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2018-08-05

「生きている」という実感がほしいなら

「ああ~もう未来はお先真っ暗だ~。本当に嫌な社会だ~」
とお嘆きのあなたへ、おすすめの一冊があります。「人類の暴力史」です。

暴力の人類史 上

これを読めば、まずあなたは
「ああ~今の時代に生まれてきてよかった~!自分てばなんてラッキーなんだろう!」とポジティブな気分になること請け合いです。
なぜなら、500年前、1000年前、10000年前に人類がやっていたことがあまりにもアレでアレでアレだからです。たった70年前ですら「これジャップの頭蓋骨だぜ!記念に!」って戦争帰りのアメ公が女にプレゼントしていた実績のあるクソ人類ですからね。(もちろん日本人だってアイヌの骨をぞんざいに扱ったりしておるので同類です。)

「人類が進化してきた?これで?」
と疑うあなたにもおすすめです。過去の人類はあまりにもアレでアレでアレすぎるので、その道筋を見てきた時には
「ああ…人類って、なんてマトモになったんだろう。これでも、まだマシになったんだ」
としみじみ思うことでしょう。

そう、人類は確かに進歩しているのです。
愛の道を進んでいるのです。

ですが、進化は同時に退化でもあります。(ここは二元性の世界やで)
私たちは、進歩することで何を失ってきたのでしょう?

「生」への感覚をとりもどせ

考古学者のキース・オッターバインは、中央集権化した社会のほうが、女性が戦闘で(連れ去られるのではなく)殺されたり、奴隷制が敷かれたり、人間が生贄にされたりする傾向が強いことを示した。社会学者のスティーブン・スピッツァーは、複雑な社会のほうが冒涜的行為や性的逸脱、背信行為、魔術といった犠牲者のない行為を犯罪と見なし、法に違反した者を拷問や手足切断、奴隷化、処刑などの残忍な刑罰を加える傾向が強いことを示した。そして歴史学者で文化人類学者のローラ・ベッツィグは、複雑な社会のほうが専制君主の支配下に入る傾向が強いことを示した。
(中略)
こう見てくると、暴力に関していえば、初期のリヴァイアサン(注:統治機構を持つ安定した国家)は一つの問題を解決できたものの、別の問題を作りだしてしまった。人々にとって、殺人や戦争の犠牲者になる確率は少なくなった半面、今度は暴君や聖職者や泥棒政治家たちに抑えつけられ、言いなりにさせられたのである。これにより、「平和化」という言葉には不吉な意味が付与される。平和がもたらされるだけでなく、強圧的な政府による絶対的支配が押し付けられることになるからだ。

暴力の人類史 上 ※注は記事作成者による

ここでいう中央集権化とか複雑な社会という表現は、要するに現代社会のことです。原始社会や部族社会ではない社会です。
そういう発達した社会で生きる私たちが失ってしまったもの。
それを一言でいうなら「冒険」なのではないでしょうか。

「血沸き肉躍る生々しい体験」と言い換えることもできるでしょう。
「自分、今、生きてる!!」という身体性を伴った感覚。頭の中で思っているだけじゃなくて、体全体で生を感じるような瞬間。そんなものから切り離されているのではないでしょうか。

この暴力の人類史では、いかに人類が「野蛮さ」から解き放たれ、平和で安定した社会を作ってきたのかという道筋が示されています。殺人率でいうと、こんなにドンパチ戦争していてすら昔の1/10~1/1000以下です。
少なくとも今の日本で「ああ、知り合い(家族・友人)こないだ殺されたわ」という人はめったにお目にかかりません。でも原始社会ではそれが日常だったりしたわけで。

日本人がその野蛮さから最も顕著に解き放たれたのは、近代化以降、明治維新からといえるでしょう。
しかし、明治以降、日本人は「霊的感覚」を著しく失ったようにも見えます。宮本常一の「忘れられた日本人」では、「目に見えない存在(妖怪)」が昔の庶民の生活に普通に溶け込んでいた様子がうかがえるのです。

漁師の話ちうものは、時化にあうた話か、化け物にあうた話ばかりでのう……。またどういうものか昔はそういうものがぎょうさん出たもんじゃ。(P183~184)

人がほんとに住みついたのが明治二十年頃、その頃には入江の向う側によく狐火がもえていたものでごいした。あんまり気持ちのええもんではなかった。それにまた、ほんに静かな晩に、天地もさけるような音のすることがあった。天道法師が飛行なさるのじゃろうなんどいうちょりましたが、明治三十年頃になると家も百戸にふえ、その上紀伊の国から毎年七十ぱいくらいのブリ釣りが来るようになって、港はにぎやかになり、狐火も天道法師の飛行の音もせんようになってしまいやした。(P192)

忘れられた日本人  樫田富五郎翁より

日本人は霊的感覚を失うと同時に、「生」への感覚も失ってしまったのではないでしょうか。
「私たちは生かされています」と口で言ってみたところで、芯からそれを信じている人はほとんどいないでしょう。「私たちは(金で)生かされています」なら、ほとんどの人が信じているでしょうけれども。お金なんてただの紙きれなのに!

まずはマネーシステムを学ぼうぜ

わたしは母の姿を見ていて「主婦の人生って、本当に空っぽで虚しいんだな」と思い知らされました。何が何でも絶対に主婦だけにはなるまい!と思い生きてきました。物質的に豊かで満たされていてお金に困らない生活というもので、人が幸せになれるわけじゃない様子を見てきました。

なぜ経済的に安定した生活が、人の心を虚しくさせるのか?
そこには冒険がないからです。先の見える決まり切ったこと(安定していること)ばかりで、ワクワクがないのです。血沸き肉躍る不確定要素がないのです。

若い頃の私は不確定要素を求めていました。しょっちゅう旅に出ていたのもその一つです。
【参考】わたしがもう旅を必要としない理由
分厚い時刻表とにらめっこして全日程車中泊で青春18きっぷの旅(4泊5日1万1千円)をしたりしていました。今は夜行快速ムーンライト激減でそんな旅も厳しくなっていますが、昔はできたのです。不確定要素満載で、新鮮で、知らないものに出会える冒険が。

野蛮でないことは、いいことです。
コロッセオではりつけにされてレイプされた後に獣に食われる女性を見て喜ぶような人とは、ちょっと友達になりたくありません。(昔の人類がアレって、こういうレベルです)

でも、野蛮さを手放すなら手放すで、別のもっと洗練された形でわたしたちは生命力とつながれるようにすべきです。スピリチュアルな言い方をするなら第1チャクラが弱ります。グラウンディングが弱くて現実に対して影響力を及ぼせなくなります。あなたの存在がぞんざいに扱われます。

生命力が腐ると、生きていることが虚しくなります。
生命力とつながれる人は、生きることに意味や理由なんかいらないことがわかるでしょう。だって、「ただある」だけで力がみなぎるんだもの。そうあればいいと思えるんだもの。

安定は大切だけど、安定しすぎると腐るのです。
そして、安定した生活をするとてきめんに腐るのが「男性性」です。

自分の中の男性性を取りもどす

この記事で詳しく書いていますが、わたしの男性性は腐りまくって自信を失っていました。彼にはいいところもあってステキな性質もたくさんあるのに、「うざいオッサン」に成り下がっていたのです。
そんな彼本来の力を解き放つのに必要だったのが「野蛮さ」です。


【画像】ゴールデンカムイ 3

「男はいつまで経っても子供だから」といいますが、本当にそうでしょうか。
昔の男は、「男手」として必要とされ、「大人の男」であることに誇りを持っていました。
要するに「お父さんスゴ~イ!」って機会が結構あったのです。

例えば、昔の車は単純な作りだったので、多少メカニックに強い人なら故障もチョチョイと直してしまえました。家の修復も大抵は男の仕事です。壁が壊れても屋根が雨漏りしても、トントンカンカンで直してくれたのです。いつもトドのようにゴロゴロ寝ていても、いざと言うときに頼りになる。それが「男手」であり、「やっぱり男の人がいてくれると安心だわ」だったのです。

でも今じゃ「男手」なんて全然必要ない。車だって電子化して素人じゃいじくれないようになっている。家の修理だって業者に頼むし、男の出番がない。すなわち、家庭の中で「大人の男」になる必要がない。

だけど、それじゃ腐るんだよ!
男が!男性性が!!
野生がない生活なんて、生きてる実感がないんだよ!!

わたしたちは確かに野蛮さを手放し、人を殺さない社会を作ってきました。またその状態、ボッブズのいうところの「万人の万人による闘争」に戻るなんて誰も望みません。
ですが、野蛮さの代わりになる代替物が必要です。冒険が必要です。
いつまでもママに甘えて安定と安心を求めていては、生きている実感は得られないのです。バブみでオギャってちゃアカン。

暴力の人類史 上
暴力の人類史 上

posted with amazlet at 18.08.05
スティーブン・ピンカー
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