩いていたら死体が転がっていた」なんてことはあんまりありません。
そして、もし死体をみかけたら、十中八九わたしたちは「ヒエッ!」と驚くことでしょう。死体を怖いと思うからです。わたしたちの社会で死体は「リアル」ではなく「ホラー」だからです。

ただ横たわっているだけの死体を「怖い」と感じるのはなぜか。それは、目の前の他人の死体に「自分の死」への恐怖が見え隠れするからだ。

医師という職業柄、死体を目にする機会がたびたびある。その際には、心のどこかに恐怖の感情が湧き上がってくるのを感じる。死んだ人間は生き返らないし、死体に襲われることもないはずなのに、どうしても怖いのだ。

(中略)警察官も、医師と同じように死体を見る機会が多い職業だ。事件や事故で亡くなった人を日常的に目にする彼らに「死体を見るのは怖いか」と聞いてみた。すると、「もちろん怖い。考えたくもない」と言う。なぜ怖いのかと尋ねてみたら、「理由などない。死んだ人間を前にしたら、みな理屈なしに怖くなるのが当たり前だろう」と返ってきた。

人はなぜ、死体を怖がるのか。仕事で触れる機会の多い私たちでさえ、怖さに慣れないのはなぜか。その理由が知りたくて、友人の禅僧を訪ねた。彼も私たちと同じく、葬儀で年中死体に接しているが、やはり遺体と対面した日は、普段の何倍も疲れるそうだ。死体を見るのは怖いし、対面するときにはいつも緊張するという。

さらに禅僧は、私たちが死体を怖いと感じる理由について、無意識に「自分の死を遠ざけたい」「自分の死の恐怖と対峙したくない」という気持ちの表れではないかと教えてくれた。恐怖心は、目の前に横たわる死体そのものに対してではなく、遺体から自分の死を連想することで生まれるもの。怖がる理由は、常に自分の心の中にあるのだと。死が怖くなければ、死体を見ても、幽霊を見ても、怖いと感じることはないのだ。

「修行を積んで、死への恐怖を乗り越えた人は、生々しい死体を見ても、何も感じないだろう」と、彼が付け加えたこの言葉にも、私は深く納得した。

「死への恐怖」がここまで強烈なのは、現代社会ならではではないでしょうか。今の社会は非常に清潔で、巧妙に日常生活から死を排除するからです。
例えば、多くの人が豚肉を「豚の死体」だとは思っていません。ただの「食料」だとみなします。病人や老人は病院や施設へ隔離されて、管につながれて胃に穴をあけられて、人形のようになって死んでいきます。死体(1/1スケール)。

死は日常ではないのです。
わたしたちは死から目をそらして生きていけるのです。わあ、なんて快適!

だけど、「無意識下では死が避けられないことに憤っている」。そう、わたしたちは心の奥底ではわかっています。わたしたちは完璧にいつか死ぬのだと。死からは逃げられないし、人類は実に100%の致死率を誇るのだと。

わたしは、様々な問題の根っこには「死への恐怖」「死からの回避」があると思っています。社会で理不尽なおかしいことが起きまくっているのも、「絶対死ぬという現実から逃げて『いつまでも若々しく健康でいられる』という幻想を追いかけている」ことが根にあると考えています。

高齢者向けの週刊誌が「死ぬまでSEX!」なんておぞましいことをいうのも、高齢者に性欲があるというよりは、典型的な死からの逃避でしょう。男女問わず、若い人と一緒にいて若ぶりたいのもそうです。若い人と一緒にいることで「自分もまだまだ=まだ死なない大丈夫」と安心したいのです。

いや、死ぬから。
100%死ぬから。
今健康か病気かなんか関係なく、絶対死ぬから。

そういう「絶対そうなるって」って真理から逃げて「大丈夫大丈夫!いつまでも健康!私健康オタクだから!」とか言ってるから、社会全体もねじれていくのです。「地震災害大国日本で原発なんか作ったら絶対ヤバイ事故起こるで」って当たり前のことなのに「大丈夫大丈夫!絶対安全!日本の技術力は世界一!」とか言ってるのは、「死から目を背ける健康オタク」とやってることは根本的に同じです。いや、死ぬって。爆発するって。

わたしたちの文化(ひいては個人)は、死から逃げすぎています。
100%訪れるものから逃げ続けようとするなんて、実に不毛です。
わたしたちの文化が倒錯的になるのは、当然の帰結でしょう。生と死という根本からして、わたしたちは倒錯しているのですから。

生と死は等価である

生と死は、両極です。究極の陰陽の形です。
この三次元では両極をそろえて統合することこそが道です。

ゆえに、わたしたちの人生の中には、生も死も必要です。今は生ばかりを良しとし、死を悪いもの(見てはならないもの)と避け過ぎています。それは息を吸って吸って吸って全く吐かないようなものです。吸うのが良くて吐くのが悪いと思っていたら、苦しくなります!

生ばかりを良しとし、死を邪魔ものにしているがゆえに、魂はバランスを崩しているのです。
吸うのも吐くのも両方必要。生きるのも死ぬのも両方が大切なことなのに。

死を、生命全体が解き放たれるもの、あなたの身体のあらゆる毛穴から命がすっかり解き放たれて、全体へと還っていくものとして捉えてごらん。それは、存在する最も大いなるオーガズムなのだ。
そう、死はもっとも大いなるオーガズムだ。けれども人々は恐怖のために、それを逃し続ける。

「命あっての物種!」
「命がこの世で一番大事!」
「命以上に尊いものなんかない!」

こんなテンションで「生命至上主義」をエスカレートさせていくと、何らかのはずみに「死こそ正義」に大転換します。陽が極まると陰になるからです。ガチ左翼がいつのまにかガチ右翼に転向しているアレと全く同じメカニズムです。



【画像】或るアホウの一生(3) 或るアホウの一生 1

極陽と極陰は本質的に同じなのです。バランスがとれていないので、あまりにも極端な方向に振れてしまいます。中庸にたどり着けません。

ナチスドイツが動物愛護のための法律を作り、女性の健康のためにガン検診を整備し、環境に優しい有機農法を奨励したあげく「ユダヤ人とかポーランド人や障害者やホモは全部殺してOK」になったのと同じです。
【参考】ナチス・ドイツの有機農業―「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」


瞑想の危険性でメンヘラは瞑想すると、ますます精神病む場合があるということを書きました。
それは、瞑想に熟練すると「肉体が無いことの解放感を知ってしまう」というのも一因ではないのかなあと思います。肉体が無い状態≒死が、どんなに解放感があり気持ちがいいことかを瞑想を通じて「知ってしまう」のです。

自分が宇宙そのものという体験はあまりにも素晴らしいため、地球に戻りたくなくなるのです。きっとあなたも帰りたいとは思わないでしょう。ですから、ここは訓練の成果が大いに問われるところでした。古代エジプトでは厳しい訓練によってこの「帰還」がたたき込まれたのです。なにしろ「帰らない」と言いさえすれば、それだけでずっとその状態にとどまることができたのですから。そういう人の肉体は石棺の中で死を迎え、地上での生に終止符を打つことになりました。でも、ほとんどはちゃんと帰還しました。なぜなら、そもそもこの体験の目的は人類意識を進化に導くことなので、もし戻ってこなければ地球が進化を体験できなくなってしまうからです。

この訓練というのは、今風に言うなら「グラウンディングの強化」でしょう。
天というイニシエーションを通るには、地というグラウンディングでバランスをとるのです。

だからね、わたしはしつこく「スピ好きは体育会系オラオラ超絶強メンタルであるべきっ!」というのですよ。それでバランスが取れるから。
フニャフニャすんな!腹から声出せー!!押忍ッ!!(大音量)

うんまあ、瞑想で病むメンヘラは死に魅入られすぎてバランス悪いですけれども、実際に死というのは肉体という牢獄からの解放であって十分に魅惑的ではあるのです。過去の芸術家たちが死をテーマにすることで、多大なインスピレーションを得てきたのがその証拠となりましょう。

生も死も、等価なのです。
根っこは同じなのです。
どっちも大切なのです。

で、今の文化だと生を重要視しすぎてバランス悪いから、もうちょっと死と向き合ってみてはどうかね、って話でございます~。オチはそこ。

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