There are some people slide back down, but that’s fine because there is free will in the process. Eventually, when someone hits the bottom, that person can go back up because there’s no other ultimate direction(…with much laugher…).
もしある人が(魂の進化の段階を)下がっていっても、別にそれはかまわないのです。それもその人なりのプロセス、自由意志ですからね。だって結局、いきつくとこまでいったなら、もう下がりようがないから上がってくることになるのですよ(大笑)。The hathor material - The Ascending Spiral P96
常にテストでマルとバツをつける学校教育の弊害か、「物事には絶対的正解がある」と思い込んでいる人がいます。大人からそう教えられて育ってきたのでしょう。
ですが、人生に正解はありません。
それをわかりやすく教えてくれる人だなんていません。
正解は自分で見つけ出すものです。自分で知るものです。
ある人にとっては正解なものが、ある人にとっては間違いになります。理系科目のようにスパスパ割り切れるものではないのです。理系の人にコミュ障が多いのは、科学のように人間関係も理論的にスパスパ割り切れると思い込んでいるからでしょう。もちろんそう思っていない理系の人は、コミュ強になれるでしょう。科学は人生において絶対真理でもないし、万能でもありません。
システマティックに合理的に人生を生きようとすると、必ずメンタルにガタが来ます。なぜなら、ここは二元性の世界なので、合理的に生きようとすればするほど不合理な目に遭うものだからです。
正解はないのです。
あなたが自分で探し出すしかないのです。
そして、自分で探し出した正解が、他人にとっても正解だとは限りません。承認欲求を満たそうとして「ホラホラッ!私のしてることっ!正しいでしょっ!認めて認めてっ!」といったところで、心の穴がより大きくなるだけです。
例えば、リンデンバウムは「子供を作った人お断り」です。子どものいない人のためのサロンです。
私がここでお伝えすることは、子育て中の人、親になった人にはふさわしくない情報です。害になりかねません。ある人にとっては不正解なのです。だから「子どものいる人、子どもを作ろうと思っている人は来ないでください」とお断りしています。全員に正解ではないのです。
自分にとっての正解は、あなたが探し出すしかありません。
他の人にとって「これはいい!」というものでも、あなたにとっていいか悪いかは別の話です。自分で試して、判断するしかないのです。
例えば、「自己肯定感が低いのはダメだ」という考え方があります。
「自分を肯定できないんです。どうしても自分のことダメだって思っちゃうんです」と悩んでいる人がいます。
確かに、自己肯定感が高いに越したことはないのでしょう。
でも、どうしても無理ってなら、それは仕方ないんじゃないですか。どう努力したところで自分を肯定できないってなら、そういう自分を受け入れるしかないんじゃないですか。
「じゃあ、自己肯定感を持たないままで生きるにはどうしたらいいんだろう」と、自分なりの正解を探し出したほうがいいでしょう。だって、無理なんだから。肯定できないんだから、しょうがないでしょ。無い袖は振れぬのです。
例えば、西田天香さんは謝れば謝るほどいいんだという考えでいます。自分は間違いも犯すし悪い所もあるのだから、どうしようもない。ただ許してもらうしかない。すいませんすいません、と。
杉本という真面目な国の友達からトルストイの『我が宗教』を一部贈ってくれました。当時の私にはなんだかそれがふさわしいような読み物ででもあったとみえて、一気呵成に読みゆくうち、巻末の「わが告白」という一節の中ほどに、「生きようとするには死ね」といったような文字にぶっつかりました。この死ねはきわめて無造作に、露骨に私に響きました。「死ぬと決心すれば、生き返る」という功利的なものではなく、「浮かぶ瀬のあることを予測して身を捨てる」のでもなくて、ただ、人をしのいで生きることは、しのがれる全体の死ぬことだ。全体が生きるなら自分が死んでも本懐ではないか。自分も他人もただ水面に生じた泡沫のようなものでその泡沫に執着するのは全体たる水を知らぬためである。死んだとて何物も消え去るのではない、生きようと思わば死ねという言葉は、上のように解釈して差し支えはない。無理に他をしのいで生きることは死ぬることである。運命を天に任せて、食えなければ本体に還ればよい。死ねとは迷妄から離れよとのことで、悟れば全体が自分なのである。
「よろしい、死んでしまおう」といった感じに全く私はうたれてしもうた。懺悔の生活 転機 P81
そうして、西田さんは「許されてなら活きる」「お光に養われてなら活きる」という生き方に入っていくのです。
だから、警察に怪しい奴だと思われて「お前の職業は何だ」と言われても、困ってしまいます。これといった生業は無くて、なんだかんだで、食わせてもらっているのです。許されて、奉仕することで、ゴハンが巡ってくる生活なのです。
「自分が大好き!」「好きなことしかしない!」「ワクワクしなきゃ意味がない!」といった、最近はやりの自己啓発本からは、ずいぶんと隔たった考え方になります。でも、これも一つの道です。
自分を誇るのではなく、謙虚に慎ましく奉仕をしようという考え方は、自己肯定感が低い人には却ってよろしい場合があるでしょう。「自分大好き!」と笑顔でポジティブにならずともよいのですから。「ああ、自分はダメだなあ」と省みることのほうが良いのですから。
西田天香「自他一体観よりすれば一切の罪は自分の罪なり」(懺悔の生活P106)
な、自分が全部悪いんだよ!何をやっても自分が悪いんだよ!
君は変わる必要はない!今まで通り「自分が悪いんだ」と思っててよいのだよ!
まあ、どの道を取るにしても、大切なのは「自分で選んでやってみる」ことです。試行錯誤することです。悩むことです。
一番いけないのは「他人に決めてもらおう」とすることです。「どれがいいですか」と質問して、自分の頭で考えず楽して最短距離を歩もうとすることです。
こういうことに限っていうと、コスパ重視はいけません。
といっても、ここでいう「コスパ」というのは金のことではありません。労力、エネルギーのことです。
失敗だってすべきです。一度も失敗なく上手くいってしまうなんて、あまりにも学びがなさすぎます。底の浅い人間になってしまいます。コスパ悪く、ぐねぐね迷いまくって悩んだほうが良いのです。
道は一つではありません。
色々なやり方があるのです。
全ての人に共通する正解なんて、ないのです。
はじめに引用したのは↑このハトホルの書の原書です。なんでいきなり英語の原書で引用したかというと、サロンに日本語版が置きっぱで手元に原書しかなかったからというだけの理由でやんす……。