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精神世界:スピリチュアルブログ

スピリチュアルなことを表現するのに、日本語は適しています。
その理由の一つは、時制がゆるっゆるの言語だからです。

高次の時間感覚に近い日本語の時制

私たちは普段、三次元の直線的な時間感覚で生きています。
過去→現在→未来という単調で不可逆なものだと思っています。「覆水盆に返らず」「後悔先に立たず」の世界です。

だけど、高次の世界の時間感覚はもっと自由です。
時間と空間の座標は(波長の合う範囲内において)自分の意思で決めることができます。

そういった高次の時間感覚を持つ文明は、昔ならば結構あったのではないでしょうか。
例えば、南米、アマゾンの奥地アモンダワに住む人々は、時間に関する抽象的な概念がないそうです。

研究者は、「時間」というものが「彼らの認知の限界を超えている」わけでは全くなく、「日常において必要ない」という方が正しいと言います。

これは昔の日本人の「文字を持たない人」の時間感覚と似ているのではないか、と思います。

文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならないことは誠実にはたし、また隣人を愛し、どこか底抜けの明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。とにかく話をしても、一緒に何かをしていても、区切のつくという事がすくなかった。「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。女の方から「飯だ」と言えば「そうか」と言って食い、日が暮れれば「暗うなった」という程度である。ただ朝だけはめっぽうに早い。

ところが文字を知っているものはよく時計を見る。「今何時か」ときく。昼になれば台所へも声をかけて見る。すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし、どこか時間にしばられた生活がはじまったている。

忘れられた日本人P270(赤文字はこちらで強調)

この時間感覚のゆるさというのが、日本語は、神を語る言葉であるに書いた通り、スピリチュアルを語りやすい言語たらしめています。だからこそあの高次のぐんにゃりした時間感覚を表現しやすいわけで。
そう、日本語の時制は本当にいいかげんです。未来形?完了形?何それ美味しいの????

英語とか中国語で高次の世界を表現するのとか、マジ地獄ですよ。スパーン!スパーン!って切るから。シンプル!伝わりやすい!さすが多民族向き!!


あっ、でも表現は豊かでもフラ語とかスペイン語みたいな英語よりも時制ガッチリしてる言葉のほうが厳しいかも。時制とか指示語が厳密な言葉ほどつらい。「フワッ」てできなくて辛い。「フワッ」こそがキモなのに!!

韓国語は時制もシンプルだし擬音語・擬態語が多いのでかなりイケると思います。フィンランド語も土臭い表現力あるし時制で未来形もないからいいかもしらん。
でもやっぱ日本語ですよ。日本語は高次の感覚を伝えやすい類まれな言語ですよ。

言語が国民性を作ると言いますが、日本語に未来形が無いように、日本人の歴史観にもこの「時間感覚」の独特さは現れています。

日本の伝統的な歴史観は、始まりもなく終わりもないのです。西田幾多郎ふうにいえば「永遠のいま」という歴史観です。(中略)
つまり、いまのなかに永遠が存在する、という考え方です。

これって、まんま高次の時間感覚じゃないですか。過去は今で、今は未来。過去も未来もない。今に全てがある。

スピリチュアルな探求をするなら、日本語という言語を大切にしてほしいのですよね。
このダラダラダラダラしてて非常に読みにくい言語を。昔は句読点すらなかったという。鬼だ。

だけど、最近日本語がアメリカナイズされてきてる気がするのですよ。最近じゃないのかもしれませんが。ここ50年くらいでそうなってるのかもしれませんが。
変な横文字(和製英語)だけならまだしも、文法的に英語に浸食されている気がするんです。

私が村上春樹を嫌いなのって、「英語くさい日本語を使う」ってのがあるのかもしれん。村上春樹を手に取ると思う「何スカしてんだよコラ気取ってんじゃねえ」ってイラつきの「スカしてる」の部分は、日本語が英語くさいからなのでは、と。

例えば、「友達をもつ」。
この表現に違和感の無い人って、多いのではないでしょうか。
だけど、本来「友達がいる」なんですよね。「家族を持つ」ではなく「家族がいる」、「熱を持つ」ではなく「熱がある」。

日本語では所有が行為として具体的でない限り「誰々に何々がある(いる)」というのが普通であり、中国語(上記)やロシア語などでも同様の表現が普通である。逆にフランス語やドイツ語では所有的表現を存在表現に転用したということができる。

他には、代名詞の多用。英語を習い始めた時、すごい代名詞使いまくるなって思いませんでした?
「田中さんは、絵を描きました。はその後散歩に出かけました。は犬と一緒に歩きました」みたいな。名前(固有名詞)を使うのは一回目だけなんです。
日本語だったら、ずーっと「田中さん」言い続けるか、主語を省く。「彼は」という表現はあまり使わない。

だけど、今の日本語は英語みたいに代名詞をガンガン使う。わかる状態ならば、できうる限り主語を省くのが日本語において野暮ったくならない表現のコツなのに、まるで英語のように「彼が」「彼女が」「それが」と書いてしまう。
もしくは「私の人生」とか「私の本」とか、つけんでも通じるであろうところで「私の」という所有格を付ける。英語じゃんそれ!「私は私のかばんを開けて見ました」とか、いわんでもええやろ!くどい!紫式部も泣いてるわ!(でもアンタは省略しすぎじゃろーもっと補足してくれー与謝野先生に聞かんとわからんわー)

この「言わなくても通じることはできうる限り省く」っていうのが、実に日本的だと思うのですね。禅や茶道にも通じる、無駄をそぎ落とした美しさ。

せっかく日本語は素晴らしい特色ある言語なのだから、アメリカナイズされないで日本語らしい日本語を使っていきたいものです。と、自戒もこめて書きとめた次第でございます。
日本語らしい日本語であったほうが、やはりスピリチュアルなメッセージには適しているので。英語はイカン。ビジネスにはいいけど。

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だけど、本来はもっと自由にぐにゃぐにゃしているものなのです。時間も空間も。それをわかっていたのが、昔の日本人の「文字を持たない人」。だから、彼らは容易に神秘とつながることができた。

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