男女関係の家

訳者(Nozomi)注:これは The House of Relationship by Tom Kenyonの日本語訳です。
トム・ケニオンのチャネリングメッセージについては著書ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ―ハトホルからのメッセージをご覧ください。


いくつかの点で、関係とは家のようなものです。
たくさんの部屋があり、それぞれの部屋は独自の世界の景色があります。
ある部屋には、可能性あふれる素晴らしい世界をのぞける大きな窓があります。
こういう部屋で関係のダンスを生きるとき、人生は約束と限界なき潜在力で満ちているように見えます。愛(ロマンスや何か)はこういう部屋で成長できます。

しかし家の中のとある部屋は、れんがの壁に面しています。たいそう暗くて、啓蒙や自己洞察への機会のかすかな光すらありません。時折(または多分頻繁に)つながりの中で自分たちが内なる自分自身に気づくには難しい空間があります。

関係の家の中でこれら不快な空間が最低限言及を要求し、もっとたくさんの注目に値する一方で、この記事の小さい空間の中では私は論をバスルーム(実際はトイレ)の範囲でとどめたく思います。ひどいことが起こったときに何をすべきか、できる限り明確にしたいと思います。

さて、ある人々が聖なる絆は全て素晴らしく快適で幸せな虹のようであると考えているのを知っています。
しかし時には、最も望まないときにトイレはつまり、あたかもコントロールは失われるのです。

これを書くにあたり、友達とロルファー(訳注:ロルフィングのプラクティショナー)を指導していた15年以上前に強烈なる個人の成長において起こった出来事が思い出されます。
それは肉体重視の心理ワークショップで、ロルファーの家に集まっていた1ダースくらいの人がいました。
もし私の言わんとすることがわかるならば、約一時間かそのくらいで、処理すべきたくさんの心理的ウンコがあることが明らかになりました。

その時、家のトイレがつまりました。冗談ではなく。最低な人が流さなかったのかもしれません。
強烈なる二日間、トイレは機能しませんでした。あなたがより理性的でありたいなら、精神的とまどいとイライラするシンクロ、または、偶然の一致と言えばいいかもしれません。
ともかく最後の日、最後の一時間、私たちは全てのトイレから奇妙な音を聞き、突如として便器がゲップしだしました。参加者の一人がそーっと一番近いトイレに歩いていくと、ハッキリした理由もなしに突如としてブツは流れていったのです!
さて、23年間精神療法士としての仕事の中で、私はいくつかの非常に奇妙なシンクロ(偶然の一致)を体験しています。思うにこの出来事は、トップ20にランクインするでしょう。

もし象徴的な視点からトイレの奇妙な事件を見るならば、私たちは本当に自分の排泄物を手放さずにいたのです。そして、もちろん心理学的な話で、手放したときのみ、トイレは解放されました。

関係の家でトイレに起こったことは、時折つまるということでした。つながりの中で人は、こういうトイレが最も都合が悪くて社会的に不適切な時間にたびたびせき止められるということに気づいているかもしれません。

さて、隠喩がマインドを開くという迷宮回廊を愛しているがゆえに、この隠喩についておしゃべりし続けられるかもしれません。でも簡潔にするために、もっと要点をしぼりましょう。
普通トイレ(関係)がつまるということは、古き良き時代遅れの恨みに過ぎないのです。そう、恨みに。

ハニー、なぜ私を困らせるの?

十分に長い関係がある人はほぼ誰でも、多分時々恨みを経験してきているでしょう。
それは単に対人関係の相互作用の領域に関することです。

時には、うらみはほとんどありません。友達やパートナーが、デザートの最後の一口を食べてしまったときみたいに。
私はしばらく前の、レストランの近くのテーブルでの出来事を思い出します。

ウェイターがデザートの注文をとっていて、とある女性がこう言うのを聞きました。
「私にはいらないわ。彼のを一口もらうから」

「出たよ」
彼女の連れが口を滑らしました。
「お前、いっつも一口だけって言うけど、もっとたくさん、結局は俺よりも食べるじゃないか!」

そう、食べ物の恨みがまさにわきあがるのです。
しかし、普通恨みはもっと重要な事柄に集中します。何かすることを約束したり、それを破ったり、パートナーの気持ちを傷つけたりしたとき、といった場合です。

この類の恨みと一般的な恨みは、私が呼ぶに、腐った棚の人生です。ここで私が示しているのは、無意識の恨みが潜在意識に棚上げできるということです。庭でとれた野菜や果物のガラスびんを蓄えられるおばさんの食料庫のひとつみたいに。おばさんが必要とするまでびんはただそこに置かれ、やがて真冬になったら、彼女はイチゴのびんを引っぱりだして、テーブルの上に置くでしょう。

恨みは時に、こんなかんじになります。誰かが自分をイライラさせたり悲しくさせたりするときに見えたり見えなかったりする人間の性質のおかしな癖です。

自分の本当の気持ちをパートナーに表現しなかったとき、特に色々怒っているとき、心理学的に言うところの抑圧された状態になりがちです。
そして少なくともそう思ったとき、パートナーは自分の暗い棚からそれをつかみとって、テーブルの上、まさしく私たちの目の前に置くかもしれません。トイレはつまったのです。

この類の日常的な恨みは人間関係にひびを入れるに十分ですが、もっと知らないうちに忍び寄る別の形の恨みがあります。ある点では、それは無意識ゆえにもっとやっかいです。
家の暗喩に戻って、この恨みは別の部屋からはるか遠い地下室にわだかまりを作ります。
ほとんどの場合、私たちはわだかまりに気づけません。歓迎も予告もなしに、存在がわかっている居間や寝室に押し入ってくるときだけです。それに困らされているだなんて、尚更気づけません。

私が話しているこの恨みとは、一体何なのでしょう?
それは、パートナーがどうあってほしいかどのようにしてほしいかという自分のイメージに、彼らがそわないときに生まれる恨みです。
このことを説明するために、自分の地下室へと降りていく必要があります。そう、われわれの、無意識へ。

階段をたくさん降りていくと眠くなったり何をはじめるためにどうしてきたのか忘れてしまったりする傾向があるため、地下へ降りていくのは簡単ではありません。
なので、実際に穴へと降りていく前に、最善を尽くして、もう少しこの小さな獣のことについてお話したほうがいいでしょう。

内なる両性

ある人には奇妙に聞こえるかもしれませんが、われわれ一人一人は二人です。少なくとも、心理学的表現においては。
そう、ここで私が話していることは、独自の人生を時に生きている人格の側面、別人格として述べているのではありません。どんな方法でも真の自己探求をしている人ならみんな実質的には、自分が一人より多くいるという、むしろ奇妙ともいえる真実をおそらく発見しているのです。複数の自分自身がいて、そのうちいくつかは互いに対をなしているのです。

禁煙を決意したとします。大抵は自分が二人いるかのような心理状態にまもなくなるでしょう。
一人はやめたい、もう一人は吸い続けたい。
もし鮮明に想像するなら、やめたいと思っている一人は心の中の天使のように現れるかもしれません。一方、別の自分は…もうお分かりですね。

別人格は自己変容にとりかかる時に魅惑的な話題で確かに重要であるとはいえ、私が話している小さな獣は魂のもっと深いレベルに生きているのです。
彼と彼女を見つけるために、地下室のもっとも暗いところ(暗闇、この場合は深い無意識を示しています)へ降りていかねばなりません。私が「彼か彼女」ではなく「彼と彼女」といったことに注目してください。この小さな獣は、どちらでもあるからです。

深い原型的で心理的レベルで、私たち一人一人は異常なる対です。精神科医カール・ユングは、アニマとアニムスとしてこの対を呼びました。
アニマは女性的な自分で、アニムスは男性的な自分です。この二つの自分は、生物学的な性別には関係しておらず、むしろ意識の精神的知的な側面です。
従って、全ての男性に内なる男性と女性がいて、全ての女性にも男性的だったり女性的だったりする側面があるのです。

アニマとアニムスの潜在的な形は、普通先天的なスピリチュアルな要素と父母のような最初の関係の組み合わせから生み出されます。あるケースでは、親より強力で重要な人も内面化されうります。強い祖父母か別の子供に近しい人のように。

暗い大がまの中、それが人間心理です。特定のタイプの男性は無意識に組み込まれた内なる男性の側面を象徴する一方で、特定のタイプの女性は無意識に組み込まれた内なる女性の側面を象徴するということは、当然のことです。
これは、外側の男性か女性が、内なるアニマとアニムスに適合するか共鳴する特性や傾向を表わしているためです。
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全てにわたって奇妙なのは、外的世界の人は他人のアニマかアニムスとして動いているということにおそらく気づいていないことです。しかしアニマかアニムスが男性か女性の存在によって活性化されている人には、彼らに引き寄せられたり拒絶したりといった磁石のようなな特色を持つようになるでしょう。そしてこの引力か反発は実在の人に対して起こるわけではなく、アニマかアニムスの内なる心理的な力で起こるのです。

もう少し詳しく説明させてください。それならたぶん、この概念はもう少しわかりやすくなるでしょう。

ボブ(仮名)は妻との間に問題を抱えていたため、私に会いに来ました。
それは三回目の結婚でした。心理学的な領域を探求すると、前の結婚と同様の問題が生じていることがわかりました。
三人の妻全てに、最初は心理的美によってひきつけられました。妻はみんな、金髪でした。
けれど、結婚生活が続くと、彼は苦しめられている、責められている、軽んじられていると感じました。
感情のすれ違いが起こり、彼と妻は必ず知らぬ間に独りになっていました。もちろん、これはボブの立場からの説明でした。

彼の現在の妻カレン(仮名)はボブの行動のネガティブなことをいつでも指摘していたように感じました。床の上に汚れた服を脱ぎっぱなしにする、といったような。彼は怒ったかもしれません。
彼女にとっては、そういうのは当たり前のことのように見えたのです。しかし、ボブにとってはひどく煽られ厳しく責められ男であることそのものを踏みにじられる行為でした。

ボブの母親は、(カレンや前の二人の妻のような)金髪だったことが判明しました。母親も肉体的に美しく、実際に美の女王でした。しかし、彼らの関係には有毒な要素がありました。
母親は男性を憎悪し、一通りの男性に対して、特にボブの父親に対しての嫌悪を口にしました。
これがボブを、板ばさみと呼ばれる事態に追い込みました。言い換えるなら、犯されたのです。
彼はいつかは大人の男性になる、すなわち母親の怒りの矛先になるであろうことを意味する少年でした。けれど、母のターゲットになるために大人になるのを待つ必要はありませんでした。母は常にボブを非難して、最もどうでもいいようなことで彼をけなしたのです。
原因は、母親の批判を内在化したことによるものでした。本来ならば直観と内なる結びつきの源になるべきであったはずの彼のアニマは、毒されていたのです。
彼女(ボブのアニマ)は母親の激しい憎しみを保持していました。ボブはこれに気づかなかったがゆえに、内なる女性のネガティブさを変容するという精神的で霊的な課題に着手しませんでした。代わりに、外側に投影されたのです。

ボブが女性と関係を持ったときには、無意識の期待がありました。恋に落ちたこの美しい女神は、自分を救ってくれるであろうと。自分と成長してきた毒々しい母親にはならないであろうと。自分が切に求めていた、全てを愛してくれて全てを包んでくれる女性であろうと。
残念なことに、彼の心理的な予定表はほとんど実現しませんでした。彼の心の中では全てを愛してくれるはずの女性は結局、批判的なガミガミ女へと変わりました。
実際、ボブは馬鹿のように振る舞い、パートナーからの批判的なコメントをもたらす行動への責任を取りませんでした。
苦い皮肉であるのは、妻たちがボブの男らしさに疑問を持たなかったし、彼の人生を批判もしなかったということです。彼女らはただ単に、洗濯物を拾ってほしいと望んだだけだったのです!

これは、意識されていないアニマかアニムスがどうやって関係を混乱させられるか、という一つの小さな例です。
ちなみに、同様の原理が女性の男性関係においても当てはまります。
父と娘の関係のバランスが崩れていたならば、その女性は完璧な男性原型を投影している自分に気がつくかもしれません。付き合っている現実の男性に、輝く鎧の騎士、全知の神(男)、もしくは別のタイプの似たような馬鹿馬鹿しいたわごとを。
もし父親が彼女を非難していたならば、パートナーから見下され批判されているように思うでしょう。極端な場合、何の権利も無いように感じるでしょう。男性が望み求めることこそが最も重要なことと思い、自分の気持ちに影を落とすのです。
遺憾なことに、この信念は今日の人類の大部分に真実であると実際に考えられています。

異性の関係になったとたん、母親や父親との未解決の課題が同様に性の関係に影響を及ぼします。過程は非常に似ています。私が前に述べたように、アニマとアニムスは生物学的な性別ではなく、人間意識の宇宙的な側面と関係しているからです。
心理的投影も、それゆえ異性関係の範囲に限らないのです。同性関係でも同様の過程の餌食になりうります。

いくつかの例で、同性のパートナーへ無意識のアニマかアニムスを実際に投影していることに気づいたゲイの人を知っています。
たとえば、ある男性は男への魅力を誤解しているのかもしれません。それは結局は性的なものではなく、むしろ心理的なものかもしれないのです。彼は無意識のアニムスを投影しているかもしれず、過去の父親による感情の空虚感を満たそうとしているのかもしれません。
全く同じことが同様に、女性にとっても起こりうります。
ここではっきりさせておきますが、私は同性愛関係全てがこういう心理学的投影の結果であると申し上げているわけではありません。ただ、いくつかはそうであると言っているのです。

ユングの研究で、はじめの課題の一つはアニマとアニムスに平等の地位をもたらすことです。両方の生来の能力が、バランスの取れた心の生活をおくるという課題に使えるからです。

だから何、とあなたはいうかもしれません。この全てがプライベートな人間関係に関係があるの、と。実際ものすごくあります。
私たちに誰かをひきつけるものは何なのでしょう?
個人の趣味と性格は疑いも無く役割を演じ、アニマとアニムスの見えない力を働かせているのです。

ある男性は、自分の外側の誰かへとアニマからの特徴を投影するため、特定の性質の女性に引き寄せられることに気づくかもしれません。これはしばしば、自分の女性的側面を受け入れられないためで、それゆえに外側にそれを探すために駆り立てられるのです。たとえて言うなら、こういう特徴がある女性の存在があることで、自分自身を完全にするために。

彼は、依存や母親(もしくは子供時代における中心的な女性人物)とのネガティブな関係 によってできた、自分の中にある心の隙間を満たそうともするかもしれません。
この場合、関係を持つ女性からの生命力とインスピレーションに無意識で引き寄せられるかもしれません。そういう女性なしでは生きてはいけないと、心理的に信じているからです。
この類の関係は、投影されると両者にとって本質的な挫折をさせられるのでパートナーを消耗させます。こういった心の隙間や欲求は他人には満たせないからです。
これは、不可能かつ非常に困難な課題です。

似たような過程が時には、男性へひきつけられる女性に見られます。
女性はたやすく自分のアニムスを男性人物へと投影し、関係を熱望することがありうります。不幸なことに、投影が十分に強かったならば、自分の投影と恋に落ちて実際の男性の性格を見落とすかもしれません。
ある女性は関係を持ちたい人の可能性を「見る」ために、パートナーの行動が実際には危険な信号を出しているのを都合よく無視すると同時に、ふさわしくない人に深入りしてしまいます。
潜在的に人は真の満たされた関係を作ることはできないということを、このような人が明確に理解することはきわめて重大だと思います。
アニムスの投影に恋した女性は、男性が幻のようになることに気づくかもしれません。不可解で多分魅力的で、だけど実体を持たないような。

ユングと錬金術的な両方の視点から、最も難しく重要な課題の一つは、心理的投影のプロセスをやめることと、関係の家へと私たちを連れ戻すアニマとアニムスへの個人的な責任を取ることです。
時に私たちは、アッといわせるようなこういう明快さでパートナーを理解します。
しかしながら時には、自分の投影の催眠的霧を通してパートナーを理解することはほぼありません。

こういう霧は普通、心理的に苦しんだり恐れたり脅されたときにわいてきます。
もしパートナーの行動がどんなやり方であれ、幼い子供時代の人間関係を思い出させる行動や態度に似ていたら、無意識たる地下は心理的投影の出現をもたらしています。

この大騒ぎの全てを引き起こすと、投影による催眠効果とその時の現実の心理的なミスマッチによるショックを受けます。
少しの間、ボブとカレンの話に戻りましょう。

カレンがボブに洗濯物を拾ってと頼んだとき、彼女としてはとても簡単で当たり前のことを言っただけでした。しかしボブにとっては、その脚本はきわめて難しかったのです。
カレンに結婚してくれるかたずねたとき、彼はカレン自身に言ってはいませんでした。カレンに投影した、全てを愛してくれる女神に言っていたのです。
実際のカレンは、霧の中で、ボブの投影によるロマンティックな妄想の世界の中で戸惑いました。
ボブの面目のために言いますが、カレンのある側面を見て真に誠実でよい人だと本当に評価したのだと思います。しかし、そこにはたくさんの投影が織り込まれていました。従って、舞台は悲劇の第三幕を仕掛けられたのです。

お分かりのとおり、現実に日々の生活を過ごすなりゆきで、カレンはちょっとだけ彼の一幕を浄化するためボブの必要なことを指摘しただけなのです。しかし、彼はカレンの言葉を批判的でこき下ろすようなものと内面化したのです。こういう瞬間、カレンの言葉で「おかしくなった」とき、彼はもはや妻を見てはいなかったのです。彼は、自分の母親を見ていたのです。
言い換えると、母親が子供として彼の存在へと投影した恨みは、カレンとの関係を汚染していたのです。

ボブのアニマは混乱し、有毒な内なる母親を救い出せば、彼とアニマもしくは妻をこの束縛からほぼ解放したでしょう。

彼のセラピーの一部として、私たちは総合心理療法と呼ばれる深い変容のイメージを通して、アニマとアニムス両方とワークしはじめました。

内なるイメージと霊的な光の使用を通して、こういうワークは心理的な力の矛盾に対処するのに非常に効果的です。

けれど、ワークが内的世界を扱う一方で、ボブは同様に外側の現実を扱う必要がありました。すなわち、カレンとの関係のエネルギーを。
最初に、家の周りで自分自身を追って拾い上げることをはじめねばなりませんでした。これは単なる基礎的な人間関係の要素です。そしてボブがある領域では非常に賢く、別のところでは本当におろかであれたことは私を驚かせました。
しかし、感情的な要素について見るときに、こういうことはよくあります。

話題に上げていますので、ボブが自分と妻の間の問題を解決するために、思考と感情の内なる世界と外側の世界(自分の行動)両方に働きかけた事実にふれたいと思います。
もし自分を真に変容させたいと望むならば、最低内側と外側と両方のワークが必要です。
ただ考えているだけではいけません。
実際にそれについて何かをしなくてはなりません。

ボブとカレンは他者を責めることなく、分別の無い行動へギリギリに踏み出すことなしに、互いにコミュニケーションをとるという新戦略を学びました。
言葉ではつまらないかもしれませんが癒しのこの部分は、内なるプライベートな関係の中でいくつかの基本的な原則を受け入れることによって大いに促進されるのです。

この記事の目的は、これらの原理を再調査していくことではありません。けれど、もしコミュニケーションでパートナーともがいているならば、ハーヴィル・ヘンドリクスの本、100万人が癒された愛と結婚のカタチ(原書:Getting the Love You Want)を読むといいかもしれません。
ヘンドリックスの本はCommunications 101のような入門書で、そのシンプルさはある人にとっては興味がわかないものかもしれません。しかし私は常に、基本をおさらいすることこそ大事であると申しましょう。特にあなたが初歩的なこういうことを学んでいなかったならば。

悲しい事実は、大多数の人がこれらの基礎技能に欠けており、それなしでは人間関係が心の源泉や感情的で霊的な滋養になりうるものへと進展するという希望をほとんど持てないことです。それよりも、ほとんどの関係がテレビの昼ドラの一つみたいに堕落してしまうようです。
思うに、互いにどのように話して聞けばいいのかほんの基礎的な知識を持つだけで、このような運命から多くの関係が救われることができるのではないでしょうか。

希望と絶望のキッチン

関係の家のどこかには、キッチンがあります。もちろん、私たちを生かす食物を用意しているのがここです。
自分のオフィスにキッチンがあるニューヨークの精神科医を、私は知っています。セラピーセッションのあと、患者をキッチンへ連れて行き、何年もかけて完成させた秘密のレシピで作ったお手製のスープを飲ませるのです。愛と気づきと共に用意された物質的な食物をとれば精神療法はもっと効果的になると、彼は固く信じていました。

関係のキッチンでスープを作る材料はどのようにお互い話すか、どのようにふれあうか、どのように互いのためになったりならなかったりする無数の小さなことをやっていくかという方法です。

他者と共に生きるとき、私たちは毎日このスープを飲んでいます。
他者と共に経験する感情と思考形態は、食べものが栄養物になるのと全く同じく、肉体的衝動の一部として代謝されるのです。関係における感情の調子も私たちを向上させたり、退屈させたり、落ち込ませたりします。
したがって人生の光景と私たち自身は、日常的な基盤で情緒的に摂取している希望か絶望によって、直接的に影響を及ぼされています。

男 対 女

私は数ヶ月前、あるバンパーのステッカーを見ました。

それはWomen Are from Venus, Men Are Idiots(女は美の女神によるもの、男はバカ)を読んでいるというものでした。

このブルーのバンの持ち主は男性の伴侶とこの車を使っているのだなと、私は想像しました。
実際、もし全くの生物学的理由以上のものが無いとしたら、男女関係とは難しくなりうります。脳は異なる働きをし、ホルモンも違います。根本的に違う方法で世界を見て、経験しているということを、この全ては示しています。
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最近の民族生物学者テレンス・マッケナはかつて、テストステロン(男性ホルモン)は実に単純なる三つの疑問を持つといいました。
男が新しい人と出会ったとき、彼の生物学的本能はこうたずねるのです。
「ヤれるか?ヤれねえなら食えるか?食えねえなら殺れるか?」

疑いなく、全ての男性がこの生態的思考をするわけではないので、これは過度に単純化されているといわざるを得ないでしょう。加えて、多くの男性ができる限り多くの女性を受精させるという根深い欲望があるようにもみえます。
一般的に共に家庭を作る男性一人を見つけたいと望む女性とは、際立った対比をみせているのです。少なくとも生物学者によれば、全ては進化のルーツにさかのぼって考えられるのです。

男女関係にある男性と女性にとって大切なのは、相手のすることや極めて異なる世界を現実に経験しているというのを、理解することだと思います。
奇妙ではありますが多くのこういった違いは、独自の生物学に根ざしているのです。

さて、氏と育ちの問題ということになると、いくつかの男と女の間の差異はむしろあいまいになります。言い換えると、どのくらいの差異が生物学的なもので、どのくらいが社会化されたふるまいによるのか、ということです。
ちょっと、まだ判断しかねますが、児童心理学者はある興味深い考察を示しています。

言葉が話せずほとんど社会化されていないであろう2歳以下の男児と女児のグループが、アニメを見るためにテレビの前に座らされました。
子供たちにははっきりした理由なしに、アニメは止められ、スクリーンは真っ黒になりました。女児はよちよちあるくかハイハイでテレビへ近づいて動かそうとして、うまくいきませんでした。大体の場合、女児は泣きはじめました。

けれど、男児がテレビのほうに行って動かすのに失敗したときは、叩いたり蹴ったりしはじめたのです。
私たちがストレスに対処する方法について、生来の性別間の違いがあることを示しているでしょう。

どのように脳が情報を処理するかという方法に根本的な違いがあります。
平均的な女性(それが何であれ)は平均的な男性(それが何であれ)よりも約23パーセント多く脳梁内の連結があると、ある神経科医は見積もっています。このことが示すことは、女性は脳の二つの半球間のコミュニケーション経路の解放がより進んでいる傾向にあるということです。要するに、女性は言語を通して気持ちを通わせることにおいて(一般的な)男性より優れた能力があるということです。

しかしながら、いくつかの男女間の違いは、社会化の結果であると考えます。
私の末っ子が7歳で、カヌーをこぎに行ったときの何年の前の夏の午後を思い出します。波止場に戻って降りたとき、息子は落ちてドタンッと手すりに足をぶつけました。足をつかんで痛みに顔をしかめました。強烈な痛みで目から涙が少しこぼれ落ちましたが、声は出しませんでした。見るに痛々しかった。
私は息子に「男の子は泣いてはならない」と言ったことは無かったにもかかわらず、どこかで明らかに聞き覚えていたのです。

男性の間には、暗黙の男の掟があります。泣かないことと弱みを見せないことは、確かに重要な掟です。
でも、気持ちや弱みを明かすことが男性にとって先天的に気が進まないことは、男女関係において問題になります。一般論で言うと女性には、結びつきをもっと緊密にしようとする傾向があるからです。気持ちと時々わいてくる感情的な弱みをわかちあうことが、つながりを確認する大切な印なのです。
一方で男性は、より自主性を重んじ、感情的な弱みを極めて脅威に感じうる傾向があります。男の人生経験は、このような事柄にかかっているのです。

男性は感情よりも思考をより重んじる、、女性が思考より感情を重んじるといわれるのは確かに過度な単純化である一方で、いくらかは正しいのです。どの程度かは、わかりませんけれど。精神療法士として、男性のパートナーが、感じることを拒んだりできなかったりすると怒り出すと愚痴を言うのは、女性のクライアントに共通しています。そして感情へのアクセスの欠落は、関係にたいへんな問題をもたらします。

一方で、同じ問題を抱える多くの女性クライアントも私は知っています。感じることができず、頭の中で考える感情生活を送っていたのです。
生物学的には女性であるにもかかわらず、これらの女性は非常に明らかな文化的に偏った男性的特徴を示していました。
したがって、思考対感情は多くの人が思っているようにジェンダーに由来するものではないかもしれないと、私は考えています。

これは、性に基づく行動の領域にある多くのチャレンジの一つを指摘していると思います。すなわち、文化的なフィルターが作用しているのです。私たちは男は男らしく、女は女らしくあることを期待しているのです。これは時には真実である一方で、たびたびそうではありません。
厳密な性のステレオタイプへ誰もが閉じ込められることは、本質的にある種の精神的で社会的な監禁です。
実際に、ある男性は(社会的な観点からすれば)女っぽく行動する一方で、ある女性は男っぽく行動します。これは、彼らの一面となっている、前に述べた個人的なアニマとアニムスという多くの要因の答えになるかもしれません。
しかし、理由が何であれ、パートナーのいる個人が思考を通して一人で世界を分類する一方で、別の一人は感情を通して分類するとき、地下室にはパートナーシップの難しさがしかけられています。

一般に男性は、いくつかの要因によって女性との関係の中で要求をされます。
一例としては、言及したように、彼らは感情的弱みを拒絶し、自分の気持ちを話すことを楽しめない傾向にあります。一般的にいって、女性は関係がどうなっているのか教えてくれるバロメーターとして感情を使うので、これだと女性にとって問題があります。

男女関係の別のチャレンジは、感情的な問題が起こったときに男性が型どおりの反応をする傾向にあることです。私は何度も何度も治療中の夫婦にこのことを見てきました。女性がわかりにくい感情的な事柄をもちこむと、決まって男性をパニック状態に追い込んでしまうのです。

男性は主導権を握って、決まった方向へと動こうとする傾向にあります。
パートナーが困っているとき、男性は解決するために何かしたいと望みます。しかし時々、多分たいてい、女性が気持ちを打ち明けるときには、そのことに対して何かしてほしいとは望んでいないのです。
女性はただ聞いてわかってほしいだけで、気持ちを確かめられて無視されないことを望んでいるのです。

拒絶とプライド

私たちのほとんどは、自分は間違っていると認めることが好きではありません。すべきではないとわかっていることをしてしまったとき、多くは嘘をついてしまうようにみえます。

私は、数年前の義母とのできごとを思い出します。
彼女は糖尿病でキャンディを食べてはなりませんでした。守らねばならぬ習慣でした。ある午後、タクシーを待っている間、義母がお財布から口に何かを器用に滑りこませたのに気づきました。周りは突如、かすかなチョコレートのにおいで満ちました。義父は彼女のほうをふりかえって言いました。「またキャンディを食べてるな?」

「食べへなひ!」彼女は言いました。言葉は口の中のボンボンの大きさゆえにモゴモゴしていました。義父はお財布をつかみ、隠し場所を明らかにするために開けました。まるで、ハロウィーンのトリックオアトリートをする子供のように誇らしげに。

自分を含めて多くの人は、私がマーリンの要因と呼ぶ事柄によって動いています。伝説の魔法使いマーリンについてではなく、飼い犬のマーリンについて述べています。
マーリンは、セントバーナードとブラッドハウンドとグレートデンとマスチフとが、ごちゃ混ぜになった犬でした。全盛期は、マーリンは約160ポンド(訳注:約72.5kg)で、尾から鼻までが6フィート強(訳注:約183cm)ありました。

もしそうするのを許すなら、マーリンはひざの上で丸くなろうとしたでしょう。ねぐらで家族とテレビを見るのも好きでした。おおげさではなく、ソファの端にすわっても前足は床についていました。それくらい大きかったのです。

けれど、彼のお気に入りは私たちの側や後ろや向こうがわのソファで大の字になることでした。ここで、私たちをがっかりさせたことがちょっと、ええ……彼はブラッドハウンドの血が入っていて、特に鹿のフンを巻き込んだあとの体臭は圧倒的でした。彼は家の周りの森で用を足すことが大好きだったのです。

それは、少なくとも週に2~3回経験する儀式でした。そして多分、拒絶の心理学とはイヌ科にルーツがあったのだと私に思わせました。
マーリンはもし自分が人を見ないなら、自分のことも見られないだろうと思っていました。
彼はソファの上深く、自分が行くべきではないとわかっている場所へ、こっそり上るようになったのです。ソファの後ろへとそろそろ近づいたかもしれません。そう、後ろへ。そして、まるでそうすることで自分が不可視になるかのように、いつもの通り私たちから目をそらしました。決まって、家族の一人が「マーリン」と犬にも大体わかるような不満げな声でいいました。マーリンはいつもショックを受けた顔で私たちを振り返りました。何でボクを見ることができたの?といったように。

人間の拒絶は、このようなものだと思います。
もし気づかないふりをしたならば、周りの人も多分気づかないでしょう。これは時に喜劇になりうる一方で、人間関係の、もっと正確に言うならば聖なる絆の深刻な問題にもなります。

拒絶は実際に、ある関係の中で行われています。
それなしでも事実、あるカップルは別れてしまうでしょう。しかし聖なる絆は、相互の真実と真実の基盤の上に築かれているのです。パートナーへの誠実さ抜きに、聖なる絆は存在しえません。
そして、拒絶はある関係へ終わりを告げる鐘のようなものです。

パートナーシップで全てにおいてお互いにやましい点がなく誠実であることは、非常に謙虚な経験になりうります。きわめて誠実であることは、うざったくもあります。
パートナーシップのためにならない態度や行動をする自分かパートナーに向き合わされることは、個人の人格そのものに向き合わされるということです。もっと厳密に言えば、性格の欠陥に向き合わされることです。

当時80代だった友達の言葉を、私は忘れないでしょう。
「私たちはみんな、致命的な欠陥を持っているの。大切なことは欠陥とともに行われる。それは価値があるいうこと」

聖なる絆に必要とされる誠実さと完璧さは隠された弱点や欠陥を、意識の上に速やかにもたらすことがあります。こういった自覚は向き合うのが難しい一方で、少なくとも私の意見としては、こういうことなしで真の精神的でスピリチュアルな成長はできません。

多くの人にとって問題なのは、自分の弱点や欠陥と向き合うことが混乱を生じうるということです。私たち誰もがそんなことは存在しないというふりをするか、向き合うことを強いられたならばプライドからカッとなります。

私はここで、ポジティブな自尊心に関係する種類のプライドについて話しているわけではありません。問題をはぐらかすプライドについて話しています。
自覚によって向き合わされることを避ける要素が他に何もないとき、プライドはよくカッとなるという仕事をするでしょう。
私のノートパソコンの百科辞典によれば二つの単語が類語にありますが、多分傲慢と言ったほうがいいでしょう。傲慢さは他人の気をそぎます。大きな隔たりを作り、そのような態度では、ほとんどの人があきらめてしまうか離れていきます。

私は個人的に、多くの傲慢な別人格へニックネームをつけることが役立つと思っています。彼らのうちの一人を、チャールズ・トーマスと名づけました。
これは父の名で、私のアニムス(内在化された男性面)は不幸なことに、いくつかのネガティブな性質、例えば頑固といった性質がありました。
私はダチョウみたいな面もあります。ご存知のとおり、ダチョウは危険だったり脅威だったりすると素早い行動に出ます。頭を地面につっこむのです!これは前にご紹介した飼い犬、マーリンの別バージョンでしょう。

ともかく、ニックネームをつけると、心理学的側面をめぐるいくつかの感情的な負担をやわらげるのに役立つのです。自分のためにやってみてください。
次にタチが悪く気のきかない自分の一人が心理的な地下世界から浮かび上がってきたら、名前を呼んでギョッとさせてやりましょう。

聖なる絆に取り組んでいる人みんなが、自分自身に対して智恵を持つ必要があるので、私はこのちょっとした面白い提案をいたします。集められるすべての手段が必要なのです。
そうすれば、気が利かなくてその影響で露骨にネガティブな自分の側面が浮き上がってきたとき、即座に最善の対処ができるでしょう。
自分自身のネガティブな側面は、関係を混乱させてめちゃくちゃにできます。ですから、私のアドバイスはそういう側面に直面したとき、ユーモアと同じくらいできるだけ早く迅速にすべてを働かせなくするのです。

聖なる絆の経験を生きることに取り組んでいる人は、地図の助けや文化的理解なしにそうします。それは実に、道のない旅です。そして他の同志へある旅人として、私はシンプルで実践的なアドバイスをします。拒絶、プライド、そして傲慢さは、最悪で最も認識しにくい敵となるでしょう。それらは最も変な時に現れ、そうする時、この提案は内なる深みを見せてくれるでしょう。
あなたは何を避けようとしていますか? そして、なぜ?

結論

男女関係の家に生活する人へ送れるアドバイスがあるとしたら、互いへ無意識の欲望を投影することなく、互いを純粋に理解する道を探ることです。そして、自分たちの違いを褒めたたえる必要があります。結局、人生の面白みを作るのは個々のユニークさなのです。
繁栄する関係は、パートナーがまったく同じことをすること、まったく同じ方法で世界を見たり経験することを要求しません。受容と感謝、相互の尊敬があるかぎり。

ついに、時々トイレがつまろうとしていることを知ります。この意味は、片方もしくは両方がありあまる恨みを飲み込んでいるということです。そして今、それに対処すべき時です。
恨みが小さなとき、明らかに対処するのはより早く済んで混乱しません。けれど、対処する機会を失ったら、トイレはもはや流れず、身動きできないでしょう。

詰まりの問題があるとき、もしくは何かが感情的に難しくなったとき、家を見捨てる暗示であると考える人がどのくらいなのかに、びっくりするかもしれません。
こういう人たちへ、私はこの言葉を送ります。

人生を手に入れましょう。
責任を取りなさい。
パートナーと心を通わせる会話をしましょう。
何事もはっきりしましょう。
次からは、パートナーからのどんなウンコも飲み込んではいけません。
何か起こったとき、責めることなく、ごまかすことなく、はずかしめることなく、相手の意識へそれを持っていきましょう。

さて、時に家を去るので最も大切なことは、hit the road Jackの歌にもあるとおり、もうもはや戻ってこないということです。
もしパートナーか感情的虐待によって身体的に脅かされているならば、巧みなごまかしから地獄に行く方法を理解しているでしょう。ある関係に戦う価値はありません。ある人は有毒で虐待される必要があるのです。
しかし残念なことに、私は家を救う価値があるかどうか判断できる魔法の杖を持っていません。あなただけが、それを決められるのです。けれど、パートナーが関係について自分の気持ちを話すことすらよしとしていないならば、それは違うと腹の底でわかっているのに全てはこのままでいいと主張するならば、それなら、荷物をまとめはじめるべき明らかなサイン、さもなくば去ることができないであろうと言えます。その後は心理学的に言って、自分自身をケアする方法を見つけましょう。
言い換えると、ネガティブな関係に自分の感覚や自尊心を傷つけさせないようにしましょう。

男女関係の家にいて互いを許しあう勇気と恵みを見つけることを選んだ人にとって、よく魔法のようなことが結末になります。心理学的な投影と恨みによって互いから光を奪っていたパートナーは、いくつかの場合ははじめて、突如として互いがハッキリ見えることに気づきます。

家の大層暗かったこの部屋は、苦労して得た自己覚醒の貴重な光で突然輝くようになるのです。
互いに私たちを隔てていた壁が簡単に分解されるので、レンガの壁に面する部屋は突然日光で満ちるのです。

アニマとアニムスの錬金術的象徴性

特にヨーロッパ以外でのある錬金術的伝説で、アニマとアニムスのバランスをとることは、聖なる両性と呼ばれ、半分は男性で半分は女性の両性具有として表されました。
ある伝説の中で、この形は実際に聖なる両性具有、ヘルメスとアフロディテの融合、男性と女性の神の顔である言葉と言われています。

錬金術的聖像学では、両性具有の形はよくかまどか火を由来として、時には太陽と月も頭上に一緒に描写されています。
火は賢者の石の完成のために必須の清められた錬金術の火を示しています。賢者の石とは、(少なくとも内なる錬金術の秘儀的な形としては)霊的な気づきの高められた状態を示します。
錬金術の秘儀的な(または外側の)形で、賢者の石は鉛や卑金属を金に変えられる鍵の触媒であると信じられていました。

秘儀的錬金術で、両性具有者の上の太陽と月は意識の陰陽の側面のバランスを示しています。錬金術的に言って、太陽は男性(アニムス)と魂をあらわし、一方で月は女性(アニムス)と物質をあらわします。
霊的な錬金術の神聖なる任務は、聖なる両性具有者を作りだすために太陽と月のバランスをとることです。それで、人は霊的な知覚における高次の領域へつながりを得られるのです。

文脈が霊的である錬金術的な形ではありませんが、これはユング心理学の課題と非常に類似しています。ユングのワークでは、状況は心理学的か多分精神的で霊的であります。

内なる錬金術的聖像学で両性具有の慣習は、他の伝説でも同様にはっきりと見られます。
高められた両性具有であるシヴァの形があります。シヴァは死の神であり、ヨギーとヨギーニ(訳注:ヨガの修行者)の守護者でもあります。両性具有の形で、彼はシャクティ(宇宙の女性的な力)と溶け合わされています。

アルダナーリーシュヴァラという形で、シヴァは両性具有、男性でも女性でもあり、両性の生殖器を描写されています。
この普通ではない象徴性は、タントラヨガの錬金術的な深い秘密のひとつを伝えています。内なる男性と女性が調和のうちに結合するとき、偉大なるスピリチュアルパワーが得られるのです。

内なるエネルギーのこの調和は、実際に特定のヨガの課題となっています。
ヨガの分析によると、私たちには頭頂部へと脊柱をかけあがる三つの精妙な経路があります。
中央の経路はスシュムナーと呼ばれ、(とぐをろまいた生命力の蛇として、そして女性性として表現される)クンダリーニシャクティの道です。
脊柱を上がるとき、頭へ入って光明か解放をもたらすためシヴァと結びつきます。

スシュムナーの両側は二つの経路で、内なる太陽(もしくは意識の男性的側面)に関連付けられるものと、内なる月(もしくは意識の女性的側面)に関連付けられるものがあります。
太陽の経路はピンガーラと呼ばれ、月の経路はイダーと呼ばれます。
ピンガーラとイダーのエネルギーが調和したとき、ヨガ修行者は常に存在する超越した自分をちらりと見ることができます。

意識の男性性と女性性のバランスを取るというテーマは、チベット仏教でも同様に、性的でスピリチュアルなエクスタシーの中で男性と女性の神性の融合を描写するカラチャクラの形で見てとれます。カラチャクラの観点では、男性性と女性性の調和点が人間であろうと超人であろうと全ての存在と全ての創造物の根源となります。

東洋の伝説からユダヤ・キリスト教へ話題を移して、聖なる両性具有のテーマが最も思わぬ場所で繰り返されていたのを見ることができます。

トマスによる福音書は、ナグ・ハマディ写本群として知られるようになったものの一部として、エジプトで発見された20世紀半ばまで失われていた写本です。

この福音書の中で、典型的な錬金術の聖なる両性具有とシヴァ王のアルダナーリーシュヴァラの形さえ著しく類似していることで、イエスが引き合いに出されています。

「二人を一つにするとき、外側のように内側を、内側のように外側を、下のように上を扱うとき、女性性も全く同じように扱うとき、男性は男性ではなく女性も女性ではなくなる…そしてあなたは(王国へと)入っていくのです。」

この一文が、肉体的な両性具有と関係があるとは思いません。そうではなく、むしろ王国とは意識の内なる男性と女性の側面を調和させるときに達成される、精神や気づきの状態であるのです。

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訳者(Nozomi)注
トムは「全てのメッセージを含み、どんな改変も無く、売買することなく、著作権表示をしてくれる限り、あなたが望むならどんな形式でもこのメッセージの複製および配布を許可します」と表明しています。
よって、この翻訳もそれに準じます。

2012年07月01日 | Posted in 考察と所見 | タグ: , Comments Closed 

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