私にとって、実の父というのは全く理解しがたい人種でした。
別の生き物のように、話の通じない人でした。
何か要望を通そうと思うならば、理詰めで「だから私は正しいのである!!」ということを嫌と言うほど整然と並べ立てねばなりませんでした。
ミリオタになったのは、多分ここに由来しています。私はミリオタと言っても兵器萌えではありません。興味は常に戦略にあります。策を練り、相手に効果的な攻撃は何かを見極め行動する。日ごろから冷徹なるストラテジストであらねば、父に対処できなかったのです。
心を開いて気持ちを素直にぶつけるなど、何の意味もない。感情に価値はない。
私的な感情を挟もうものならば、父には全く理解してもらえないのです。もちろん、「気持ちに寄り添う」なんて高等なる芸当は、彼には不可能でした。
権力に非常に従順で、ものすごく国というものを信頼している人でした。
彼は公務員だったので、ある意味ではあるべき姿、公僕の鑑です。
ですが、私にとってはそんな彼の姿勢が全くの意味不明でした。
国がいつも正しいわけがないじゃないか、と。
人は必ず過ちを犯す。その人間が運営している国家が過ちを犯さぬわけはない。
少し考えれば小学生でもわかりそうなのに、父にその理屈は全く通用しないわけです。
彼はものすごく国家に従順だったのです。
そうプログラミングされたロボットのように。
父の弟・叔父は、「息子を皇太子様のご学友にしたい」という祖父の希望で学習院に入れられました。でも、叔父は学習院大卒業後、何の地縁もない関西に就職し、そのまま疎遠になりました。親の意向で学校を決められて、レールに乗せられて生きるのに辟易したのだと思います。
叔父は、父とは違ったのです。ロボットじゃなかった。
でも、父はロボットだった。
権力に従うロボットだった。
「父がもし同級生だったら」とシミュレーションしてみると、彼は「スクールカースト低めのリーダーシップのない大人しい優等生」というポジションになります。成績はそれなりにいいから底辺ではないものの、目立たない。
そこで、その「同級生になった父」と私は仲良くなるかというと、当然全くならない。3年間同じクラスでも「消しゴム落ちたから拾って」くらいしか話したことがないレベルになるでしょう。友達にはならないし、ましてや恋になんて絶対落ちない……。
(この「同級生」シミュレーションは、自分の親を客観的に眺めるのにとても優れた手段です。親に関して複雑な気持ちがある方は是非一度やってみてください)
父は「ふつう」にしたら、全然関わらないタイプの人間なのです。
たまたま親だったから、関わらざるを得なかっただけ。自らがセレクトできる人間関係(友人など)だったら、選ばないタイプの人間。そもそも興味自体がわかない。
そう、父には「人間的魅力」というものがスポンと欠落していました。愛着を持てるような、心の温かみみたいなものは、彼には見事になかったのです。俗な言い方をするなら「愛され力がない」。
だからか、彼は完璧に母と私たち娘のATMでした。父の稼ぎで建てた家だというのに、父が帰って来ると私たち姉妹は嫌な気分になったものです。
休日はこんな感じ。「えーお父さん、今日家にいるのォ~?ヤダー!」
ものすごく哀れです。
なんで結婚したんだか。
出世と世間体のためだろうけど。
「食わせてもらってるんだから感謝すべき」とは頭でわかっていても、全くそうは思えなかったのです。
なぜなら、父は感情の見えないロボットだったから。得体のしれない生き物だったから。
ウィーン、ウィーン。
「ワタシハ偉イ人ニ従イマス。偉イ人ノイウコトハ正シイノデス!」
権力に従順であるということは、逆から見ると弱者に対して威圧的ということにもなります。
団塊の世代にもかかわらず、彼は全く学生運動の匂いがしない人でした。朝日新聞を読んでいたのが、何かのジョークに見えるくらい。
彼は言いました。「お前は組合になんか入るなよ。組合の奴らってのは全くもって、ろくでもない」
こう書くと、父はロボットのように仕事ばかりしていたかのように見えるかもしれません。が、父にはまた、様々な趣味もありました。ヨットに乗り、ゴルフをし、ランドクルーザーに飼い犬のゴールデンレトリバーを乗せて川へカヌーに乗りに行く人でした。庭の一角に温室を作ってランの栽培をし、品評会になども出していました。
「なんだよ!カッコイイオヤジじゃねえか!」という印象を持ったかもしれません。
だけど、その趣味も「誰カ偉イ人」のコピーなのです。石原裕次郎のモノマネにすぎないのです。クラシックを聴くのだって、「モーツアルトが流行ってるから」なのです。ベルリンフィルは名声あるオーケストラだから聴きに行くだけで、深く聴きこもうとはしない。
「定年後に趣味がないといけないから今から社交ダンスを習いなさい」と母に言われたら、素直に社交ダンスを始める。「シャルウィダンス」を観る。
なんか、見事に「空っぽ」なのです。
知識があっても、感性はない。
魂のきらめきが、ない。
近しい人間が、ロボットのようで魂が宿っていない感じがするのは、ものすごく得体のしれない不気味さがあるものです。
なんか、気持ちが悪いのです。例えば、「笑顔だったとしても、全然笑ってないような感じ」というか。人間として、生きていない。魂の宿らぬ、人形がいるみたい。
「なぜこのようなロボット人間が形成されるのだ?」
そんな疑問に対して、ある日、一つの気付きが降りてきました。
祖母の言葉です。
「誰でもいいから、自分より偉い人のいうことをききなさい」
祖母は、孫の私に良くこういっていたのです。だから「お父さんとお母さんのいうことをきかなきゃならないよ」と。祖母は孫の味方にはなってくれませんでした。孫は子どもで権力が無いので偉くないからです。
そこか!と合点がいきました。
多分、祖母は自分の息子たちにも同じく言い聞かせていたのでしょう。「誰でもいいから、自分より偉い人のいうことをききなさい」と。
万感の軽蔑に値すべき「権力の犬」たる父は、母親の言いつけを素直に守る、実に真面目な長男だったのです。
だから、愛されないATMロボットになったのです。
祖母は土地持ちの家の娘で、昔はたいそう羽振りが良かったらしいのですが、昭和はじめの恐慌で家は没落してしまい財産も手放したそうです。そして戦争という苦難の時代を生きた。そこから導き出された処世訓が「誰でもいいから、自分より偉い人のいうことをきく」だったのでしょう。
でも、たぶん同じ処世訓を聞かされていたであろう叔父は、独身を貫き自由人でプラプラ生きる道をたどりました。ロボットが生まれるには、親の教育+個人の性格という二重のファクターが必要なものと思われます。
とりあえず、これからもロボットとは関わりたくないものです。
感情が死んでいる人間は、生き物として気持ちが悪いです。
目が死んでちゃ、アカン……。