私は「スピリチュアルが好きな人って、グラウンディングの弱い(地に足がついていないフワフワした)人が多いなあ」と感じてきたので、「グラウンディング大事!!」と口が酸っぱくなるほどいってきました。
これは実にバランスの問題で、精神性とグラウンディング、どちらかだけに偏ることが良くないのです。グラウンディングだけしっかりしてて、心がないがしろになってしまうのも良くありません。
だけど、スピリチュアル好きだけに限っていうと「とにかくグラウンディング!グラウンディング命で生きろ!!体育会系至上主義ッ!!身体性こそが至高であるーッ!!!」くらい言っておいてちょうどいいくらい、グラウンディングの弱い人が多い。
いい。私だって体育会系のダメなところは知ってるよ。
だけどさ、身体性をないがしろにして「頭でっかち」になっちゃったって、この世の中でやりたいことも現実化できないで終わっちゃうんだもん。地に足を付けて、大地(地球)とエネルギー的につながっていくことで、はじめて現実化できるんだよ。フワッと「祈ります☆」なんて言ってたって、お前はどこの安倍昭恵だ!で終わっちゃうんだよ。「フワッと」禁止!!!
▼フワッとした発言の一例▼
アカン……。
これはアカンやつや……。
フワッとしたこと言う人って、信用できんよね~!
生において、もっとも重要で基本となるセンターは、頭でもハートでもなく臍だ。(P43)
臍は意志力のセンターだ。臍が活性化すればするほど、意志力は強固になり、あなたは事を行う決意や力や生エネルギーをさらに手にするようになる。(P103)
そう、祈ったところで現実は何も変わらんッ!!
なぜなら、グラウンディングができていないからだ!!!
(逆にいうと、しっかり地に足がついていれば祈りも現実に通じる)
日常の中に神聖さを見いだせないで何がスピリチュアルじゃ!
パワースポットに行かなきゃ波動を高められないスピリチュアルに何の価値があるんじゃーッ!
フツーに生きてフツーの日常の中に目覚めの気づきを見出すには、グラウンディングが大事なんじゃーッ!!
とまあスピ好きの「フワッ」とぶり、グラウンディングの弱さをこれでもかとディスってみたわけですけれども、ちょっと思ったんですよ。
「んん?でも『フワッとしたこと言う』って表現、別にスピリチュアル界隈じゃなくても使うぞ? もしかしたら、多くの日本人が、結構グラウンディング弱い(=フワッとしている)のではないか??」と。
グラウンディングを弱らせる「消費」
なぜそう思ったかというと、「消費」をやめる 銭湯経済のすすめに書いてあることを読んでです。
いい悪いの問題ではなくて、その社会がもっている生活や文化、風土というものと合うか合わないかの問題です。自分たちが伝統的にもっていた、いわば「自然過程」を通じて培われてきた、封建的ではあるが贈与・互酬的な会社システムを、外から持ち込んだ人工的なものでそっくり入れ替えようとしても、うまくいくわけがありません。
(中略)
そんなことが起きたのも、生産から消費へと価値観が百八十度転換し、地についていた足を、地面から離してしまったことが背景にあります。いや、それもまた自然過程であるわけで、文明化、都市化の進展の中で日本人が自らを消費者としてイメージすることが普通になったということです。「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ P120~121
なるほど。「フワッ」としたことをいうのがスピリチュアル愛好家だけじゃないのは、こういった理由もあるのかもしれません。日本人全体が地に足がつかなくなってフワフワしている。すなわち、グラウンディングが弱くなっている。
その理由を、著者の平川克美さんは「消費者」になりすぎているから、と分析しています。そのことによって、地から足が離れてしまう。すなわち「フワフワしてしまって、自分がどこにいたらいいかわからない。居場所がないと感じる」状態になるのです。人生に根を張るための「土台」が無いのです。
確かな土台を持つことが、人生に安らぎや充実感をもたらすことになるはずです。土台を失うからこそ不安を抱え、不安を打ち消そうとして強欲になったり、金銭崇拝者になったりすることがあります。
「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ P147
平川さんは、おカネはその土台にはなりえないといいます。「流動させてこそ意味があるおカネは、人生を支える土台になりはしないのです」と。
ちょっと話はずれますが、「おっ」と思うことがあったのでご紹介します。
かつては、おカネ持ちは、どこかいかがわしい人間だと思われていたところがあります。それが次第に、おカネ持ちは何か優れた人間だと思われるようになってきます。それもこれも、生産することを中心に回っていた社会が、消費することが中心の社会になったことが原因です。
実はこの「おカネ持ちは、どこかいかがわしい人間」という価値観、若い人の間ではまた復活しつつあるようですよ。
いわゆる不良の若者層の中でも、詐欺で稼ぐことは「ダサい」という空気がある。「金周りがいいと人が寄ってこなくなる」という、ちょっと昭和生まれには理解しがたい言葉も聞いた。この現代の日本で、金を持った若者は「何かヤバイことをやってるんじゃないか」という空気だ。
老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 P158~159
ものづくりで、土台を取り戻そう
私は和裁をやります。
自分で着物を仕立てるのです。
この和裁(ひいては着物)は、実に日本人の生活の知恵に溢れています。
着物や帯を仕立てるときに、「型紙」はありません。
布を曲線に切らないのです。全部まっすぐに切ります。要するに、反物を長方形の何枚かの布に切って、仕立てます。
だから、着物を解いて縫い合わせると、反物の形に戻るのです。「ハギレ」はほとんど出ません。無駄がありません。
小柄などの理由で布が余る場合、余った分を切り落とすのではなく、着物の中にできうる限り縫い込みます。その最たるものが「あげ」です。長さが許す限り、前にも後ろにも胴体部分に「あげ」を入れます。着物で一番擦り切れやすいのは、裾です。「あげ」を入れておけば、裾がすれてきてもあげを解けば、キレイに直せてまた着られるのです。生活の知恵!
(でも私は170cm近いデカ女だから、切り繰越やカギおくみにするくらいで、あげなんてほとんど取れないんだけどねぇ~トホ~ン(涙))
長方形の布なので、いくらでも使いまわしがききます。
着物として着れなくなったら帯にして、帯としてダメになってきたら、裏地にしたり手ぬぐいにしたり布団の皮にしたり半襟にしたり下着にしたりおしめにしたり――まあまあ、とにかく何でも使えます。リフォームし放題です。
そして、ボロボロになって布として使えなくなって来たら、最後は雑巾にしたり裂き織にしたり、はたきの先にしたりして使い切ります。
布の命を、無駄にしないのです。
かつての日本人にとって、つぎはぎだらけの服を着ることは、無駄なおカネを使わず、ものを大切にするよいことでした。ところが、おカネを使うことが美徳になると、つぎはぎだらけの服はただの汚い服となり、みっともないことだと考えられるようになったのです。
「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ P25~26
そう、本当に日本人は布を大切にする民族だったのです。
服も大切に着る民族だったのです。
なのに、どうしてこうなった。
軽薄に流行を追いかけ、次々に服を買っては捨てる。そんな愚かな醜い日本人に、どうしてなってしまったのか。ファッション大好き♥って、稲田朋美かよ。
【参考】TPOを弁えないファッションがブーイング!稲田朋美 同級生語った“嫌われる女の原点” | 女性自身
私は、洋服生活でも布をできるだけ大切に使おうと思っています。目立たない穴はつくろったり、裾がほつれて来たら縫います。靴下の穴も縫います。ボタンが取れかかったら、補強します。
そうやって、同じ服を10年着たいと思います。そうすると、ユニクロやGUはやっぱダメですね。すぐヘタって伸びてしまうから、修復のしようがない。
私は裁縫をすることで、深くグラウンディングする自分を感じます。
腰が落ちつき、どっしりと動じない根がはえる。肚が据わるのです。
なぜなら、生活に必要な物を作る行為だから。作ったものは、すぐ次の日から使える必要な物だから。
裁縫じゃなくても、料理でもDIYでも、他のものでもよいのです。
マグカップやお皿に種をまいて、スプラウトを育ててみてもいい。
【参考】スプラウトの栽培方法!育て方からオススメのキットまで|家庭菜園マガジン[AGRI PICK]
自分の生活に必要な物を、自分の手で生み出してみてください。買ってきて「消費」するのではなく、自分の手で「生産」してください。
「消費」を減らすことによって、あなたは深くグラウンディングされます。
「消費者」から下りるとはいっても、買うことをやめることはできません。そういう意味では、どこまでも「消費者」であるわけですが、生きていくうえでの価値観を変えることで、消費行動を変えることができるはずです。
その一つのカギを握るのが、生産者としての側面を回復するということです。
人間は、どんな時代でも常に消費者であり生産者でもあるわけですが、今は消費者の側面だけが歪なまでに大きくなっています。生産者の側面は、今も消費を続けるための方便として残っていますが、本当の意味で生産することをいかに回復するか、それが重要なポイントになるはずです。
(中略)
要点は、おカネ儲けをするのではなくて、生きていくこと。
生きていくための戦略として、「脱・消費者」を考えてみたいのです。「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ P201~202