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2018-05-06

許すからこそ憎まれる

許しすぎは、良くないで、「許しゃいいってもんじゃねえゾ」ということを書きました。
実際、許せば許すほど、悪化していく関係もあります。相手を立てて尽くせばつくすほど、相手が自分を憎むようになる場合もあります。与えすぎは、よくないで紹介した、作家の村山由佳さんの元夫との関係から見てもそうです。

許されることを「重い」と思ったり「借りができた」と思ったり「情けない」と自信を失うきっかけになったり、罪悪感を覚える人(特に男性)もいるのです。寛大に許されることで、一生辛い思いを背負う人もいるのです。

許されないほうが精神的にラク(そっちのほうが精神のバランスがとれる)って場合もあるからね。実は。
だって、「許さないお前がヒドイ!」ってイチャモンつけて相手のことを悪者に仕立てあげられるから。責任転嫁できるから。

エディプスコンプレックスに対し、阿闍世コンプレックスは仏教経典に題材をとりながら、母性原理に基づいた感情的葛藤である甘えや依存を許し合う二者関係を扱っている。(中略)阿闍世コンプレックスの体験には、エディプスコンプレックスのような罰や恐怖による罪悪感は存在しない。
阿闍世コンプレックスで見られる罪悪感は、「自分が悪いことをした(母親を恨み殺そうとした)のに、相手から許されてしまったことによる申し訳の無さや後悔・謝罪としての罪悪感」であり、その世界は、「悪い行為をした加害者(子ども)を“罰する”のではなく、”許すこと”によって子どもに自己懲罰的な罪悪感を自発的に抱かせようとする世界」なのである。

これ、シックリくると思いませんか。
フロイト先生が提唱する「エディプスコンプレックス」よか、「阿闍世コンプレックス」のほうが、日本の母子関係、ひいては人間関係のベースになってるんじゃないでしょうか。

だってエディプスコンプレックスって、強い父だぜ。
母ちゃんとべったりしてたいってところを「甘えるな!」と一喝してくる父親だぜ。
そんな父親どこにおんの。夜遅くまで働いてて家にいないし休日も家にいないか寝てるし、「母と子を分断する父性たる男親」の存在なんて、日本の家庭においては絶滅危惧種ちゃうのん。

父親の影うっす!存在ほとんど無視!の阿闍世コンプックスのほうが、日本人の深層心理には合うんじゃないでしょうか。

おそらく不在だった父は、葛藤を生むほどの存在感を持たない。ともに過ごした時間の短さは、愛着を育むには圧倒的に不足しているのだ。だから、父親への反発はストレートで、わかりやすい。結果的に娘たちは父親を見限りあきらめることができる。

「尽くすタイプの人」は、疑問に思ったことがあるでしょ。
「こんなに与えているのに、どうして返してくれないんだろう」と。
「これだけしてあげたでしょう」と主張したら、むしろ機嫌が悪くなったりキレられたりするのはどうしてなのだろう、と。「私がやるのは『当たり前』なのに、向こうに同じことをやってといったらブツブツ文句を言われるのは公平じゃないわ」と。

その原理も、この阿闍世コンプックスに沿えば簡単に説明がつきます。
「尽くされる(許される)ことで罪悪感を背負う」要するに、重くて重くていっぱいいっぱいになっちゃって、何か少し不満を言っただけで「いい!じゃあ別れる!俺なんかいなくなればいいんだろ!!俺がいなくなれば解決すんだろ!!」とブチ切れられる。修正してほしいのに、切断しようとされる。

それは罪悪感を植え付けられることで追い詰められているわけです。
なんで罪悪感があるかっていうと、尽くされるからです。許されて与えられて「さ~ぁ、これだけしたんだから、さぞかしいいものが返ってくるでしょうね~♪」という期待に自分は多分応えられない(応える自信がない)から、もうブチ切れるしかないのです。

精神分析学者の岸田秀さんは、自ら母親への確執を精神分析しています。
そこには「尽くしたのに報われない女」が姿かたちを変えて出てきます。

母はこの例に出てくる「世話した者にそのうち必ず見捨てられて腹を立てる恩人」に似ていた。(中略)残された五人の子どもたちは多かれ少なかれ母の世話になった。しかし、そのうちの誰一人として、母には感謝していない。感謝するどころか、ときに思い出して恨み言を言っている。そして、母は誰よりも最も世話をし、恩を施したはずの私に一番に憎まれ、恨まれている。

岸田さんの母は尽くす人でした。
息子が実家に帰ってくると、腕を振るって好物を作るような母親でした。
だけど、息子には嫌われ憎しみ抜かれています。尽くせば、つくすほど。

ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫)
スピリチュアルの本や自己啓発本って「許しが大事です」って良く書いてありますよね。
でも、より頻度が高く許しを強調してるのって、実はキリスト教文化圏の本じゃないでしょうか。同じ精神世界の本でもインドとかチベットとか仏教圏だと、あんま許しって単語見ない気がするんですよね。

最近の自己啓発本は日本のでも「許せ~許せ~」いうてるけど、もともとの日本文化ってのは「喧嘩両成敗」で許すよりも水に流して忘れちまえ!って感じなんじゃないでしょうか。だって小さな島国でムラ社会だと、貸し借りで禍根を残しちゃマズイもんね。許すってどうしても「許した」「許された」で上下関係ができちゃうでしょ。

上のゆるすということ―もう、過去にはとらわれないなど、許しについての著作がたくさんあるジェラルド・G. ジャンポルスキー氏も、アメリカ人です。

許しが幸福のカギなんだよーっていう。

先の母・娘・祖母が共存するためにには「同じ罪悪感であっても、父という超自我ゆえの内面化された規範による罪悪感と、許されてしまうことで生じる『申し訳なさ』のそれとは大きく異なるのは言うまでもない」とあります。
実にこれがキリスト教圏と日本の大きな違いなのではないかと思うのです。

キリスト教圏の人には「許す」が大事だけど、日本人に「無限の許し」を与えて甘やかすと、ロクでもない関係に堕ちてしまったり、むしろ相手から粗末に扱われてしまうのではないかと。

なぜなら、許せば許すほど相手は「申し訳なくなる」ので
「この人は自分がいないほうが幸せだろう」とか
「この人の期待には応えられない。一緒にいる資格はない」とか
そういう方向に思考がいきがちになるからです。

だから尽くす女のほうが、何か少し本音を言ったら「別れよう」と言われる。相手の罪悪感をスイッチ押しちゃって、臨界点突破しちゃうから。

いくら正しくったって無駄なのよ。こういう時に善悪や常識なんて、ちっとも役に立ちゃしないんだから。「わたし、間違ってる?」「だって普通そうするでしょう!皆そうしてるし!」なんて言っても、相手は頑なになるだけなんだぞ~ぅ。だってもう追い詰められてアップアップなんだも~ん。

あなたのハートの弦は、完全に緩んでいる。緩んだ減からは、愛の音楽も至福の音楽も生まれない。(P27)

あなたのハートの弦は、とても緩んでいる。そこから出てくるのは怒りだけだ。そこから出てくるのは、歪みや不調和だけだ。音楽は一つも生まれることができない。(P31)

この例えを使うなら、張りすぎなキリスト教(一神教)圏の人間はハートをもう少し緩めたほうがいい。すなわち、「許し」を行ったほうがいい。
だけど、日本人は基本甘やかしの母子癒着文化で緩みすぎているから、許しよりも適度な緊張感のほうが大事になる。要するに「親しき仲にも礼儀あり」で、距離が近い相手でも踏み込み過ぎてはいけないところは踏み込まないで尊重してあげる、ベタベタしすぎない(尽くさない)大人の距離感こそが「申し訳なさ」の緩和になるのではないかと。

すなわち、↓こういうことですな。

仲むつまじくても互いに距離をおきなさい、
そして二人のあいだに天上の風を吹かせよう。

愛し合っていても、愛で束縛してはいけない、
二人の魂の靴のあいだに波立つ海をあらしめよう。

互いのカップに注ぎあっても、一つのカップから飲まないこと、
パンを与え合っても、一塊のパンから食べないこと。
一緒に歌い踊って楽しんでも、互いを独りにしておくこと、
同じ音楽に震えるリュートの弦でさえ互いから離れているように。

愛情を与え合っても、それをしまいこまないように。
生の手だけが二人の愛情を納められるのだから。

一緒に立つときも、近くに寄りすぎないこと。
神殿の柱は離れて立っているのだから、
樫も樅も互いの日陰では育たないのだから。

カリール・ジブラン 預言者より

「許してあげたのに、愛の無い仕打ちを受けた」と傷ついているあなた。
もしかしたら、あなたの許しが相手の「申し訳なさ(罪悪感)」を植え付けているのかもしれませんヨ。重くなっちゃって負担に感じているのかもしれませんヨ。

許すのも尽くすのも、ほどほどにね。
少なくとも見返りを求めてやっちゃいけないよ。
子宮でくるみこむような母性って、窒息(息苦しい関係)の元なんだからね。

いつまでも依存的に結びついていると、私たちは、まだ母親から完全な愛を得られるのではないか、という希望を捨てきれない。もう、私たちは成人している。自分がそんなものを望んでいないのはわかっている。幻想を捨てて、別のところに目を移さなければならない。成熟とはそういうことだ。それこそ真実だ。

母・娘・祖母が共存するために
信田さよ子
朝日新聞出版 (2017-12-07)
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