あとに残された人へ
『1000の風』
訳 南風椎私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。私は1000の風になって
吹きぬけています。私はダイヤモンドのように
雪の上で輝いています。私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。秋には
やさしい雨になります。朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。夜は星になり、
私は、そっと光っています。どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。私は死んでいないのです。
おもっくそ墓批判から入りましたが、皆様、盆の墓参りにはいかれましたでしょうか?
私はもちろん行ってませ~ん。え?先祖が祟る?祟りませんて。ないない。
今は墓参りしないどころか、墓自体の存在を無くしてしまう「墓じまい」こそがトレンド。実に、仁義なき少子化社会。無常やな~。

私はお墓は生きてる人のためにあるにも書いた通り、前から「お墓ってくだらないなー」というスタンスでした。1000の風じゃないけど、墓を後生大事に守るって考えが、そもそも根本的に理解できなかったのです。え、それ、全然意味ねえじゃん?っていう。
もちろんそんなスタンスでいても、ご先祖様から呪われたことも祟られたこともございません。つか、見守ってくれてるっつうなら墓くらいでどうこう言わんだろうよ。愛のレベルが高い素晴らしき尊敬すべきご先祖様なら、「お墓なんて気にしなくていいよ!」っていうに決まってるよ。「墓を大事にしなきゃ祟るぞ!」なんていう愛のレベルの低い先祖だったら、こっちから願い下げじゃい。そんな存在に敬意を払う必要があんの?無いじゃろ~。
だけど、古い考えの人は今だに「お墓が!ご先祖様が!」って言うてる。
なんで?
なんでそんな下らないことにこだわるのん?意味わかんない。
そんな私の謎を、解き明かしてくれた本がありました。
赤松啓介著、差別の民俗学です。
昔の村社会では、墓というのはその家の格式をメッチャわかりやすく示すものだったそうなのです。その村によって形式はまちまちですが、上の階層の人間は立派な墓を持つことが許され、下の階層の人間は粗末な墓(ただの丸い石とか)しか持つことができなかった。
「ウチの階層はこれです!ウチは良い血筋で優れた家です!!」っていうアピールをするために、墓は大事だったんです。結婚をするときに、墓を調べて戒名を調べれば、相手の家の格式はいっぺんにわかってしまうという。
だから、墓が荒れているなんて、とんでもないことだったのです! 娘息子に、ふさわしい家との縁談をまとめるためにも、墓はきちんとしなければならない!
墓はできうる限り(その集落での自分の階級の中だと許される範囲で)立派に作らねばならないと。そして、その墓を守らねば、その集落での階級を示せなくなると。
……………んあああああー。くだらねー。
と、現代人の思考では思いますが、昔の村社会の人間にとっては、しかるべき墓を継いでいくのは非常に大切で意味のあることだったのです。その集落の一員としての使命でもあったのです。
とある九州の古い家の男性がこんなことを言っていました。
「俺は本家の長男だから、結婚式の祝儀は誰よりも多く包まねばならない」
な… 何を言っているのか わからねーと思うが
おれも どういうことなのか わからなかった…
でも、そういう風習も「昔は」合理的だったのです。本家の人間こそが「上」で分家の人間は「下」。何かあったら本家の人間が面倒を見る。分家はめんどくさくなくて気楽だけど、格下で権力がない。
そんな風に、昔はね、墓も必要だったんだよ。村落共同体を維持するためのシステムの一部だったんだよ。だから、昔の人にとっては、墓というものは絶対的に守らねばならぬものだったのだよ。それが自分の地位や生活に直接かかわることだったんだよ。リアルで生活にかかわるなら、そりゃ「守らなきゃ!」って思うよね。
だけど、今の現代社会では、もう変わってしまっている。
墓が無くても、生活は困らない。むしろ「墓を守ることの必要性」と「普段の自分の生活」がミッシングリンクよろしく、全くつながらない。
この説明でイマイチ納得いかない人は、差別の民俗学を読んでみてください。詳しく書かれています。
とにかく、今の社会システムにおいては、墓というものはあんまり気にしなくて良いものになってしまったのです。「クラブかよ」って雰囲気の納骨堂が出てきちゃっても、それも時代の要請でしょう。
【参考】2046体の光り輝くLED仏、新宿のハイテク納骨堂が海外でも話題|ギズモード・ジャパン

お墓は生きてる人のためにあるにも書いた通り、生きてる人の好きにすれば良いのです。昔の、生活に密着した墓ではないのだから。
社会的に墓を守らねばならぬ理由は、昔はあった。そして、今はないのです。
我々が内的に依存しているとき、伝統は我々に大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線にそって考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、我々は凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。
— Krishnamurti (@krishnamurtibot) 2017年9月7日
ではではッ、私は海に戻ります(キリッ
ただいまジブラルタルを抜け、ドーバー海峡沖海戦準備中です。こ、これぞナイスドーヴァー…?(混ぜるな危険)提督の皆様、ご武運を!!
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