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2018-02-17

魂の道を行こう、それが生の道だから。

最近、ふと二十歳くらいの頃のことを思い出しました。

ウェーイ

夏休み。地元の友達(同中の仲良いメンバー)と街に出て飲んで、終電を逃しました。
2時くらいまではコンビニでビール買って公園でブラブラと飲み続けていたのですが、それにも飽きて。

「ねえ、もう帰ろう」
「帰るつったって電車ないじゃん」
「歩けばいいじゃん」
「はああー!!?」
「あ、いいねそれー」
「歩くとか無理だし無い」
「行けるとこまで行けばいいじゃん。路線沿いに行って始発になったら乗ればいいんだし」
「まじか」
「まじっす」
「行くぞー!」
「うわまじかー……」

というかんじで、わたしたちは家に向かって歩き出したのです。

ほのかな熱気を残した夏の夜の空気は、かすかに体にまとわりついてきました。酔っぱらいのおかしなテンションで、私たちはアホみたいに路線沿いをてくてくと歩きだしました。のべ15kmの道のりです。


「わたしたち、まじスタンドバイミーじゃん!?」(体育会系女1テニス部)
「あっ、じゃあわたし、リバーね!」(体育会系女2ソフト部)
「ダーリン♪ダーリン♪ステェ~ン♪バァイミィ~♪」(体育会系女3水泳部)
「女ってなんであんなに元気なの……」(体育会系だからです←結論)
「意味わかんねえよなあのテンション……」

一人は医者になり、一人は主婦になり、一人は社長になり、一人はヤクザになり、そしてひとりは霊媒師(……)になり。
そんな私たちの二十歳の真夜中のスタンド・バイ・ミー。

この思い出が浮かんだとき、私が何を思ったか。
それは
あの頃って生きてるの辛かったよな。

「は!?なにそれ!?ウェイ自慢じゃねーの!?」と思われたそこのあなた。いや違うんですよ。メチャクチャ辛かったんですよ。生きてるの。

常に「なんか違う」って思ってたんです。
なんかダメだし、これは私の生きる人生じゃないし、なんか違う。とにかく、なんか違う。
そんな違和感がすごかったんです。「自分の道を歩めていない」という違和感が。

だけど、上のリア充エピソードを見ていただければわかる通り、わたしは外から見ると「ものすごく恵まれていて幸せな生活を送っている人間」でした。友達もいいヤツばっかでした。上のメンツでも温泉いって枕投げやって雑魚寝とかしてました。セクシャルな関係が入らない男女の友情って最高です。ありがたい。

そして裏返すならば、「性格の良い友達に恵まれたとしても、心の中のむなしさは埋まらない」ということも言えます。友達だろうがパートナーだろうが親だろうが、救えないものは救えない。自分の心の最も深い部分は、自分で救いあげるしかないのです。いわゆる自灯明です。

この内面に抱く「なんか違う」は、どれだけ親しい人にも理解されなかった。大人に話したって「若いからだよ」の一言で済まされてしまうような、軽いありがちなモラトリアムの悩みとしか受け取ってもらえなかった。

姉さん。
信じて下さい。
僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです。快楽のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。

若い頃の私は、この斜陽の主人公の弟、典型的バカボンの独白に「わっ、わかるー!!」とメチャクチャ共感したことでしょう。

周りに合わせて「ふつう」であるようにふるまっても、心は虚しかったのです。満たされなかった。
なぜなら、私は自分の内なる声に背いていたから。魂の道を、見失っていたから。

マンガ凪のお暇では、主人公が「ちゃんとした家の一員」に憧れるシーンが出てきます。

【画像】凪のお暇 3凪のお暇 1

わあっ、私の育った家みたぁ~い★やーめーとーきー。
マンガ内では「理想的に見える家庭の闇」も語られています。そうなんです、こういうとこって家族っていうより「家」レベルで闇深いから。背負うカルマが重いから。

わたしが「家の業」をはじめて感じたのは、幼稚園児の頃でした。
曾祖母の葬式。ものすごく恐ろしかった。お寺に立派な祭壇作って、お坊さんが何人も来るお葬式。
本当に怖かった。何が怖かったって、大人たちの業にまみれたエネルギーが。

別に大人たちはなんの意地悪もなく私を虐待したわけでもなかったのですが、もうエネルギー(オーラ)だけで圧倒されました。私にとって大きなトラウマになりました。「家」って怖いって。死者が怖いんじゃないんです。親族(の心)が怖い。

最近は「相続で争族になる」なんて言いますが、あの人たちは本当に争族だった。子どもだから何言ってるかなんてわからない。でも、表向きの顔と、心で思ってることが、全然違うのは観えてしまう。場のエネルギーは、ドロッドロ。

怖い。葬式、怖い。
家、怖い。きたない。
みんなニコニコしてる。嘘つきばっかり!

私は望まれていました。「ふつう」であることを。
ふつうに結婚し、ふつうに子を産み、ふつうに親族の一員であることを。
そんな人生、まっぴらゴメン! そんなの、私の魂の道じゃない!!

母がわたしにハイスペ男との見合いを望んだ時、「冗談じゃない」と思いました。
だって、ハイスペ男と結婚したら、お母さんみたいになっちゃう。私は、まさしくこの「家」にふさわしい人間になってしまう。お母さんみたいなVERY妻人生になってしまう(絶望)この世界から抜け出せないなんて、そんなの絶対に嫌っ!!


将来を約束され何不自由ない生活をしていた王子、ゴウタマ・シッダールタだって妻も子も家も財も地位も、全部捨てて出奔したんです。ブッダとして悟りを得るための道を、渇望したんです。
それくらい「魂の道にのっていない」ということは、苦しいことなんです。裕福な生活をしたって、満たされないのです。

いくらリアルが充実していてウェイでインスタ映えしてたって、全然意味ないんです。生きてる感じしないんです。広告代理店のいうこと間に受けて流行に乗ったって、人生は満たされないんです!!!

若い頃を思うと、どれだけキラキラ輝いているように見えたって「苦しかった」としか思えません。どれだけ物質的に恵まれていたって、私は内なる声を無視しつづけていたから。いつも心をノックされていたのに「ふつう」であろうとしていたから。

魂の道を行っていれば、満たされるんです。
世間がどう思おうと、「ふつう」から外れていても。
私は今、満たされています。なぜなら、自分の道を行っているから。

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