私の最近の大きな関心事の一つに
「いかにして成熟し、老い、死んでいくか」
というテーマがあります。
いつまでも若々しくいたいとは思いません。疲れます。私はそこまでやる気のある人間ではないのです。大人しくショボショボ枯れてスッキリ死んでいきたいです。
だけど、そういうと大抵の人から
「まだ若いのに!」
と言われます。
不惑すぎてますよ。何が若いんだか。
あからさまにもう成熟期でしょうが。
若さなんて無いですよ。カンベンしてよ。
「日本人はマーケットによって幼稚化するように仕向けられている」という話が出ましたが、僕もそう思います。今や若者以上に老人の幼稚化が深刻です。『週刊現代』や『週刊ポスト』あたりは想定読者がどんどん高齢化しているせいで、このところずっと「七〇、八〇になってもセックス現役」というような記事を掲載しているけれど、あれはそれなりに読者のニーズに応えているわけでしょうね。近代までの常識だと、「いい歳になったら、そっちのほうは『枯れて』いいじゃないか。他に楽しいことはいろいろあるんだから」ということでしたよね。『徒然草』読むと、四〇歳過ぎたら、もう人前で男女のことをうれしげに語るのは「似げなく、見苦しけれ」と言われているんだから。でも、今は高齢者たちが巨大なマーケットを形成しているので、何とかして彼らがいつまでも煩悩から解脱できず、活発な消費活動を行ってほしい。爺さん婆さんたちがさっさと『枯れて』しまって、物欲を無くし、仏道に帰依されたりしたら、それこそ資本主義にとっては致命的ですからね。
だから、見てくれは老人なんだけれど、中身は中学生程度という老人が増えてきている。この老人の幼稚化は彼らのアンチ・エイジングを目指す自己決定によるわけではなく、市場からの要請によるものなんだと思う。ネトウヨにも七〇代とかの高齢者が多いんじゃないかな。属国民主主義論―この支配からいつ卒業できるのか P210~211
最近のお年寄りは本当に若々しくアグレッシブです。
ちょっとぼんやりしていたらすぐ体をさわって口説いてきます。
大迷惑です。
高齢男性向け雑誌で「美術館ナンパ」を推奨する内容がありネットで炎上しました。
【参考】「ちょいワルジジ」になるには美術館へ行き、牛肉の部位知れ│NEWSポストセブン
「ちょいワルジジ」の記事、同じジジイの僕からしても気持ち悪さしかない。美術館で女性を狙えとか、焼肉屋で女性へのボディタッチの仕方とか。あっ、こういうジジイは嫌われますよ!という反面教師にはなるかも。ジジイになってまでライフスタイルを他人に教えてもらわンといかンのか。(小池一夫)
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2017年6月12日
まさに老人の幼稚化が激しい。わざとバカになるよう誘導することによって、最後まで搾り取ろうとするのがこの資本主義社会というものなのでしょう。
いやだいやだ。私はそこに巻き込まれたくない。
素直に枯れたい。自然のまま枯れたい。
しみじみそう思うわけです。
私は着物を好みます。着物には「若い娘向け」「中年向け」「老婆向け」が決まっています。
こういったものは「若い娘さん向け」とされています。
こういうものは、大人の女性向けとされています。
私は昔、「そんなの年齢に関係なく着たいもの着ればいいじゃない!」と思っていました。年を取っていたって花柄着たいなら着れば、と。
だけど、歳をとった女性に地味な着物を着せるのは、「昔の人の知恵」であったのかもしれない。最近そうも思うのです。地味な色柄を着こなすことで内面的な精神の成熟を促し、「老害化」を防ぐ効用があるのではないかと。
内田 着物を着たり、文楽観に行ったり、吟行に行ったり、漢詩書いたり、老人は「そういうことをしなければならない」という暗黙の社会的要請があったでしょ。それは老人に老人らしいふるまいを新しく学ばせて、それを面白がるようにしておくことで、老人がもたらす害を最小化するための仕組みだったというような気がしますね。
谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』には「老人ごっこ」を楽しんでいる老人と、それに憧れる青年がでてきますけれど、たしかに「老人がするとつきづきしいこと」ってあるんですよ。若い人が「老人しかできないこと」を羨み、憧れるという文化がかつてはあった。欲望の対象を年齢によって「散らす」ことの大切さを昔の人は知っていたんですね。
白井 おそらく、そうした社会的な知恵がなくなっていくことも幼稚化なんでしょうね。「老害は放っておけば発生するもの」という認識があれば、「何とかしてそれをミニマムにしよう」という知恵も働くのに、幼稚化しているのでそこが野放しになってしまう。
女性の着物の柄の年齢による差というのは、まさしくこの老害を防ぐための「知恵」だったのではないかと思います。
年を取ったって好色なババアなんて、源典侍(源氏物語)のように昔から当然いたわけですよ。そんなのは当たり前なんですよ。だから、人間はそもそもそういうものなんだから「じゃあそれを品よく抑えるにはどうしたらいいかシステムを組もう」って話になりますよね。その一つが、着物の柄ゆきであったと。
「好きなものを好きに味わいつくしてしまうと、歳をとった時の楽しみがない。だから、渋好みの紬や縞は後の楽しみに取っておきなさい。若いときには娘らしい花柄を着ておきなさい。そうすれば年とった時に着たいなんて思わないから」という見方もできます。
ちなみに、この属国民主主義論では、老害化を防ぐのに「旦那芸」という習慣を復活させよ、と提案しています。年を取ってから新しい習い事を始めるのです。
年を取ると、叱られることがなくなってくる。特に出世した人ほどなかなか叱られる機会に恵まれない。だから、新たに芸をはじめて、その場では師匠にコテンパンに「違う!何度言ったらわかるんだ!」と叱られる。それによって精神的な円熟が得られるわけです。
そう、叱られるって大事なんですよね。定期的に誰かから叱られるって、本当に大事。じゃないと、どうしてもエゴがグングン育っちゃう。エゴが育ちまくって痛い思いをするのはその人自身ですから。
「老人介護の場で一番嫌われるのは現役時代に地位があった人」というのは、定番です。こういう人たちは、出世したがゆえに叱られる機会が少なく、エゴまみれになっている。そんな自分自身を謙虚に振り返ることができないのです。ザ・老害。
私がたまにお年寄りに接していて感じるのは「もんのすごい淋しいんだなぁ~」ということです。だって、長生きすればするほど、同年代の人がいなくなっていくんですよ。話が通じなくなっていくんですよ。あの時代の空気を知っている人がいなくなっていくのですよ。
その孤独によって、老害化しちゃうのは本当に簡単なことだと思います。さびしくて承認欲求モリモリになって若者ディスしたくなっても仕方のないことなのかもしれない。
やはり、上手く枯れていく方法をちゃんと模索しておかねばなあと思います。実るほど頭を垂れる稲穂かな。
私は枯れるぞ。自然のように。
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